第66話:「十年と、半日と、」
時の長さがだけが因縁の深さじゃない。
「——あの時の、奴か」
ガルドが、低く呟いた。
霧氷狼の主が、四つの赤い目でこちらを見ていた。
いや、違う。
ナーガを見ていた。
弱った獲物を見つけた獣の目だった。雪の下にまだ残る小さな温もりを、爪で掘り返そうとする目だった。
ナーガの体は、ガルドの肩の上でぐったりしていた。
息は浅く、白い吐息さえ霧の中で細く千切れていく。
ガルドの胸の奥で、古い音がした。
十年前に凍りついたはずのものが、今さら氷を割って起き上がる音だった。
(——あの時、こいつが奪った)
ガルドは、ナーガを肩から下ろした。
乱暴には扱わなかった。ひび割れた器を置くように、そっと雪の上へ預ける。
「ジーク。ラピス」
ジークが振り返る。
ラピスも、徽章を握ったまま顔を上げた。
「ナーガを頼む」
「先に、街へ走れ」
ジークが、剣を構えたままガルドを見た。
「ガルドさんは」
ガルドが拳を握り直す。
骨が鳴った。
「俺と、嬢ちゃんで足止めだ」
ジークは一瞬だけ唇を噛んだ。
だが、すぐに頷いた。
ナーガを両腕に抱える。
軽かった。
軽すぎた。
人ひとりの重みではなく、消えかけた火を抱いているようだった。
「嬢ちゃん」
ガルドがアナに声をかける。
「ちょっと、手を貸してくれ」
アナは、霧氷狼の主から目を離さなかった。
「言われなくても、そのつもりよ」
ガルドが笑う。
「へ。さすがリーダーだ」
ジークが走り出した。
ラピスがその背を追う。
霧氷狼の主が咆哮した。
霧が裂け、雪面が波打つ。
主が二人を追おうと身を沈めた、その瞬間。
ガルドの拳が、鼻先を掠めた。
四つの赤い目が、ぎろりと動く。
ガルドは、その前に立っていた。
逃げ道を塞ぐ岩のように。
十年分の後悔を背負った、ただの男として。
「お前の相手は——こっちだ」
---
霧氷狼の主が、ガルドに向き直った。
ガルドの構えは普通だった。
英雄の型でも、剣聖の奥義でもない。
喧嘩慣れした男が、殴るために拳を上げただけの姿だった。
だが、目の奥だけが違っていた。
十年前に消え損ねた火が、灰の下でまだ燃えていた。
主が咆哮する。
凍結のブレスが地面を走った。
白い息ではない。死そのものが舌を伸ばし、雪原を舐めてくるようだった。
ガルドが横へ転がる。
肩が雪を削り、肘が凍った地面を打つ。
それでも、すぐに起き上がった。
「嬢ちゃん」
「何」
「こいつは、どうしても倒さねえといけねえ」
アナが左手を上げた。
袖の下で蛇紋が浮かぶ。肌の裏を、黒い水脈が走ったようだった。
「あなたの私利私欲に、付き合ってあげるわよ」
「助かる」
「勘違いしないで。ナーガを助けるついでよ」
「分かってる」
アナの影が、雪の上で蠢いた。
影の蛇が立ち上がる。
黒い。
霧の中でもなお黒く、夜から引き抜いた紐のように細く長い。
蛇たちは雪面を滑り、主の脚へ向かった。
絡みつく。
その寸前、弾かれた。
見えない壁に叩きつけられたように、影の蛇が砕け散る。
黒い欠片は、雪の上に落ちる前に消えた。
アナの目が見開かれる。
「——弾かれた?」
蛇紋が、ずきりと痛んだ。
拒まれただけではない。噛み返されたような痛みだった。
主が跳ぶ。
巨体が霧の中で消え、次の瞬間、ガルドの頭上へ落ちてくる。
凍結のブレスが足元を凍らせた。
地面が一瞬で鏡になる。
ガルドは氷を蹴って横へ飛んだ。
だが、着地の足が滑る。
「ガルド!」
アナが影の蛇を放つ。
今度は主ではなく、ガルドの体へ。
黒い蛇が腰と腕に絡み、強引に引き上げた。
主の爪が、髪一筋の差で空を裂く。
ガルドが雪の上に転がった。
すぐ膝をつく。息が荒い。
「思った以上に、堅えな」
「ええ。私の蛇が弾かれるなんて、感じ悪いにもほどがあるわ」
二人の吐息が、霧の中で重なる。
白い息はすぐに凍り、消えた。
