第60話:『影と、退路と、祭壇と』(2026年4月29日修正)
今日はアイツと初遭遇します。
(本文2026年4月29日修正)
夜は、明けきっていなかった。
焚き火が消されて、岩の口がぽっかりと開いている。
(……ダンジョン、ね)
地下牢に似た匂いがした。
湿った石。錆びた金属。
それと——閉じ込められたものの、息。
ガルドが先頭に立つ。
その後ろにラピス、続いてアナとナーガ。最後尾はジーク。
ラピスが杖の先に灯りを点した。
小さな、白い光。
光は闇を二歩ぶんしか押し返さない。
ダンジョンでは明るすぎてもいけない、とガルドが以前言っていた。
明るすぎず、暗すぎず——その塩梅が難しいらしい。
(……欲張りな闇ね)
ガルドが、振り返らずに低く告げた。
「行くぞ」
それだけだった。
五人の足音が、岩の口に吸い込まれていった。
入って、すぐに空気が変わる。
一歩踏み込んだだけなのに、外の朝の匂いはもうなかった。
代わりに湿った石と錆びた鉄の匂いが、鼻の奥に貼りついた。
朽ちたトロッコ。
外れた車輪。
途中で曲がったレール。
誰かが力ずくで曲げた、というよりは——長い時間をかけて、地面のほうが動いた。そういう曲がり方だった。
支柱が傾いて、その上に剥げた塗料の文字が半分だけ残っている。
何の文字だったのか、五人の誰にも読めなかった。
(……読めないんじゃない。読まれる気のない文字、ってやつね)
水滴が規則的に落ちている。
ぽつ。
ぽつ。
ぽつ。
五人の足音がひとつになって、反響してきた。
ジークの剣の鞘が一度、肩で擦れそうになって、すんでで止まる。
ラピスの灯りがふっと、揺れた。
揺れた、というよりは——揺らされた。
何かに、揺らされた。
灯りの輪の外で、コトリ、と何かが鳴った。
五人の足が、止まる。
止まったきり、誰も動かない。
水滴だけが、また落ちた。
ぽつ。
暗がりから、影がひとつ出てきた。
膝丈ほどの背丈、痩せた腕、尖った耳。
その後ろに、もう一つ。
さらに、もう一つ。
最後に、もう一つ。
四つの影が灯りの輪の縁に立ち、歯を剥いた。
(……出来るゴブリン、ねえ)
アナの中で、何かが小さく笑った。
ガルドが手をひと振りすると、それだけで全員の隊列が揃った。
ジークが前に出る。
ラピスが視線を、四つの影の真ん中に据える。
ナーガがアナの背にすっと回り、両手をゆっくり開いた。
——治癒の、構え。
ゴブリンが左右に散った。
連携のつもりだ。
一匹が前から、二匹が左右から、最後の一匹が後ろを取ろうとする。
教科書のような囲み方。
(……教科書、ね。それも丸暗記、って顔してる)
ジークが剣を抜いた——抜いた、というよりは引いた。
引きの間合いを、倍にとる。
ガルドの講義のとおりだった。
前のゴブリンが躍りかかってくる。
ジークの剣は、ゴブリンが踏み込んだ次の一歩を待っていた。
引きの間合いの奥に入った瞬間、剣が走る。
短く、湿った音とともに、ゴブリンが前のめりに伏せた。
左右の二匹は、ラピスを見ていた。
ラピスは、二匹を見ていなかった。
二匹の真ん中、その間の空間を見ていた。
杖の先から、宝石のような小さな光が二つ、飛ぶ。
二匹の喉に、それぞれ吸い込まれる。
声を出すこともできずに、二匹は倒れた。
最後の一匹が、後ろを取ろうとしていた。
(……あら。後ろは、留守よ)
アナが左腕を、軽く上げる。
足元の影が揺れて、ひとつ立ち上がった。
黒い、蛇のかたち。
蛇はゴブリンの足を横から絡めとり、声を上げかけた口より先に、首にきつく巻きついた。
ぎゅ、と。
ゴブリンの目が白くなり、倒れた。
四つの影が、灯りの中に伏せられた。
誰も口を開かなかった。
ジークが剣を引く。
ラピスが杖の灯りを、息で整える。
影の蛇は、アナの足元にふっと戻った。
——あれから、影の使い方が急激に上達した。
仲間の前で、私利私欲ではなく蛇を出した、あの夜から。
(……便利になったものね、私)
ナーガがゆっくり、両手を下ろす。
誰も、治す必要がなかった。
