第62話:「開口と、邂逅と」
感受性が豊かすぎると、生きづらい。
ホブの体は、動かなくなった。
岩の床に沈むように、静かに横たわっている。
ジークがその首から剣を引き抜いて、地面に刺した。
刃の先が、震えている。
震えていたのは、ジーク自身の手ではない。
——刃の、ほうだった。
ナーガがふらり、と片膝をつく。
最後の白い光が、ジークの肩とラピスの指に流れた。
それで、彼女の治癒は終わった。
ガルドが祭壇の崩れた口を覗き込んで、振り返らずに言った。
「……降りるぞ」
短く、低い。
それだけで、合図になった。
四人が、頷く。
あいつが話しかけてこない。
百と一を、倒し終えた直後。
倒した、だけ。
本来なら腹の底から、合図があるのに
合図がない。ということは危機ではないのだろう。
危機が来ると、あいつは嬉々として登場してくる。
でも、出てこない。
しかし、腹の底にただ薄い不安だけが、ぬるりと居座っている。
蛇紋が、左腕でかすかに、疼く。
***
階段、と呼べるのか、わからなかった。
岩を、人の手で削っただけのもの。
一段一段が低く、ドワーフの背丈に合わせて切り出されたのかもしれない。
壁には、古い金属の輪がねじ込まれていた。
本来はランプを掛けるためのものだろう。
その輪を錆びが、主人は不在の時間を物語っていた。
五人は、無言で降りていく。
先頭は、ガルド。
続いて、ジーク、ラピス。
最後にアナとナーガが、並んだ。
ナーガはアナの腕にしがみつくでもなく、
ただ寄り添うように歩いている。
人一倍感受性が豊かな彼女の足取りだけ重たかった。
土で出来た地下へと続く階段は
なぜか足音を吸い、異様さを増していた。
その刹那
「……これは」
ガルドが、足を止めた。
階段が終わった視界の先には
ダンジョンには似つかわしくない人工物が揃っていた。
「研究所、だな」
低く、確信のある声。
「なぜ鉱山の奥に、研究所が」
ジークが誰にともなく、呟いた。
ガルドは、答えない。
その沈黙が、何かを知っていた。
天井は、低い。
けれども、岩の天井ではない。
人の手で四角く削られた、天井だった。
確実に部屋、だ。誰かが作った部屋だ。
奥には、もう一つ別の扉があった。
ベッドが、並んでいた。
数えるのを、やめた。
見ることすら、やめた。
それぞれの四隅に革の輪がついていて、
革は乾いてひび割れている。
人体から出る全ての液体により、劣化が進んだのだろう。
何かが、巻き付いていた痕。
棚の上に、瓶が並んでいる。
ほとんどが、空。
なかには、半分だけ灰色の液体が残っているものもあった。
ジークが剣の柄を、握る。
ラピスが、杖を抱える。
ナーガは、立ち尽くし。
アナは、部屋をぐるりと見回した。
ガルドだけが、警戒の姿勢を崩さない。
匂いが、あった。
金属の古い匂い。
なのに、薬品の残り香が漂っている
さらに、その二つの奥に、もう一つ沈んでいる匂いがあった。
古いけれど、消えていない。
——血の、匂い。
地下牢の、最初の夜の匂い。
これに、似ていた。
(私もこうなったのかしら。)
ナーガが立ち尽くしたまま、目を閉じた。
砂漠の、占い師の習慣。
熱を、感じる——いや。
冷たかった。
額に汗が浮かび、乾いていない肌に流れ落ちる。
「……ここで」
唇が、かすかに動いた。
「何かが、あった」
四人が、彼女を見る。
「子供たちが、いた」
声が、震える。
「ずっと、泣いていた」
涙がひと筋、こぼれた。
「人じゃないものに、なっていく」
砂漠育ちの女は、踏み込むことを恐れない。
蜃気楼と本物を見分ける足で、見ない振りができない。
——だから、見えてしまう。
アナがナーガの背中に手を置くと、
その温度にすがるようにして、ナーガはしゃがみ込んだ。
両手で口を押さえる。
吐きそうな息を、堪えた。
その異様さに誰も、口を開けなかった。
いや、開かなかった。
ジークが剣の柄を握り直し、ラピスが杖を抱きしめ直す。
ガルドが、ナーガの隣に片膝をついた。
「……無理すんな」
ナーガは、首を振った。
「見えた、けど――口にしたくない」
それだけ言って、それ以上は言わなかった。
