第64話:「襲いかかる白き牙」
準備をしても、しすぎることはない。
そして、往々に最悪は準備を超えてやってくる、
霧降の月の朝が、白く明けていた。
地下の闇から、光の中に出る。
朝の冷たい空気が、五人の頬を、撫でた。
ラピスが、先頭を、歩いている。
徽章を、胸の前で、握ったまま。
アナが、その後ろ。
ガルドが、最後尾。
ジークが、剣の柄に、手を添えている。
ナーガが、アナの隣で、無言で歩く。
兄を看取った男の背中が、霧降の月の白さの中に、伸びていた。
街道の景色は、来た時と、同じだった。
だが、誰の目にも、同じには映らなかった。
アナの腹の底に、薄く、何か残っている感覚があった。
食べたわけでもない。
飲み込んだわけでもない。
ただ、グレイルの最期の言葉を言語理解で拾った時の、痺れの残りのような何か。
(——気持ち悪い)
正確には、それは、不快ではなかった。
ただ、形にならなかった。
形にならないものを、アナは、苦手だ。
「アナちゃん」
ナーガが、隣から、呼んだ。
「うん?」
「お腹、空いた」
「……いま?」
「うん」
アナが、笑った。
ナーガの笑い方は、いつも、アナの皮肉を、無効化する。
「街に着いたら、何か食べましょ」
「うん」
ガルドが、後ろから、鼻を、鳴らした。
「相変わらず、お前ら、食欲だけは、強えな」
「お互いに、ね」
アナが、振り返らずに、答えた。
アンボスの街は、朝から、騒がしかった。
槌の音。
炭の燃える匂い。
酒の蒸気が、酒場の換気口から、白く、吐き出されていく。
「霧降の月の街は、こんなもんだ」
ガルドが、ぼそりと、呟いた。
「冬になる前に、打てるだけ、打っちまう」
「祭りの前は、特に、な」
「祭り、終わるんですか」
ジークが、聞いた。
「終わる前が、職人の本気だ」
「終わったら、酒だ」
ガルドが、笑った。
「ドルンの工房に、行く」
ラピスが、短く、言った。
迷いは、なかった。
ドルンの工房は、街の外れにある。
火が、絶えていない。
ラピスが、扉を、押した。
ドルンが、振り返る。
槌を、握ったままだった。
「お前ら、生きてたか」
「はい」
ラピスが、答える。
「赤金鉱と、月光蜘蛛の糸を、持ってきました」
ジークが、袋を二つ、机の上に、置いた。
重い音が、二度、続けて、する。
ドルンが、袋を、覗いた。
それから、長く、息を、吐いた。
「——お前ら、本当に、持ってきやがったな」
ドルンの声は、重かった。
だが、嫌な重さでは、なかった。
ラピスを見る眼差しはどこか満足げだった。
「他に二つ、必要だ」
「はい」
「凍霧の結晶。それと、溶岩鉱脈の芯」
「はい」
「先に、どっち、行く」
「凍霧」
ラピスが、即答した。
ドルンが、ラピスの胸元を、見た。
青い石が、ラピスの胸の上で、揺れていた。
ドルンの目が、一瞬、止まった。
それから、ラピスの顔に、視線を、戻した。
何も、言わなかった。
「——残り二つ、ちゃんと、生きて取ってこい」
ドルンが、槌を、握り直した。
ラピスが、頷いた。
「お願いします」
工房の隅に、試作品が、並んでいた。
ガルドが、その方に、歩いた。
「おめえ、腕戻ってんのかよ?」
「ぬかせ」
ドルンが、試作品の方に、目をやる。
ガルドが、一本、手に取った。
重さを量り、角度を変え、刃に目を細める。
ジークが、横から、覗き込んだ。
「……重さが、いい」
ラピスが、その先の槌を、眺めた。
「バランスが——変わってますね」
(——男って、いつまで経っても、ガキね)
ナーガが、別の試作品を、指でつついた。
「色、きれい」
(——私が変ってこと?)
