第10話 近い
放課後の教室は、昼よりも静かだった。
それでも、完全に無音というわけじゃない。
数人が残っていて、それぞれに時間を潰している。
窓の外は、少しだけ暗くなり始めていた。
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「……帰らねえのか」
声をかける。
紗夜は席に座ったまま、顔を上げなかった。
「……そのうち」
短く、それだけ。
少しだけ間が空く。
教室の後ろで、誰かが椅子を引く音がした。
それがやけに大きく響く。
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「橘ー」
聞き慣れた声。
振り返ると、久保がいた。
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「まだいたのかよ」
「お前もだろ」
笑いながら、近づいてくる。
その動きが、ほんの少しだけぎこちない気がした。
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「なあ」
久保が、ふと立ち止まる。
「今日さ」
「ん?」
「なんか、変じゃね?」
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「は?」
思わず聞き返す。
「いや、なんていうか」
久保は少しだけ言葉を探して、
「……うまく言えないんだけどさ」
笑う。
でも、そのタイミングが少しだけ遅い。
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「気のせいだろ」
「かもな」
すぐに流れる。
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そのときだった。
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「……っ」
紗夜が、小さく息を詰めた。
振り返る。
紗夜は、さっきよりも少しだけ俯いていた。
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「おい」
声をかける。
「……いる」
短く、それだけ。
教室の空気が、少しだけ変わる。
何かがあるわけじゃない。
でも、さっきまでと同じじゃない。
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「……なあ、橘」
久保の声。
さっきより少しだけ近い。
「これ……こんな感じだったっけ」
何が、とは言わない。
でも、その瞬間、
空気が、少しだけ重くなる。
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「……ねえ」
後ろから、声が落ちる。
「……近い」
振り返ると、紗夜は目を閉じていた。
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「おい」
返事はない。
少しだけ、呼吸が乱れている。
さっきよりも、明らかに浅い。
「……入ってくる」
絞り出すみたいな声だった。
「……多すぎる……」
紗夜の手が、机を強く掴む。
指先が、わずかに震えていた。
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「……っ、やば……」
小さく、息を詰める。
教室の音が、少しだけ遠くなる。
笑い声も、椅子の音も、
全部そのままのはずなのに。
どこか、重い。
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「……離れて」
かすれた声。
「無理だ」
間を置かず、返す。
「なんで……」
「そのままじゃ倒れるだろ」
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一瞬だけ、
紗夜がこっちを見る。
その目は、
さっきまでと違っていた。
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次の瞬間、
力が抜ける。
とっさに支える。
軽い。
思っていたよりも、ずっと。
「おい」
返事はない。
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教室の音だけが、遠くで続いている。
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ただ、
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「……近い」