アナはナーガの震える肩を、見ていた。
やがて、部屋の奥のベッドへ視線を移す。
ベッドの横の床に、紙が何枚か散らばっていた。
アナが近づき、紙を一枚拾い上げる。
古い紙。
書かれていたのは、帝国の文字だった。
——本来なら、読めるはずがない文字。
地下牢で五年を過ごした女が、習うはずだった言葉。
皇族専用の書式の文字。
だが、アナの目には、文字が意味を持って入ってきた。
ゼノスの魔石——言語理解。
あの銀髪が「面白いね」と笑いながら手渡したそれが、
文字に対して、初めて本気で意味を持つ夜だった。
(こんなものまで読めるようになるなんて。)
紙を、見つめる。
読み取れる文字、読み取れない文字、掠れて消えた文字。
——「被験者 No.」
番号は、消えていた。
——「測定値」
数字も、消えていた。
けれども、書式が同じだった。
ゼノスの通信器に灯る、あの数字。
「○.○」と書く、あの書式。
アナの指が、紙の上で止まった。
別の紙を、拾う。
——「閉鎖」「廃棄」「移送」
三つの判子。
それぞれ、別の日付。
さらに、別の紙。
——「失敗例 多数」「成功例」
成功例の数字は、消されていた。
意図的に消したような、筆致だった。
最後の一枚。
下のほうに、走り書きのような文字があった。
——「逃げ出した個体あり、捕捉できず」
アナの手が、震えた。
隠そうとしたが、隠せなかった。
ガルドが、横から紙を覗き込む。
彼に、文字は読めない。
読めないが、アナの震えだけは、見えた。
「……何が、書いてある」
アナは答えず、もう一枚を拾った。
——「キメラ」
その文字が、あった。
地下牢の女は、「キメラ」という言葉を聞いたこともない。
聞いたこともないのに、意味だけが、わかった。
言語理解の魔石が、
文字の奥にある概念を、頭に直接流し込んでくる。
人と、獣を、繋ぎ合わせる——そういう研究。
(……ああ)
胃の底が、ぐにゃりと曲がった。
地下牢の五年が、ふと、瞼の裏で揺れた。
——鉄の格子。冷たい床。「無能」と書かれた札。
私も、似たようなところに、いた。
私も、誰かにとっての「被験者」だったのかもしれない。
ただ——番号が、振られなかっただけで。
「……ここは」
アナの唇が、動いた。
「軍工場、だ」
ガルドが、立ち上がった。
「――帝国の」
低く、一言。
ジークが剣の柄を握り直し、ラピスが杖を両手で抱える。
ナーガがしゃがんだまま、顔を上げた。
その時だった。
部屋の奥の扉。
別の通路へと続く扉の向こうから、音がした。
引きずるような、足音。
ひとつ、だ。
ふたつでは、ない。
ひとつ。
だが、重さと圧力はひとつではない。
五人が、振り返る。
ガルドがジークの前に出て、
ラピスは杖を構え、
アナはゆっくりと左腕を上げかけた。
ナーガが、立ち上がる。
立ち上がれた。
扉が、ぎぃ、と開いていく。
開ききるのを待たずに——影が、現れた。
ホブよりは、小さい。
でも小型ゴブリンよりは、大きい。
人間の体に、似ていた。
——けれども、人間ではなかった。
片腕が、獣のかたちをしていた。
肘から先が、獣の手。
爪は、人差し指の長さの二倍はある。
目は、四つあった。
前に二つ。
額の上に、もう二つ。
四つの目が、五人を見据えた。
武器を、持っている。
折れた剣——人間の武器。
それを、握り直した。
握り直す、ということは。
——人間の握り方を、知っているということ、だった。
(……ああ。本当に、ね)
「個体じゃないわ。人間よ。」
誰も、答えなかった。
喉から、ぐ、ぐ、と低い音が漏れる。
その音がやがて、形を持った。
「 、」
ガルドの背中が、低くなる。
「 、」
ラピスの息が、止まった。
「、、、」
——ア、。
人間の、言葉だった。
「ア、ナ」
もう一度。
はっきりと。
四つの目が、揺れた。
揺れたその奥で、何かが笑ったように見えた。
折れた剣が地面を擦り、ガリ、と低い音を立てる。
灯りが、ぐらりと揺れた。
ナーガには研究所の過去の姿
そして、アナには嫌な思い出を流し込んできた場所で
待ち受けるキメラは一体。
口を開いた彼は
なぜアナの名前を呼んだのでしょう。




