第67話:「二者択一」
自分をレベルアップするためのアイテムか、仲間を助けるためのアイテムか。
二者択一。
あなたはどちらを選ぶ。
街の門を抜けた。
夕日が背中を押すように落ちていた。
二人の影が、街道の上で長く伸びていた。
霧降の月の風が、頬を切るように冷たい。
その冷たさを感じる余裕はなかった。
「火山地帯までは、半日だ。だが、半日もたねえ」
アナは応えなかった。
応える言葉を選んでいる時間が、惜しかった。
あんなに嫌だった全力疾走が、今はもっと早く走りたかった。
「ただの半日でじゃねえ」
普通の半日では、ない、と言っている。
普通には間に合わない、と言っている。
「行って帰って、さらに薬草を見つける必要がある」
胃の底が軋んだ。
走り出してすぐの呼吸が、すでに浅い。
ミッションのハードルの高さによる焦燥感なのか
仲間を失うかもしれない恐怖感なのか。
喉も渇きが止まらない。
「方法は」
短く、訊いた。
ガルドが横目でアナを見る。
「ねえな」
「探すしかねえだろ」
投げやりではない。百戦錬磨のガルドでさえお手上げの状況だった。
***
街道が森にぶつかる。
そこから先は、踏み固められた獣道に変わる。
(遠いわね。こんなんじゃ、半日で着くわけがないわ)
蛇紋が疼いた。肌の下で、黒い線がひと撫でする。
胸の内側で、声が立ち上がった。
『あら。焦ってるの?』
アナの呼吸が、半拍止まった。
——昨夜、自分から「お願い」と言った。
その続きが、まだ終わっていないだけだ。
(出てきたのね、相変わらず間が悪い人ね)
『あなた。もっと早く着きたいんでしょ?』
(余計なお世話よ)
『近道、知ってるけど?』
——アナの足が止まりかけた。
ただ、一刻を争う事態
止まらないまま、頭の奥で会話を紡いだ。
(あなた、この場所知ってるの?)
『お馬鹿さんね。ヒントは言語理解と、影の蛇』
(もったいぶってないで、早く教えなさい)
『組み合わせて使ったこと、ある?』
歩幅が、わずかに揺れた。考えたこともなかった。
言語理解——魔石で得た、世界の音を意味に変える力。
影の蛇——影で地を撫でて、地形を読む固有の力。
別々の引き出しに、入れていた。
『お馬鹿さんに、丁寧に教えてあげるわね
まず、山道の獣の声を、聞きなさい
次に、地面の傾きを、影に見させなさい』
それを同時に、やるの
獣たちが踏んでる、いちばん速い線が、あんたの目に見えるはずよ
さあ、私の可愛い子。頑張るのよ。』
(癪だけどしょうがないわね。)
アナの目が、ほんのわずかに見開かれた。
(——なるほどね。あなた、そういう使い方を、知ってたのね)
『そりゃね』
『あなたの中身は、私の中身でもあるもの』
***
アナは、足を止めた。ガルドが半歩先で止まる。
振り返らなかった。待っている、ということが、背中で分かった。
「ガルド」
「あ?」
「目を、閉じるわ」
「……何だよ、それ」
「歩けなくなる。少しの間」
ガルドがようやく振り返った。
仏頂面のまま、腰に手を置く。
「説明、しろ」
アナは要点だけを言った。
獣の声と、影の地形を同時に処理する。
頭の中に、最も速い道筋を引く。
その間、自分は無防備になる、と。
ガルドは聞き終わるまで、口を挟まなかった。
聞き終わると、鼻で息を吐いた。
「掴まってろ」
「は?」
「俺の背中だ」
返事をする暇は、なかった。
ガルドが、片膝を地面についた。
広い背中が、夕日の中で、岩のように置かれていた。
(ガルドの背中ってこんなに大きかったのね)
胃の底が、別の場所で軋んだ。
それは空腹とは、違う何かだった。
「嬢ちゃん」
「考えてる時間が、惜しいんだろ」
——その通りだった。
アナは口の端を噛んで、息をひとつ吐いた。
両腕を、広い肩に回す。
まるで崖にしがみつくような感覚だったが、
崖の方から歩み寄ってくれた。
軽い体が、ガルドの背に預けられた。
ガルドが立ち上がる。
地面が、遠くなった。
夕日が、ガルドの肩越しに赤く揺れていた。
「目、閉じろ」
「……ええ。影が落ちたらそれを目印に突っ走って」