ここでは、生きている証拠さえ長く残れないらしい。
***
ジークは走っていた。
ナーガを両腕に抱えている。
雪が深い。一歩ごとに足を取られ、膝まで沈む。
それでも、止まれなかった。
「ナーガ、しっかりしてください」
返事はない。
ナーガの体は冷たかった。
あまりに軽かった。
ジークは、腕の中に人を抱いている気がしなかった。
消えかけの灯火を、両手で囲って走っている気がした。
ナーガの呼吸が、間遠になる。
一回。
二回。
次が来ない。
ジークの足が、止まりかけた。
「ジーク!」
後ろから、ラピスの声が飛ぶ。
「止まらないで!」
「でも、ナーガが——」
「進んでください!」
ラピスの声は震えていた。
震えているのに、折れていなかった。
ジークは奥歯を噛みしめ、また雪を蹴る。
ラピスは徽章を胸の前で握っていた。
青い光が、指の隙間から滲んでいる。
弱い光だった。
けれど霧の中では、その弱ささえ祈りに見えた。
(兄上)
(力を、貸してください)
徽章が淡く震える。
ラピスの足元の雪が締まった。
ジークの踏み出す先も、薄い氷の道のように固まっていく。
足が沈まない。
速度が上がる。
「ありがとうございます、ラピス様」
「礼は、後です。今は、走って」
街の門が、霧の向こうに滲んでいた。
見えている。
なのに、遠い。
冬の底から見上げる月のように、手が届かなかった。
***
霧氷狼の主が、再び咆哮した。
凍結のブレスが霧を固める。
白い靄が刃のように散った。
「アナ、今だ!」
ガルドが叫ぶ。
アナが左手を突き出した。
蛇紋が疼く。肌の内側で、黒いものが目を覚ます。
影の蛇が、主の胸へ伸びる。
今度は近い。
防ぐ暇を奪う距離だった。
だが、主が体を捻った瞬間、影の蛇はまた弾かれた。
アナの腕に痛みが走る。
自分の神経を、直接噛まれたようだった。
(——届かない)
(何なのよ、これ)
「ガルド!」
「分かってる!」
ガルドが主の懐へ飛び込む。
脇腹に拳を叩き込んだ。
岩を殴ったような音がした。
だが、主は唸っただけだった。
怯まない。
主の尾が丸太のようにガルドを薙ぐ。
ガルドの体が宙へ浮き、雪の上を転がった。
白い雪に、赤が散る。
「……ぐっ」
アナが駆け寄ろうとする。
「動くな、嬢ちゃん」
ガルドが片手をつき、起き上がった。
口の端から血が垂れている。
「もう一度だけやって!」
「珍しく、ガキみたいな頼み方しやがる」
ガルドが笑った。
血の味が混じった笑いだった。
けれど、目の奥は笑っていない。
そこには十年があった。
何度も思い出した夜。
忘れたふりをした朝。
酒で薄めても薄まらなかった後悔。
拳を握るたび、骨の奥で鳴っていた怒り。
それら全部が、今、ひとつの形になろうとしていた。
「最後の一回だ」
ガルドが言った。
「その後は、お前が決めろ」
アナは頷いた。
「いいわ」
二人が、霧氷狼の主へ向かって走り出した。
***
街の門へ、ジークたちは飛び込んだ。
「ギルドの医務室!」
ラピスが叫ぶ。
通行人が振り返り、すぐ道を空けた。
誰かが息を呑む。
誰かが「凍傷か」と呟く。
ジークは周囲の声を置き去りにして
遮二無二走った。
ギルドの扉を開け、廊下を走る。
医務室の扉を肩で押し開けた。
「お願いします!」
ナーガを寝台に寝かせる。
腕から重みが消えた。
軽すぎた重みが消えたはずなのに、冷たさだけが骨の中に残っていた。
医者が走ってきた。
ナーガの指先を見る。首筋を見る。脈を取る。
長く、息を吐いた。
「これは……」
医者の喉が鳴る。
鳴っていたのかはわからないが
先ほどの喧騒が嘘のように、
喉の声すら拾うほどの緊迫感だった。
「助かりますよね」
医者は答えなかった。
まさに、沈黙は金とはこの時に使うのだろう。
医師は、勤めて話題を変えた。
「外で何があった」
「凍霧の谷で、寒さにやられました」
