第63話:「遺された青き徽章と、手放した杖」
憎さ余って可愛さ・・・
「もう一段、深えな」
ガルドの声が崩れた祭壇の縁で低く落ちた。
露出した通路は、人の手で削られている。直線。階段状。鉱山ではない。
誰かがここに降りてきた。誰かがここまで掘った。
アナはランタンを持ち直す。光の輪が削られた壁を撫でた。
「下、何かいる」
ナーガが、自分の指先を触れた壁からすっと引いた。
「でも——生きてはいない、と思う」
ナーガの言い方が、いつもの占いと違っていた。砂漠の井戸の底を覗き込んだような、声の沈み方。
ジークが鞘の柄に手を添える。
ラピスが詠唱を畳んで、いつでも組めるようにしておく。
ガルドが先頭で降りる気配を見せた。
「行くか、戻るか。決めろ」
「行くわよ」
アナは考える前に答えた。
腹の底が、薄く撫でられる感触がある。何か、こっちを呼んでいる気がした。
ガルドが振り返らずに頷く。
「いつもの隊列だ。俺、ラピス、嬢ちゃん、ナーガ、ジーク」
階段は思ったより長かった。
壁の所々に剥げた符号がある。
文字ではない。記号でもない。
何かの番号のような、薄い灰色の数字。
「003」「004」「005」——
ラピスが薄く読み上げた。
「番号、だね。これ」
「番号?」
「何かの——通し番号。整理用の」
ラピスの声が少しだけ震えた。学者の癖が、嫌な予感を先に拾うことがある。
降りるごとに空気が変わっていく。
冷たい湿気の下に、別の匂いが混じり始めた。
鉄錆。古い紙。薬品。それから——獣の体毛が長く湿っていた時の、腐臭。
ナーガが鼻を押さえた。誰も、何も言わなかった。
階段が終わる。
広場が開けていた。
天井が高く、奥に鉄の扉が見えた。閉じている。
床には骨ではないものが散っていた。布。瓶。割れた札。
壁には机が並び、その上に書類が積まれている。書類の端から、文字が読めた。
「被験体」
「キメラ」
「成功例003」
ガルドの足が止まった。
奥の方、暗がりの中で、何かが立ち上がる気配がある。
ランタンを、アナがそちらに向けた。
光の輪の中に、四つの目が灯る。
二つは額の上に。
二つは本来の位置に。
体は片側が人間で、片側が、人間ではなかった。
右腕はジークほどの太さの、獣の前足。
左腕はただの人の腕だった。指まで、人間の。
頭の上半分には面影があった。
鼻先から下は、崩れていた。
その口が開く。
「ア、ナ……」
掠れている。喉ではない場所から声が出ているような、ざらついた音。
「アナ……」
アナの背後で、ラピスの息が止まった。
「兄、上——」
呼びかけて、すぐに止めた。
「いや、これは——」
ラピスの声が、迷子になっていた。
アナはランタンを下ろさない。
下ろしたら見えなくなる気がした。
「……グレイル?」
問いかけだった。断定ではなかった。
四つの目のうち、上の二つがゆっくりとアナに焦点を結ぶ。
「アナ……アナ……」
ガルドが机に目を走らせた。
書類の山をざっと撫でて、一枚を引き抜く。
古い、染みの浮いた紙。
無言で、それをアナに渡した。
アナが読む。
『被験体ファイル
被験体ID:実験体003
提供元:宝石国
原名:グレイル=ジュエル
備考:宝石国第一王子。反逆罪。廃人化済み。引き渡し承認あり』
アナの指先が、紙の縁を握り潰した。
「……あんた、何させられてたのよ」
声が低かった。
「この子の中、ぐちゃぐちゃ」
ナーガがアナの隣で涙を一粒こぼす。
触れていない。離れた場所から、痛みが届いていた。
ガルドだけが、奥の鉄の扉を見ていた。
「ア、ナ……コロ、シタ……?」
グレイルの口が、また開いた。
アナはランタンを持ち直す。
殺していない、と口の中で答えそうになって、止めた。
廃人にはした。失脚させた。だが、この姿にしたのは——私じゃない。
ラピスが一歩、前に出る。
「兄上」
ラピスの声が震えていた。震えていたが、止まらなかった。
「告発したのは、僕です」
