第72話:「闇の間に間に」
夜は男を雄弁にする。
宿の窓の外で、月が、雲を抜けて、また顔を出した。
窓辺のベッドで、私は、薄く目を開けていた。
体は重い。
膝の裏の疲労が、まだ抜けていない。
(——眠れない)
暇つぶしに羊でも数えようとしていた
その時——
廊下の方で、軽い、足音がした。
(——ガルド)
体の重さで、すぐに分かった。
鋼の塊が忍び足で、廊下を歩いている音だった。
(外に、出る)
体を、起こした。
足元に、影を、呼ぶ。
——出ない。
地面から、立ち上がろうとして、すぐに崩れた。
形に、なれなかった。
(気分屋ね、本当に——あなた、いつ、戻ってくるのよ)
窓に、近付くとガルドの広い背中が、宿の通用口から、出ていく。
工房の方向だった。
(——あの視線は、そういうことだったのね)
ただ、追いかけない。
いや、追いかけられない。
代わりに、ベッドに戻った。目を、閉じる。
両手を、胸の前で組んだ。
言語理解。
世界の音を、意味に変えるスキル。
集中力を、限界まで上げる。
外の音を、束ねる。
——夜風の、葉擦れ。
——遠くの、犬の唸り。
——もっと、奥の——
(パチン)
頭の中で何かが弾けた。
内なる女が休眠中の今。
アナの全ての能力が低下してしまっていることに、
アナはまだ気付いていない。
(肝心な時に、使えないわね。)
「今から追いかけても、私の足じゃあ話終わってるわよね。」
深く深呼吸をし、もう一度試してみる。
今度はカルドとドルンの声を思い出し、
その声だけを拾いとる。
「——あったわ。」
工房の、低い声。
ただ、ノイズがひどい。
砂嵐の中から、2人の太い声がかすかに聞こえる。
***
「やめろ、ガキ。___装備なんざ、俺ぁ打たねえ」
ドルンの声だった。
低く、固い。
昼の軽口とは、別の質感だった。
(ひと言、抜け落ちた)
「もう、やってる」
感情までは読めないが、ガルドの声だ。
「……何で、削ってる」
(——削ってる?——何を)
「身体強化のスキルだ」
(——身体強化。私たちの目的地、ハルバード。)
「……あそこの、流派か」
ドルンが、言った。一拍。
「……まあな」
ガルドが、応えた。
「あの場所、まだ——」
「あいつらを、強くするために、行くつもりだ」
(——ただの身体強化よね?)
一拍。
「俺一人なら、戻らねえ」
「だが、あいつらが、行くなら、付き合う」
(——戻りたくない場所——でも、私たちのために、戻る場所)
胃の底の冷たさが、別の場所で、軽く震えた。
それは、寒さではなかった。
***
ガルドの覚悟に、ドルンは答えるしかなかった。
炉の中で、火が、起きた音がした。
ドルンが、ふいごを踏んだ音だった。
空気が、揺れる。
工房の音圧が、一気に厚みを増した。
炉の唸り。
槌が鉄敷に当たる、最初の一打。
音が夜の街に響いた。
「だったら——せめて——
てめえの覚悟を無駄にしねえ、
変換効率のいい逸品を作ってやる」
長い沈黙。
ガルドは何も答えなかった。
ドルンもこれ以上、何も言わなかった。
2人は、小さなお姫様の言語理解が
ここまで及ぶかもしれない可能性にやっと気付いたのだった。
***
(聞こえない。何の、どんな覚悟なの。)
ドルンの工房でのオーダーを、必死に思い出した。
ラピスの「守るために、強くなる」。
ジークの「斬る以外のことも、できる剣を」。
ナーガは「治癒で、自分を守らせる」。
私の「集中力と、魔力の燃費」。
ガルドの、「攻撃力アップ。以上だ」。
(——五つの、覚悟)
そう思っていた。でも違う。
(——五つでは、なかった)
ガルドのそれは覚悟ではなかった。
昼に口にしなかったものは、ただの希望。
夜の静けさの中で口にした、本当の覚悟。
(——六つ目の、覚悟)
消えたひと言。
何かを削って攻撃力に転化する、身体強化の術。
それを効率よくするための武器。
(——たぶん私が聞いても答えてくれない)
(気になる。でも、聞いてしまったらガルドの覚悟が揺らいでしまう)
(——その欠けてる場所に、たぶん答えがある)
(——いつか、聞かなきゃいけない)
(——でも、今じゃない)
目を、もう一度、閉じた。
槌の音が、夜に響いた。
規則的に響き続けた。
疲れが溜まったアナの体には、
それすらも子守唄になったしまった。
ガルドの決意はアナに届くことなく、闇に消えていった。
***
夜明け前の鍛冶郷は、煙突の煙だけが、薄く立ち上っていた。
宿の窓から外を見ても、街道の影はまだ青い。
鍛冶屋の炉が何軒か、もう起きている。
——その中には、ドルンの工房の煙も混じっていた。
(——夜通し、打ってたのね)
昨夜の槌の音は、子守唄になったまま、いつの間にか、止まっていた。
今、空気を渡ってくるのは、もう、燻った炭の匂いだけだった。
(あの人、ちゃんと、寝たのかしら)
聞かない。自分のことを言える立場でもなかった。
私自身、何度も、寝返りを打った。