「凍霧か」
医者はすぐに薬箱を開けた。
動きに迷いはない。
だが、その速さは希望ではなく、猶予の少なさを示していた。
「一旦、応急処置だ。だが、これじゃあ……」
医者の手が止まった。
部屋の中で、ナーガのか細い呼吸だけが聞こえていた。
***
ガルドが拳を握り直した。
皮は裂け、血が滲み、凍りかけている。
それでも、握った。
この場では彼にしかわからない、十年分の重みが篭る。
あの日、間に合わなかった足。
届かなかった声。
雪の上に残った跡。
振り返るたび胸を裂いてきた悔い。
全部、拳の中に沈めた。
「——奪うのは、もう終わりだ」
ガルドが走る。
真正面からだった。
策とは言えない。無謀と言った方が近い。
だが、主の四つの赤い目が、一瞬だけガルドを捉えた。
その一瞬でよかった。
ガルドは雪を蹴り、懐へ潜る。
爪が背中を掠め、血が飛ぶ。
構わなかった。
下から、主の顎を打ち抜く。
普通の拳だった。
技には頼らない。いつもの白い拳よりも硬い、十年という積年の思い。
そんじょそこらの十年ではない、十年分の拳だった。
霧氷狼の主の首が跳ね上がる。
巨体が揺らぎ、雪の上に膝をついた。
「アナ!」
「分かってる!」
アナの影が雪原に広がる。
黒い蛇たちが一斉に立ち上がった。
主の胸へ、腹へ、首へ。
今度は、弾かれなかった。
ガルドの拳が生んだ、小さな隙間。
鉄の扉に入った針ほどの罅。
アナの蛇は、そこへ牙を立てた。
魔力が流れ込んでくる。
いや。
押し寄せてきた。
「っ……!」
蛇紋が焼けるように痛む。
左腕の中へ、凍った泥を詰め込まれていくようだった。
重い。冷たい。濁っている。
魔力なのに、命の気配がない。
食べ物ではなく、墓を飲んでいるような味だった。
(重い)
(食べきれない)
アナの膝が震える。
その時。
『あら』
耳の奥で、声がした。
懐かしくて、嫌な声だった。
『ずいぶん不味そうなものを食べてるじゃない』
アナは歯を食いしばる。
『手伝ってあげるわよ?』
選択肢はなかった。
ここで吸い切らなければ、ガルドの十年が無駄になる。
ナーガの半日が、終わる。
「……お願い」
誰にも聞こえない声で、アナは呟いた。
『いいわよ』
声が笑う。
『その代わり、ちゃんと味わいなさい』
蛇紋が黒く濃くなる。
左腕に、夜が流れ込んだようだった。
影の蛇が増える。
一本。三本。十本。
雪原に、黒い蛇が咲いた。
花ではない。墓標のような黒だった。
吸う速度が跳ね上がる。
霧氷狼の主が暴れる。
だが、もう遅い。
四つの赤い目が薄れていく。
ひとつ、消えた。
ふたつ、消えた。
みっつ、消えた。
最後のひとつが、まだ燃えている。
ガルドが立っていた。
ふらつき、血を流し、それでも倒れずに。
「これで」
拳を引く。
「終わりだ」
拳が、主のこめかみに入った。
十年分の、とどめだった。
霧氷狼の主が、雪の上に崩れ落ちる。
四つの赤い目が、最後の光を失った。
霧の中に、静寂が戻る。
大きな獣が死に、雪原がようやく息を吐いたような静けさだった。
アナは膝をついていた。
誰の目にも映らない通信器には数字が浮かんでいた。
少し前まで、『2.0』のはずだった数値は
『5.9』まで跳ね上がっていた。
約3倍の数値になっていることに、まだ誰も気づいてはいない。
ガルドが歩み寄る。
「嬢ちゃん。大丈夫か」
アナは顔を上げた。
辛辣な、いつもの笑みを作る。
「平気よ。ちょっと、不味かっただけ」
ガルドは、それ以上聞かなかった。
聞くべきではないことがある。
彼は、それを知っている男だった。
ガルドは霧氷狼の主の体に歩み寄り、牙を一本引き抜いた。
布で丁寧に包み、腰の袋にしまう。
勝利の証ではない。でも、これだけは譲れなかった。
「街へ急ぐぞ」
「ええ」
二人は走り出した。
倒した。終わらせた。
過去は救えたかもしれない。