「あなたを、引きずり下ろしたのは、僕です」
四つの目のうち、上の二つが、ゆっくりとラピスに向き直る。
「ラ、ピ……」
途切れた。
発音できないのではない。
音は出ていた。
だが、続けられなかった。
何かが、口の動きを止めている。
ラピスがもう一歩、前に出る。
「兄上。覚えていますか」
「僕の——ラピス、という、名前」
「ラ……ピ……ス……」
グレイルの口が繰り返した。
四つの目が、別々に瞬く。
ガルドが、奥の鉄の扉を見ながら低く言った。
「来るぞ」
「複数だ。三、四——いや、五」
奥の鉄の扉が、内側から押されていた。
鉄の扉が、外側に向かって軋む。
内側から、何かが押している。一つではなかった。
ガルドがラピスの襟に手をかけ、現実に引き戻した。
「ガキ。話の続きは、後だ」
ラピスが口を引き結ぶ。
グレイルから目を逸らさない。
だが、杖を構え直した。
「ジーク、左」
「ナーガ、後ろ。グレイルの隣だ」
「嬢ちゃん、奥」
「ラピス、俺の真後ろから組め」
ガルドの声がいつもの調子に戻る。
鉄の扉が内側から、ぐしゃ、と歪んだ。
「グレイルは——どうするの」
アナがガルドに聞いた。
「コイツは、後だ」
ガルドの声が短かった。
迷っていないわけではない。
迷うのを、後回しにしていた。
扉が外れる。
内側から押し倒された。
中から、出てきた。
四つ。五つ。
数えようとして、アナは止めた。
それぞれ形が違っていた。
腕が三本ある個体。
脚が四本ある個体。
首が長く伸びた個体。
顔のない個体。
唸り声が重なる。
人語ではなかった。
意味のある音は、一つも混じっていない。
机の上の番号札を、ラピスが目の端で読んだ。
「004」「006」「009」
「成功例の、続き——」
ラピスの声が消えた。
「来た」
ジークが剣を抜く。迷いなかった。
最初に動いたのは首の長い個体だった。
天井に届きそうな首を、鞭のように振り下ろす。
ガルドが左腕で受けた。
青白い光が拳から肘まで立ち上がる。
弾かれた。
首の鞭が、勢いのまま自分の体を壁に叩きつけた。
「ジーク、左の腕三本!」
「はい!」
ジークが剣を斜めに引きながら踏み込む——
殺すための間合い、傭兵の間合い、ガルドが教えた間合い——
一閃で、腕三本のうち二本が根元から落ちた。
ラピスが詠唱を畳む。
「《縛れ》」
短い。
床から水が、薄い膜のように立ち上がった。
四脚の個体の、足元。膜が固まる。足が止まった。
「アナ、奥の二体!」
「あんた、命令するの上手くなったわね」
アナが左手を前に出す。
蛇紋が袖の下で薄く浮いた。
だが、出てきたのは影の蛇ではない。
衝撃波。針ではなく面。押し返す壁。
奥の二体が、見えない壁に押される。
壁に叩きつけられた。動きが止まった。
戦闘の音の中で、グレイルの動きが不規則になり
呻き声を上げながら、動き回ることが多くなっていた。
その声にならない声に気付いたのがアナだった。
「あなたは何を伝えたいの?」
四脚の個体がラピスの水の膜を、無理やり引きちぎろうとしていた。
水が軋む。ラピスの詠唱が、もう一段必要だった。
その時。
グレイルの人間の左腕が伸びた。
四脚の個体の後ろ首を掴む。
押さえつけた。
ぐ、と。
四脚の個体がもがく。
グレイルの人間の腕は離さない。
獣の右腕も添えられる。両側から、押さえつけた。
ラピスの目が見開く。
「兄、上——」
ガルドがその隙に、四脚の頭を青白い拳で潰した。
唸り声が止まる。
他の個体も次々と止まった。
その場で動いているのはグレイルだったもの、だけだった。
最後の一体——顔のない個体が、
アナの影の蛇に魔力を吸われて、干物のように、しぼんで転がった。
戦闘が終わる。
呼吸の音だけが残った。
グレイルが両腕をゆっくり下げる。
そして、膝をついた。
まるで、全てを諦めたかのように。
ガルドがジークに目で合図した。
ジークが奥の警戒に回る。
ナーガがラピスの傍に寄った。