打つたびに、『削れる』の前後の欠けた言葉が。頭の中で鳴った。
(——置いてきたのよ、夜の中に)
そう、決めた。
目を深く閉じて、大きく開ける。
ベッドの縁に、腰を下ろした。
***
身支度を、整えた。
腰の包みを、確認する。
凍霧の結晶も、芯ももうドルンの机の上。
今、包みは軽い。ただ、軽すぎる。
包みに手をやると、銀色の小さな器が指に触れた。
——ゼノスから渡された、魔道通信器。
——普段、見ない。
「見ない方がいい。今はね」
あの、温度のない声を思い出す。
(——見ないでおく。これ以上心配事は増やしたくはない。)
器を、袋に押し戻した。
ゼノスがラピスに注意した通信機。
アナが見るのを躊躇った通信機。
誰にも見られることのなかった通信機には
「ERROR」の文字が光っていた。
***
医務室の扉を、軽く叩いた。
「アナ様」
ラピスが、すぐに開けた。
目の下に、薄い隈ができている。
——ジークと交代で、ナーガの傍に座っていたのだろう。
「ナーガは」
「呼吸は保っています。ただ、」
ラピスの目が、奥の寝台の方を、見た。
ナーガの白い唇が、薄く、上下していた。
——目は、まだ、開かない。
「医者とジークに預けるわ」
「ジークは——」
と言いかけラピスが視線を、自分の隣の壁に向けた。
その壁の手前で、ジークが騎士の装束に戻っていた。
剣の柄に両手を、預けて立っていた。
「私は、行きます」
静かな声だった。
「斬る以外のことが、できる剣を頼んでおきました」
「その剣が、まだ私の手元にはないですが、ナーガはもう守り切りました。
だから私が、守るべき存在は姫です。」
(言うようになったわね)
主人を握り損ねて続けていた両の掌で
相棒をもう離すまいとしっかり握っていた。
「行きましょう」
ラピスが、頷いた。
***
宿の前に、ガルドが、立っていた。
腕を組んで、東の空を見ていた。
夜明けの最初の白が、空の縁に、薄く滲み始めていた。
(——いつ、戻ってきたのかしら)
聞かない。
ガルドは私たちを見て、軽く顎を引いた。
「行くか」
「ええ」
普段の声だった。
——夜の覚悟は、夜の中に置いてきた。
男の気持ちは分からないが、そんな顔をしていた。
(私は、待つわよ。)
***
冒険者ギルドの扉を、押し開けた。
早朝の館内は、まばらだった。
カウンターの奥で、受付の女が、欠伸を噛み殺している。
依頼板の前に立った。
新しい紙片が、貼られていた。
「西の旧鉱道、調査依頼。Cランク。」
(——これね)
ただ、すぐに取りはしない。
わざとらしく私たちは掲示板に目を走らせる。
人は後ろめたい気持ちの時は、意味のない行動を取りがちだ。
アナの行動を男性陣は不思議そうに眺めている。
(——そろそろ、いいかしら)
刻まれた地名は机の上で見せられた地図の、赤い印とぴったり重なっていた。
「これにするわ」
受付の女が、驚いたように前日の引き継ぎ書を探していた
「すみません。こちらの依頼Cランクですが・・・」
私たちの企みがバレたのかと焦る気持ちを隠し平然を装った。
「ど、どうしたの?」
「あの鉱道がおとといからの夜霧で何組か戻ってません。」
「戻ってない、ってことは」
「行った先で、何かやべえ奴と出会ったってことだろう」
(——含み)
受付の女の目が、わずかに、揺れた。
「ま、行くしかねえだろ」
そう。私たちはランクAの場所に行く。
誰が帰って無かろうと、行くしかない。
「受けるわ」
「期限は三日。報告は必ず本人が。」
判子が、紙の縁に打たれた。
真のクエストの重さの割に、ぺたっと軽い音がした。
***
ギルドを出ると東の空が、半分明るくなっていた。
「補給は」
「街道沿いの、最後の集落で」
ガルドが、短く、言った。
「ここから先、店は、減る」
「分かったわ」
鍛冶郷の門を抜けると、すぐさま石畳が土の道に変わる。
***
西の街道は、まだ青かった。
朝霧が薄く、足元を覆っている。
横を歩くガルドの背中を、見た。
昨夜、宿の通用口を出ていった、あの背中だった。
工房で、ドルンに、何かを、頼んだ、あの背中。
(——でも、今は聞かない。)
ジークが、私の半歩後ろを歩いていた。
規則的に土を刻む音が、久しぶりで懐かしい。
ラピスは、その更に半歩後ろにいた。
胸の青い石に、時折指が触れていた。
(——四人ね、今日は)
(——ナーガ。あなたの分まで、覚悟持っていくわよ)
***
西の旧鉱道は、霧の中で口を開けて待っていた。
表向きは、Cランクの依頼。
裏側でAランクの場所へ、踏み込む。
頭の中は、相変わらず、静かだった。
(——いいわ)
(私が、起きてる)
(私たちが、踏み込む)
霧が、私たちの足を、ゆっくり、飲み始めていた。
ガルドの覚悟に隠された秘密はいつ明らかになるのでしょう。
アナたちとドルンの計画の裏で、何かが起きてる街道で一行の運命は。
そして、幻鉄は手に入れられるのでしょうか。
次回の更新は5/24(日)を予定しております。




