第73話:「祝詞と代物」
その祝詞は誰を祝うものなのか、読んでみないと分からない
霧が足首から膝へと這い上がってくる。
旧鉱道の口は、岩壁を裂いたような形をしていた。
人の手で削られた、というには傷が深い。
削られた、というよりも——飲み込まれた跡だった。
(——湿気が、違うわね)
鼻の奥に湿った石と古い坑木の匂いが絡みつく。
火山地帯の硫黄でも、凍霧の谷の冷気でもない。
ここはもっと——時が饐える匂いがした。
(これは警戒が必要ね)
ガルドが躊躇せずに先に踏み込んだ。
ラピスが手元の杖を、確かめるように握り直した。
ジークが剣の柄に両手を預け直した。
「行くか」
「え、ええ」
霧の中に、四人分の足音が消えていく。
***
鉱道の壁は、最初はただの坑道だった。
廃れた金具。崩れた木枠。古い松明の灰。
だが、十歩ほど進んだところでジークが足を止めた。
「アナ様」
ジークの視線の先に、ひと固まりの装備が転がっていた。
鞘から半分抜けた長剣。
裂けたマント。
皮の手甲が、片方だけ。
そして苔の上で薄く煤を吸った、
小さな金属の祭器。
(複数のパーティが戻ってない、ってあの女が言ってたわね)
ガルドが片膝をついた。
祭器をごつい指で持ち上げる。
円盤の表面に直線と渦巻きの刻印が走っていた。
(——どこかで、見た)
火山地帯で岩壁に沈んでいた、
あの古い文字と同じ系統だった。
(古い帝国語じゃない。もっと、前のもの)
ガルドの隣で、私はしゃがんだ。
祭器の縁に薄く新しい煤が乗っている。
触れて指先で撫でた。
指先の感覚が、わずかに鈍くなった。
(——誰かが、最近、ここで、これを読んだ)
「ラピス。」
「いえ、アナ様の方が」
ラピスが口の端を、わずかに上げた。
(——確かに、私が読んだ方が早い)
私は祭器に目を落とした。
スキル:言語習得が発動し、
意味が勝手に流れ込んでくる。
「実りを採る者、来たれ」
「響かせるなかれ」
「眠る道は、実りを採る者を祝福する」
——三行。
古代の刻印にしては、随分と優しい文言だった。
「祝福、ですか」
ラピスがわずかに首を傾けた。
「ええ。歓迎の刻印。古代の祝詞の一節かしら」
「歓迎、か」
ガルドが低く鼻を鳴らした。
「歓迎されてるのに、装備、置いて消えてんのか?あいつら」
(——確かに)
「警戒を続けましょう」
久しぶりのクエストにジークは人一倍意気込んでいた。
***
祭器をラピスの鞄に収めた。
持ち主が戻ってきたら返す。
戻ってこなかったら——その時はその時。
それが冒険者だ。
もはやラピスも立派な冒険者になっていた。
ひとしきり装備を検め、長剣を突き立て祈りを捧げる。
誰かが大きく息を吐いたのが合図となり、奥へ進んでいく。
しばらく歩くと、最初の襲撃が来た。
壁から、ぽとり、ぽとり、と落ちてきたのは握り拳ほどの甲殻だった。
背中に薄い緑の苔。脚が六本。
口元で薄い鎌のような顎が震えている。
「——なに、これ」
ガルドの拳が一閃。甲殻が岩壁に潰れた。
「鉱道のゴ——」
「ちょっと!もう少し言い方あるでしょ?」
「ねえな」
天井からもう一群、落ちてくる。
1匹いたら100匹いると疑えという教え通り
まさに、アレだった。
ラピスが杖を構えた。
詠唱が、空気の中を撫でる。
細い水流が、湿った天井の苔を伝って、
甲殻を四つ、五つ、まとめて剥がし落とした。
「——軽い」
ラピスが自分の手元を見た。
「え!?」
自身の魔法の威力に思わずドルンから貸与された杖を二度見した。
一方、ジークは剣の平らな面で、
最後の一匹を横に押さえつけた。
殺さずに岩壁に押し固める。
「斬らずに、止める」
ジークの口元がわずかに緩んだが
自分の剣の鞘を、軽く撫でながら剣先を凝視した。
「この剣も不思議です。重いのに軽すぎる」
私はその間に衝撃波を針に絞った。
天井に張りついていた残りを、
まとめて岩肌に縫いつける。
ぼたぼたと落ちる音。
一通りウォーミングアップにもならない戦いを終えたあと
ラピスの目が、自分の杖とジークの剣を交互に見た。
「あなたたち、その武器は自分のじゃないの?」
「嬢ちゃん、もう少し二人に気を配ってやれよ」
「表情もいつもと同じだし、心なしか肌艶がいいわ」
「アナ様・・・」
「姫・・・」
ガルドが、低く笑った。
「お前ら、気をつけろよ」
「私の何が問題なの?」
「違げえよ。それ壊したら、
あの爺さんの工房で、二、三年、タダ働きだからな」
ジークの剣を握る手が、わずかに止まった。
ラピスの杖を握る指の力が、ほんの少しだけ抜けた。
「——え」
「冗談、ですよね?」
「冗談で言うか」
ガルドの肩が、低く揺れている。
「錆が落ちたあいつなら、
片手間で打った武器ですら、武器屋に並ばねえ代物だ。」
「言うのが、遅くないですか……!」
ラピスの声が、わずかに上ずった。
「最初に言ったら、お前ら、握れねえだろうが」
(——確かに)
呼吸がほとんど乱れない。
四人の連携が確認できた程度の手応えだった。
ただ二人の顔の青ざめ方だけは、別の意味で歯応えがあった。
「でも、なんでこんなんで冒険者が消えてしまうんでしょう。」
話題を変えようとした何気ないジークの一言で
私の背筋に薄く、汗が浮いた。
***
奥へ、奥へ。
鉱道の壁が徐々に湿りを増す。
ドルンが地図に印を付けた、赤い場所
——幻鉄のありからしき地点が近づいてくる。
「あと、少しだ」
ガルドが地図の角を指で叩いた。
その時——通路の先で何かが立っていた。
(——大きい)
人よりふた回りほど大きい。四つ足で立っていた。
背中の輪郭が——揺れていた。
(揺れて、ない?)