ガルドは四つの影をちらりと見て、目を奥の通路に戻した。
それだけだった。
道が下りはじめ、天井が低くなった。
ジークが軽く頭を下げ、また少し下げる。
空気が湿った。
湿りが、鉄の匂いと混じる。
血ではない。
鉄、だけだ。
それが、かえって気味が悪かった。
(……血の匂いなら、まだわかりやすかったのに)
壁に引っかき傷があった。
新しい傷ではない。
古い傷でも、ない。
——その間の傷だった。
骨が落ちていた。
人の骨か、獣の骨か、ゴブリンの骨か。
なぜそれがここに転がっているのか、誰も口にしなかった。
踏み潰された松明があった。
踏み潰された方向は、奥からこちら側へ向かっている。
誰かがここから逃げようとした。
逃げきれなかった。
そういう松明、だった。
ガルドが立ち止まり、振り返らずに視線だけで四人に伝える。
いるな、と。
灯りの輪の外で、気配が増えていた。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
数え終わる前に、五つに、なっていた。
ジークの剣の鞘が、また一度、鳴りそうになって、鳴らなかった。
光は、進むほどに痩せていった。
ラピスがいくら息を整えても、いくら指を握り直しても、灯りが押し返せる範囲は進むほどに、狭くなる。
闇が濃かった。
濃い、というよりは——濃いものが、こちらへ近づいてきていた。
アナの隣で、ナーガが息を止めた。
止めて、ゆっくり吐く。
砂漠の占い師の、習慣。
熱を、感じている。
ナーガが小さく、首を振った。
「……苦いね」
それだけ言った。
アナは、それに答えなかった。
答えずに、足元の影を見た。
影は、揺れていた。
(……苦い、ね)
苦い空気の、その先に、何かが、いた。
通路がふっと抜けて、開けた空間に出た。
崩れた採掘場跡。
天井が高く、その分だけ闇も深い。
中央に、台座のようなものがあった。
古い、石の台座。
祭壇と呼ぶには雑だったが、雑なりに、確かに祭壇のつもりで誰かが作ったものだった。
台座の上に骨が積まれ、骨の上に布の塊が置かれている。
布は、人のものだった。
着ていた人の形に、しなびていた。
(……着ていた、人。ね)
胃の底が、ぬるりと曲がった。
五人の視線が台座に吸い寄せられた——その時だった。
背後の通路で、足音。
複数の、軽い、小さな足音。
ひしひしと、後ろから押し寄せてくる。
ジークが振り返り、息を呑んだ。
退路の通路。
灯りの届かないその奥に、無数の小さな目。
ひとつ、ふたつ、と数えるのを、やめた。
二十は、いた。
三十、かもしれなかった。
(……数える意味、ないわね)
ナーガがアナの腕にしがみつき、両手を握り直す。
ラピスの灯りがぐらり、と揺れた。
揺らしたのは、風ではない。
何か、もっと重いものの、息だった。
息は、前から来ていた。
祭壇の奥。
骨の山の、向こう。
そこで、影がゆっくりと立ち上がった。
立ち上がってなお、天井に頭がつかなかった。
つかなかったが——つきそうな、高さだった。
肩の幅は、ガルドの二倍。
腕の長さは、ジークの剣ほど。
手に武器を持っている。
武器は、二本。
そのうちの一本を、地面に擦らせた。
ガリ。
ガリ、と。
もう一本も、擦らせる。
ガリ。
——それは、こちらに聞かせるための、音だった。
逃げ道は、後ろにいる二十、三十のゴブリンが塞いでいる。
進む先には、その影。
ガルドの背中が低くなった。
低くなった、というよりは——構えた。
四人をちらりと、目で確認する。
声を絞って、低く短く言った。
「……ホブだ」
それだけだった。
灯りがぐらり、と、もう一度揺れた。
揺れたその向こうで、影が笑ったように見えた。
歯を剥いた、その歯の長さは、ジークの剣の半分はあった。
二本の武器が、もう一度、地を擦った。
ガリ。
ガリ。
それから、ぴたり、と止まった。
初ダンジョンで遭遇したのは
初登場のゴブリンです。
僕が大好きな作品にも出てくるので、
舐めてかからないよう、大切に扱わせて頂きます。