ただ、刻一刻と現在は危機に向けて歩みを進めていた。
***
ギルドの医務室。
ナーガは寝台の上で悶えていた。
息は絶え絶えで、指先は黒い。
ジークは寝台の脇で立ちすくむ。
剣を握っている時より、ずっと無力だった。
敵なら斬れる。
道なら進める。
けれど、遠ざかっていく命をどう止めればいいのか、分からなかった。
医者が脈を取り、胸に耳を当てる。
長く、息を吐いた。
「——あと、半日だ」
ラピスの唇が震えた。
「半日……?」
その時、扉が開いた。
ガルドとアナが、医務室に飛び込んでくる。
医務室の視線が二人に集まる。
二人を見つめるジークとラピスの表情が全てを物語っていた。
医者が続けた。
「半日で、特効薬を用意できなきゃ——」
そこで言葉を切った。
首は振らなかった。
だが、それが答えだった。
アナが低く聞く。
「何が要るの」
医者は古い書物を取り出し、ある頁で指を止めた。
「炎息草だ」
「炎の中でしか芽吹かねえ草だ。凍傷を散らす、唯一の薬になる」
「どこにあるの」
「溶岩鉱脈の奥だ」
部屋の空気が変わった。
凍える絶望の次に来たのは、燃える絶望だった。
医者が渋い顔で続ける。
「あんな場所、冒険者でも行きたがらねえ。暑いだけじゃねえ。道は崩れる。毒気はある。魔物も出る」
そして、全員を見る。
「半日で行って戻れる距離じゃねえな」
沈黙が落ちた。
ナーガの呼吸だけが、細く続いている。
アナは、左腕を撫でていた。
袖の下で、蛇紋が薄く浮かぶ。
さっき飲み込んだ魔力が、体の奥で沈んでいる。
泥のように。毒のように。まだ孵っていない卵のように。
(溶岩鉱脈の、奥)
(次の、目的地)
アナは顔を上げた。
「応急処置で、ナーガの命を繋げられる?」
医者が眉を寄せる。
「保証はできねえ。一日もたねえかもしれねえ」
「いいわよ。少しでも延ばして」
「簡単に言うな」
「簡単じゃないから頼んでるの」
アナは医者から目を逸らさなかった。
「私とガルドで、薬草を取りに行く」
「だから、あなたはそれまでナーガを生かしておきなさい」
命令の形をした懇願だった。
医者はナーガを見た。
黒ずんだ指先を見た。
それから、ゆっくり頷く。
「分かった。やれるだけ、やる」
ジークが拳を握った。
「僕も行きます」
「駄目」
アナが遮る。
「あなたはナーガのそばにいなさい」
「ですが」
「運んだのは、あなたよ」
ジークが言葉を失う。
「だったら最後まで、ここで繋ぎ止めなさい。
呼吸が止まりそうなら呼んで。手が冷えたら温めて。剣を振るより、ずっと難しい役目よ」
ジークはナーガを見た。
そして、ゆっくり頷いた。
「……分かりました」
ラピスも徽章を握る。
「私は、ここに残ります。兄上の力を、もう少しだけ借りられるかもしれません」
アナは短く言った。
「お願い」
ガルドが腰の袋を叩く。
中には、霧氷狼の主の牙がある。
「リーダーのお言葉だ」
そして笑った。
「行くぞ、嬢ちゃん」
「ええ」
アナは、最後にナーガの指先を見た。
黒ずんでいた。
冷たいはずだった。
それでも、まだ温かいような気がした。
(——置いていくのは許さない、って言ったでしょ)
アナは振り返らずに扉を押した。
ガルドが、その背に続く。
窓の外では、霧降の月の夕日が傾いていた。
白い霧は薄く赤に染まり、街の石畳に長い影を落としている。
十年を背負った男の影と。
半日を奪い返しに行く少女の影。
夕日は何も言わず、ただ二人を長く引き伸ばしていた。
霧氷狼の主との対決——
背景は語られないまま、ガルドの拳に込められた重みだけが残ります
両者にどんな因縁があったのか?
それはこの章の終わりくらいには明らかになるはずです。
絶え絶えのナーガと、半日のタイムリミット。
応急処置で時間を繋いでもらいながら、アナとガルドは溶岩鉱脈の奥へ向かいます——。