寄ったが、ラピスの邪魔をしないように、半歩下がる。
ラピスがグレイルの前に立った。
膝をついたグレイルの目線と、
ラピスの目線が同じ高さになる。
四つの目のうち、上の二つがラピスを見ていた。
下の二つは虚ろだった。
「兄上」
ラピスが呼ぶ。
グレイルの口が開いた。
「ラ……ピ……ス……」
「コロ、シ、テ……」
「コワ、レ、テ、ル……」
途切れ途切れの音。
ラピスが唇を噛んだ。
そのとき。
アナの目が見開く。
ランタンを持つ手が、ふっと止まった。
グレイルの口がまた開いていた。
何かを言おうとしている。
言葉にならない。
だが——
アナの耳の奥に、何かが流れ込んできた。
あの朝、街道に吹いた風と似ていた。
ゼノスの「ありがとう」が風に消えながら、自分にだけ届いた、あの感触。
頭蓋骨の奥で、何かが震える。
鼓膜の裏側を、誰かが撫でた。
喉の奥が、勝手に動く。
翻訳されたものが、アナ自身の口元に、降りてくる。
アナはグレイルの口元を見つめる。
口はほとんど動いていなかった。
だが、本来の言葉はすでに、そこに、あった。
それを、アナの中の何かが拾った。
それは兄として、次期国王候補として、
かつて伝えることができなかった言葉たちだった。
「——ラピス」
アナが呼ぶ。
ラピスが振り返らずに答えた。
「はい」
「兄上は、こう、言っているわ」
ラピスが息を止めた。
アナはランタンの光の中で、ゆっくりと言葉を置いていく。
「すまなかった、と」
「お前を、見下していた、と」
「お前こそが、王だ、と」
「父上に、伝えてくれ、と」
「最期に——王子で、いられた、と」
ラピスの目から涙が落ちた。
落ちたが、声は出さなかった。
グレイルの口が、最後にもう一度開いた。
だが、もう、本来の言葉は出てこない。
出尽くしたあとだった。
「ラピ……ス……」
ただの音。
でも、確かに、ラピスの名前。
ラピスがジークの方を見た。
ジークが無言で、剣の柄を差し出す。
騎士は、自分の主君ではない人間に剣を渡さない。
だが、ジークは渡した。
渡してから、自分の鞘を空のままにする。
ラピスが両手で剣を握った。
革の柄が、指に食い込む。
鋼の冷たさが、手のひらから、肘まで上がってきた。
重さに腕が下がる。
握り直した。震えていた。
ガルドがラピスの背後に立つ。
両手をラピスの肘に添えた。
ガルドの手は、分厚かった。
革のような手のひらに、いくつもの古い火傷の痕がある。
体温は、戦闘の直後でも、奇妙に落ち着いていた。
ラピスの肘は、震えていて、冷たかった。
その二つが、剣の柄の上で、つながった。
「腰、入れろ」
「震えてる剣は、人を、苦しませる」
教官の声だった。
情緒は、なかった。
情緒を入れたら、ラピスの剣が止まることを、ガルドは知っていた。
ラピスが腰を入れる。
震えが消えたわけではなかった。
だが、剣の先が定まった。
「兄上」
ラピスが最後に呼んだ。
「もう一度、僕が——終わらせます」
剣が入った。
心臓を貫いた。
深く、入った。
グレイルの体が、剣に寄りかかる。
四つの目が、上から、ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ——閉じた。
わずかに微笑んだようなその顔は、
かつて憧れていたあの顔のようだった。
口元から、最後の音が漏れる。
「あ、り、が、と……」
意味は、もう来なかった。
言語理解にも、何も流れない。
本心は、すでに、出尽くしていた。
ラピスが剣を抜こうとした。
抜けない。
ガルドが後ろから手を添える。
一緒に抜いた。
剣をジークに返す。
ジークが受け取って、布で丁寧に拭いた。
「……お見事でした」
ラピスは膝をついた。
グレイルの体の横に。
その時、ラピスの目が止まった。
グレイルの胸元から、鎖が一本、垂れている。
古い鎖だった。表面が黒ずんでいた。
ラピスが指先で鎖を辿った。
鎖の先に、徽章があった。
宝石国王族の徽章。中央に、青い石。