アナが、四人を、横目で、見ていた。
四人もまた何の興味を示さないアナを横目で見た。
ガルドが、手に取った剣を、卓に戻す。
「まあ——一級品にちげえねえが、まだ戻ってねえようだな」
「あたりめえよ」
ドルンが、即答した。
工房を出る時、街の中央の方向から、別の槌音が、聞こえた。
低い音だった。重い音だった。
ガルドが、その音の方を、一瞬、見た。
それから、何も、言わずに、歩き出した。
冒険者ギルドの受付に、五人が、立つ。
「凍霧の谷の依頼、ありますか」
ラピスが、聞いた。
受付の女が、ぱちぱちと、目を、瞬かせた。
「……本気ですか」
「はい」
「凍霧の谷は、Bランク推奨です」
「あなた方のパーティーは——Cランクですよね」
「はい」
ラピスの声は、変わらない。
受付の女が、台帳を、開いた。
「依頼失敗の場合は、ランクダウンになります」
「下水掃除に・・・」
アナが、続けた。
「はい」
皮肉では、なかった。事実の、確認だった。
(想像するだけで、嫌になる)
受付の女が、地図を、出した。
凍霧の谷の場所が、丸く、囲まれている。
「樹氷の森を抜けると、谷の縁です」
「結晶は、谷の最奥」
「魔物の情報は——」
「霧氷狼が、いる」
ガルドが、横から、口を、出した。
「……ご存じでしたか」
「俺、行ったことある」
ガルドの声は、低かった。
「いつ?」
ラピスが、聞いた。
ガルドが、一瞬、答えなかった。
「——曙光が、Cランクの頃だ」
四人が、同時に、振り返った。
ジークが、口を、開きかけて、閉じた。
ラピスが、ナーガを、見た。
ナーガが、アナを、見た。
アナの脳内は下水からまだ、戻ってきていなかった。
ガルドは、もう、地図を、見ていた。
何も、語らなかった。
「——行こう」
ラピスが、地図を、畳んだ。
「補給します」
ジークが、立ち上がった。
**
街の門を出る頃には、すでに、空気が、変わっていた。
冷気が、地面を、撫でている。
息が、白い。
ナーガが、立ち止まった。
「……白い」
「うん?」
「自分の、息」
ナーガの声に、少しだけ、戸惑いが、混じっていた。
砂漠の人間が初めて、自分の体温が外に漏れ出る瞬間を、見ている。
「砂漠じゃ、出ないよね」
ジークが、優しく、言った。
「うん」
ナーガが、頷いた。
それから、また、歩き出す。
歩幅が、少しだけ、縮んでいた。
道は、徐々に、上っていく。
樹々の枝に、白いものが、薄く、被り始めた。
霜だった。
それが、少しずつ、厚くなっていく。
ラピスの息も、白い。
ジークの息も、白い。
ガルドは、いつも通りに、歩いている。
歩幅も、姿勢も、変わらない。
ただ、一瞬。
ガルドが、遠くを、見た。
谷の方を、見ているのではなかった。
もっと、遠くを。時の、向こう側を。
それが過去なのか、未来なのかは分からない。
すぐに、視線は、戻った。
何も、言わなかった。
(——曙光、ね)
アナが、横目で、ガルドを、見ていた。
口は、開かなかった。
樹氷の森に、入った。
樹は、白かった。
枝も、白かった。
空も、白かった。
「寒いわね」
「こりゃ、ギルドの情報にいっぱい食わされたな」
ギルドの情報以上に寒さが増してた。
音が、雪に、吸われている。
五人の足音だけが、ぱり、ぱり、と、霜を、踏む。
この寒さがアナたちを蝕んでいた。
今振り返れば、ここがターニングポイントだったのかもしれない。
ナーガが、震えていた。
最初は、指先だった。
次に、肩。
そして、声。
「アナ、ちゃん」
「うん」
「私……寒い、の」
「ええ」
「砂漠は、寒くは、ない、けど」
「ええ」
「私、こんなの、初めて、なの」
ナーガの声は、震えていた。
震えていたが、笑っていた。
笑いながら、震えるのが、ナーガだった。
ジークが、後ろから、自分の上着を、脱ごうとした。
「ナーガ」
「いい、よ」
ナーガが、首を、振る。
「ジーク、寒くなったら、戦えない、よ」
「ですが」
「私は——後ろに、いるから」
ジークの手が、止まった。
ジークは、無理に、押しつけなかった。
代わりに、低く、言った。
「ナーガ。無理は、しないでください」
「うん」
ナーガが、頷いた。
頷いたが、歩幅は、また、縮んでいた。
ラピスが、立ち止まった。
胸の前で、徽章を、握った。
短く、言った。
「……兄上」
声には、出さなかった。
唇だけが、動いた。
それから、また、歩き出す。
歩き方が、わずかに、定まっていた。
ガルドが、それを、横目で、見ていた。
何も、言わなかった。
「ここから先が——谷の本領だ。急ぐぞ。」
ガルドの声は、低かった。
覚悟の、声だった。
霧が出た。
最初は薄かったが、すぐに濃くなった。
樹氷の白と、霧の白が、混ざる。
何が樹で、何が霧で、何が空気なのか。
見分けが、つかなくなる。
ナーガが、震える指で、自分の腕を、抱いた。
唇が、白かった。
「アナ、ちゃん」
「うん」
「下、冷たい」
「うん」
「もっと、奥は——もっと、冷たい」
ナーガの声が、震えている。
真偽感知が、何かを、拾っていた。
霧の奥で。
何かが、動いた。
「——いる」
ナーガが、震える声で、言った。
ラピスが、杖を、構えた。
ジークが、剣を、抜いた。
アナが、左手を、前に、出した。
ガルドだけが、まだ、構えなかった。
霧の奥を、見ている。
霧の中に。
白い目が、灯った。
一対では、なかった。
二対。
三対。
四対——もっと。
「——霧氷狼か」
ガルドが、拳を、握った。
普通の、握り方だった。
「来るぞ」
霧の中で、白い影が地面を低く走った。
次の瞬間。
呼吸が、空気に、触れた瞬間。
霧の粒が——
凍った。
戦後の翌朝、五人は次の素材を取りに凍霧の谷へ。
砂漠生まれのナーガが、自分の白い息を見て戸惑う姿、
震えながら笑う表情が今回の見どころでした。
「おめえ、腕戻ってんのかよ?」「ぬかせ」
ガルドとドルンの男同士の会話ができるような人間になりたいです。
霧の中で凍りはじめた空気と、白い目の群れ。
寒さに沈むナーガ。五人は谷の最奥に辿り着けるのでしょうか——?
次回更新は5月4日(月)を予定しています。