***
闇が来た。闇の代わり、音が来た。
葉擦れ。風の鳴り。遠くで、何かが鳴いている。
——獣の声だ。
魔石が、頭の奥で震える。
意味が、勝手に流れ込んできた。
『水だ』
『夜の前に、水を飲め』
『東の沢、もう凍る』
『迂回しろ』
『南の獣道なら、まだ踏める』
『パパ!焦げ臭い!』
『そっちに行ったら溶岩が近いから近づいたらダメだよ』
——溶岩。
その一語を、アナの意識が捕まえた。
同時に、左腕の蛇紋が地面に影を落とす。
影が流れた。
ガルドの足元から前方へ、蛇の形を取って地面を撫でていく。
地面の傾きが、伝わってくる。
アナは揺れる背の上から、影を紡いでいく。
ガルドは影を頼りに道無き道を進んでいく。
下り。緩い、右カーブ。
その先に、固い岩盤。
倒木で塞がれた箇所を、迂回。
南の獣道に、合流。
頭の奥で、二つの図が重なった。
獣たちが避けたい場所と、最も短い線。
ぴったりではない。
それでも、ぎりぎり繋がった。
(組み合わさった)
胃の底が、ほんの少しだけ熱くなる。
捕食者の血が、新しい獲物を見つけた時の熱だった。
「ガルド」
「もう大丈夫なのか?」
「ええ。入り口近くまでは繋げられたわ。とにかく焦げ臭い方向よ」
ガルドが、低く笑った。
「焦げ臭え方が、目的地だろ」
ガルドのギアが一段、いや二段上がった。
アナの背中で、風が唸った。
あの巨体にこんな速さが眠っていたとは。
ガルドはただ、影の引く線の上を走った。
質問は、しなかった。
なぜ、そちらが速いのか。
なぜ、そちらに曲がるのか。
訊かなかった。
ただ、信じて走った。
時々、枝が顔を打つ。
ガルドの拳が、それを払った。
時々、茨が足を巻きにくる。
ガルドの脚が、それを踏み砕いた。
——背負われている、という感覚が、薄くなっていった。
(ガルドの足を借りて、私が走っている)
頭の奥で、声が笑った。
『悪くない使い方ね。あなただけは私と同じく、人を動かす側の人間よ。』
——アナは、答えなかった。
答えると、長くなる気がした。
そして、アナの懐の中の小さな器に記されていた
数字は静かにカウントアップを始めていたが、
ガルドの背中の上で、走り続けるアナは、それに気づかなかった。
***
多分、2時間くらいだろうか。
ふいに、空気が、変わった。
風の匂いが、鉄から硫黄に切り替わる。
肌に触れるものが、刺すような寒さから、皮膚を炙るような熱に、変わっていく。
「嬢ちゃん」
ガルドの声に、走る息の重さが、混じっていた。
「ここから先は、空気が違う」
ガルドが、立ち止まった。
アナが、ゆっくり目を開けた。
世界に、色が戻ってきた。
黒い、岩肌。
地面に走る、赤い亀裂。
亀裂の奥で、何かが、どくり、と脈を打っている。
空気が震えていた。
熱だけではない。
もっと違う何かが、地面の下から、押し上げてきていた。
(——ここは、生きてるわ)
(凍霧の谷とは、何もかもが違う)
アナは、ガルドの背からそっと降りた。
降りた瞬間、膝が地面についた。
息が、浅い。
全く走っていなかったが、ガルド以上に息が上がっていた。
元傭兵と元姫の差以上に不思議なものだった。
左腕の蛇紋を、夕日でもない、街灯でもない、赤い光が照らした。
蛇紋は、街を出た時よりも黒い。
線の太さが、肌の下で、確かに増していた。
ガルドが、片膝をついた。
正面で、目を合わせる。
「嬢ちゃん」
「……」
「本当に、大丈夫か?」
——ようやく、心配を口にした、と思った。
ここまで、ひと言も訊かなかった男が。
走り終えてから、最初に訊いたのが、それだった。
(……ずるい訊き方ね)
(強がれなくなるじゃない)
「……平気じゃ、ないわね」
正直に、答えた。
息が、まだ整っていない。
「嘘がつけねえなら、つくな」
ガルドが、懐から小瓶を取り出した。
銀色の薬。
魔導皇都を出る時、ゼノスから渡された処方。
「飲め」
「——これ」
「あいつのことだ。こういう時に飲むもんなんだろう。」
受け取った小瓶を、傾けた。
液体が、舌の上に転がった。
——苦い。