血で汚れた床の上、泥と肉片の散らばる広場の中で——
その青い石だけが、磨かれたままだった。
ランタンの光が、青い石の中で、ゆっくり屈折する。
原石の角ではない。磨かれた石の、中央の、まっすぐな光。
地下室の闇に、その青だけが、汚されずに、残っていた。
「兄上……」
「ずっと、持ってたんですね」
ラピスが鎖を外した。
グレイルの首から外して、自分の首に下げる。
青い石が、ラピスの胸の上で揺れた。
「家に、帰しますから」
ラピスが立ち上がった。
アナがラピスの隣に立つ。
「ラピス。家まで、私が、一緒に行くわ」
「……はい」
ラピスの返事は短かった。
ナーガがラピスの傍にしゃがんだ。
ラピスの右手を、両手で包む。
「冷たいよ」
ラピスが自分の手を見た。
「人を、終わらせると」
「こんなに、冷たく、なるんですね」
ナーガの手の温度は、ラピスの指先まで、まだ届いていない。
それでも、ナーガは握っていた。
ガルドがラピスの肩に手を置いた。
さっきと同じ、分厚い手。古い火傷の痕の、ある手。
「ガキ」
「お前の兄貴。最後にお前のこと、覚えてたぞ」
ラピスが目を閉じる。
「それで、十分だ」
ガルドが肩から手を離した。
ジークが剣を鞘に納める。
ラピスは自分の杖を見下ろした。
床に転がしていた。
詠唱を畳んだ時に滑り落ちて、そのままになっていた。
ラピスは杖を拾わなかった。
「これは、置いていきます」
「兄上を一人にさせたくはない」
ラピスが杖を、弔った傍に置いた。
これまで寄り添えなかった分、
これから国を背負う人間としての覚悟の分、
彼の死を無駄にはしたくはない。
そんな気持ちが表れていた。
しん、と、地下室の空気が沈んだ。
誰も、何も、言わなかった。
「——しんみりするのも、終わりだ!」
ガルドの声が、空気を、断ち切った。
四人が、揃って、顔を上げる。
「お前たち。本来の目的、忘れてねえか?」
アナの目が、瞬いた。
ラピスが、口を、開きかけて、閉じる。
ジークが、鞘の柄に、手を、戻す。
ナーガが、ぱちぱち、と、目を、しばたく。
「あ——」
ラピスが、最初に、思い出した。
「……素材」
「赤金鉱、溶岩鉱脈、凍霧」
アナが、続けた。
皮肉ではなく、確認の声で。
ガルドが、ランタンを、奥の壁に、向けた。
光の輪の中に——
赤い鉱脈が、岩肌から、浮かび上がる。
血の色ではなかった。
もっと、深い、暖かい、赤。
「ちょうど、そこにある」
ガルドが、笑った。
温度のある、笑いだった。
ジークが、息を、吐く。
「鍛冶郷の入口で、こんな話、ありますか」
「ある」ガルドが、
即答した。「アンボスは、そういう街だ」
ガルドが、青白い拳を、握り直す。
壁に、当てた。
一発で、赤い金属の塊が、剥がれ落ちる。
ジークが、袋を広げた。
ラピスが、ランタンを、近づける。
採掘は、長くは、かからなかった。
ラピスが、徽章を、もう一度、握った。
握った指の隙間から、青い石が、まっすぐな光を、返す。
「この徽章は——新しい杖に、埋めます」
ラピスの声が、低かった。
震えていなかった。
ガルドが、笑った。
「お前、王みてえなこと、考えるじゃねえか」
ラピスが、頷いた。
「兄上を、連れて、歩きます」
アナは、何も、言わなかった。
ナーガが、ラピスの隣で、もう一度、頷く。
ジークが、剣の鞘を、撫でた。
***
五人が広場を出た。
階段を登る。
祭壇の崩れ跡を越えた。
ホブの祭壇のもう一つの広間を抜ける。
鉱山跡の坑道を抜けた。
外が、明るかった。
霧降の月の朝だった。
冷たい空気が、五人の頬に触れる。
ラピスが空を見上げた。
雲の切れ目から、光が、差していた。
「……朝、ですね」
「ええ」
アナが答えた。
ラピスが徽章の鎖を整え直す。
歩き出した。
四人が続いた。
かつて袂を分つた兄弟。
これからは共に歩みます。
さあ、どんな杖ができるのでしょうか。
次話は5/3更新予定です。