瞬きを、一つ。
次に見た時、その輪郭はもう別の形だった。
肩から伸びる腕が二本だったのが、三本に増えていた。
背中の瘤が別の場所に移っていた。
(——形が、変わる)
「ガルド。」
「分かってる」
ガルドが拳を構えた。光は宿らない。
ジークとラピスの表情も強張った。
(——タダ働きにならない範囲で、戦いなさいよ、二人)
***
相手は強くなかった。
少なくとも速さで揺さぶるでも
少なくとも力で押してくるでも
さらにいえば魔法で惑わしてくるでもなかった。
けれど、戦いづらい。
ラピスの水流魔法は、相手の足元を撫でか蹴るだけで終わった。
撫でようとした場所の足が、もう別の場所に移っていたからだ。
ジークの剣の平らな面は、押さえ込めそうで込めなかった。
押さえ込んだ箇所の瘤が別の場所に移ったからだ。
私の衝撃波の針は刺さるはずの場所に刺さらなかった。
刺さる直前に、刺さるべき場所が消えていた。
(——なに、これ)
喉の奥で何かが刺さっているかのような違和感。
これは強さではない。
これは狡さだ。
こういう時、いつもなら——
頭の中で誰かがこう囁いたはずだった。
『あら、面倒な子ね』
『お馬鹿さん、こうやって読むのよ』
——しない。
頭の中は相変わらず静かだった。
(——いないなら、いないでいいわよ)
(遅かれ早かれあなたがいなくても、
戦えるようにならないと——いけないんだから)
息を吐く。
影の蛇は出ない。
出ないなら他のもので勝つ。
私は衝撃波の面を広げた。
針ではなく壁。形が変わる相手の全体を一度に押し返す。
いつもよりは威力が弱いが、相手の体を岩壁押し付けた。
ガルドの拳が押さえ込みに来る。
ラピスの杖の先で水流がもう一度、相手の足元に走った。
今度は、足が滑る。
形が変わる隙を与えず、
ジークの剣の刃が相手の脈打つ場所を貫いた。
「……外せませんでした」
ジークが自分の剣の柄を見た。
壊れていない。
安堵が、わずかに眉に出ていた。
(——応急でこの精度なら、ドルンの本命はどんなものなのかしら)
相手は岩壁に崩れ落ちた。
変形が止まった。ただの肉の塊になった。
***
「——何だ、こいつ」
ガルドが相手の死骸をつま先で軽く転がした。
「……変な感触ね」
久しぶりの四人の戦闘で
やっと呼吸が整い始めた、その時——
通路の奥から地鳴りが届いた。
低く、長く、大量の足音の集合。
皮膚の表面が、ざわっと粟立った。
「来るぞ」
ガルドが拳を構え直した。
ラピスが杖を構え直す。
ジークが剣を両手で握り直す。
(——大群)
どれくらいの数か分からない。
分からないが——多い。
地鳴りが近くなる。
通路の暗がりの奥から赤い目が無数に灯った。
そして地鳴りのような音が鳴り響いた。
「臨戦!」
その声と共に私たちではない叫び声が、その奥から木霊した。
「逃げろ!!」
ドルンの腕前の片鱗が分かりましたね。
武器が完成したら一体どうなるのでしょうか?
さあ、暗闇の奥から地鳴りのような音、そして「逃げろ」と叫んだ人は誰なのか?
この後、一体何起きるのでしょうか。
次回更新は5/26(火)を予定しています。