舌が、悲鳴を上げる。
喉の奥で、味が縦に裂けた。
(——この味、知ってるわ)
地下牢の、湿った石の上ではない。
もっと前。
もっと小さかった頃。
大きな掌が、頭を、撫でた。
「飲みなさい」
父の声だった。
熱があった夜。
苦いものを、口から吐き出そうとしたアナの背中を、父の手のひらが、ゆっくり、押し戻した。
「これを、飲めば、明日、また走れますよ」
——あの屈辱を晴らすために。
アナは、苦さに泣きそうになりながら、それでも、飲み込んだ。
(その日まで立っていないと、これまでの努力が全て水の泡ね)
呼吸が、ほんの少し、戻った。
蛇紋の脈が、わずかに、鎮まる。
完全には、消えなかった。
***
「行けるか」
「——行くわよ」
立ち上がる。
膝に、力が戻ってきた。
赤い亀裂を、跨いだ。
火山地帯の懐に、足を踏み入れた——その時。
岩の影から、低く唸るものが、滲み出てきた。
焔狼。
毛並みは黒く、根元から先端にかけて、赤く透けている。
呼吸のたびに、口の奥で、熾火が見えた。
一頭ではない。
二頭。三頭。四頭。
赤い亀裂の縁に沿って、円を描くように、現れた。
凍霧の谷で出会った、白い狼たちの——対岸の生き物だった。
寒さの中で、吐息を凍らせる獣がいるなら。
熱の中で、吐息を燃やす獣も、いるということだった。
(同じ星の、裏と表だわ)
「下がってろ、嬢ちゃん」
ガルドの声が、低い。
「お前の蛇紋、これ以上、動かしたくねえだろ」
「……一頭くらい、私にもちょうだい」
「は?」
「使い慣れたものを、一回挟んでおいた方が、後が楽なの」
ガルドが、鼻で笑った。
「——理屈じゃねえな」
「そうね。私は感覚派だから」
———
焔狼の一頭が、土を蹴った。
熱の砂塵が、舞う。
ガルドの拳が、構えに入った。
普通の構えだった。
赤い光は、宿っていなかった。
——温存している。
ここは、そういう敵ではない、と判断していた。
アナの左腕が、影を引いた。
影の蛇が一匹、地面から立ち上がる。
赤い光に黒が映えて、輪郭が、いつもより鋭く見えた。
最初の一頭が、跳ねた。
ガルドが半歩、横に流す。
獣の体が空を切る間に、拳が脇腹に入った。
骨の鳴る音。
獣の体が、岩肌に叩きつけられる。
赤い火花が、散った。
二頭目は、アナに来た。
影の蛇が、首を絡めとった。
絡めとった瞬間、蛇は獣の喉を縛り上げた。
魔力は、吸わない。
味が、遠かった。
(腹の足しにもならないわね)
三頭目、四頭目。
ガルドの拳が、流れの中で二つ続けて獣を岩に押し込んだ。
ガルドの拳が、最後の一匹を、岩に叩きつけた。
赤い火花が、黒い岩肌で、散って煙が上がる。
煙の先には二人だけが、立っていた。短い戦闘だった。
タイムリミットがあるから、短いのではない。
もう「短い」と言えるくらいに、強くなっていた。
焔狼の残骸が、地面で、ゆっくり灰になっていく。
熱の中だけで生きる獣は、熱に還っていくらしい。
ガルドが、息を整えた。
それから、低く呟いた。
「——あの時とは、違えな」
アナが、横目でガルドを見たが、
聞くべきではないことくらいは感覚でわかった。
何かに思いを馳せているのだろう。
(語らないものを、目で全部、語ってしまってるわよ。)
それが分かったから、訊かなかった。
ガルドの肩が、ひとつだけ大きく動いた。
息を吐ききって、目線が、戻ってきた。
「行くか」
「——ええ」
歩き出した。
***
赤い亀裂の向こうで、何かが、唸った。
二人が、その方を見た。
火山地帯の、本当の奥が、待っていた。
溶岩鉱脈の入り口
——溶岩鉱脈の芯と炎息草
ここから先は、一つのミスが命取り。
帰りのことを考えると、2つを6時間以内で見つけないといけない。
「嬢ちゃん、どうする。」
溶岩鉱脈の芯
炎息草
自分たちの装備と見ず知らずの鍛治師のコンテスト
これまで苦楽を共にした仲間を助けるための薬草
選択肢は1つしかなかった。
「もちろん。どちらも頂くわよ。」
強欲で私利私欲全開のアナ。
この選択はどうなるのか?
皆さんで見守ってもらえたら。




