第58話:『月喰う夜と夜喰う月』
「一回だけ」と言って本当に一回だけで終わることはあるでしょうか。
アナの左腕から、黒い蛇紋が、手首のほうまで広がっていた。
影の蛇が、足元から三匹、のたうつ。
月光に、赤い髪が、濡れていた。
『食べたいの?』
内なる女の声が、腹の奥で、甘く、鳴った。
アナは、答えなかった。
答える代わりに、息を、短く、吐いた。
——一度だけ。
——一度だけ、任せるわ。
腹の奥で、何かが、笑った。
その瞬間、アナの意識が、ふっ、と、内側へ、沈んだ。
代わりに、何かが、体の表側に、出てきた。
影の蛇が、三匹とも、月光のほうへ、跳ねた。
跳ねさせた指は、アナの指ではなかった。
※※※
糸の牢が、五人を、包んでいた。
上から、横から、下から、無数の白い糸が、網を閉じ続けている。
触れれば、魔力が、吸われる。
切ろうとすれば、弾き返される。
『——食えばいいのよ』
女の声が、アナの口から、甘く、漏れた。
影の蛇が、糸の一本に、牙を、立てた。
白い糸が、ずるりと、消えた。
魔法反射の糸は、暴食の牙には、ただの、餌だった。
「……嘘」
ナーガが、呟いた。
影の蛇は、糸の網の、端から端まで、食い漁った。
檻が、穴だらけに、なっていく。
ガルドが、一瞬だけ、動きを止めた。
それから、気絶したままのラピスと、
血を流したまま踏ん張っているジークを、腕で、引き寄せた。
「——二人の方は、任せたぞ」
ガルドはナーガに、殊のほか低く言った。
ナーガを落ち着かせるため。
そして、守れなかった自分を許せないため。
ガルドの右の拳が、青白く、光っていた。
いつもより、少しだけ、色が、濃い気がした。
***
アナの体を、今、動かしているのは——アナではない。
それが、ラピスには、分かった。
意識が朦朧としている中で、それだけが、痛いほど、分かった。
『……硬そうね』
女が、指を、軽く、振った。
仕草が、アナに、
似ていて、似ていなかった。
角度が、違う。
温度が、違う。
指先の、重心が、違う。
彼が敬愛する主とは
似ているようで、似ていなかった。
影の蛇の一匹が、月光の下を、跳ねた。
跳ねて、親玉の右前脚の、付け根に、噛み付く。
そのまま、顔を、上げた。
八つの赤い目の、
一番下の左に、牙を、突き立てた。
ぶつり。
赤い光が、ひとつ、消えた。
親玉が、咆哮した。
森の樹々の葉が、一斉に、震えた。
影の蛇の二匹目が、続いた。
ぶつり。
二つ目の赤が、消えた。
親玉が、また、吠えた。
糸の網の密度が、目に見えて、薄くなっていた。
残り、六つ。
***
『——六つ、ね』
女が、呟いた。
親玉の体が、一回り、縮んだように、見えた。
目を潰された分、何かが、削れた。
『全部、潰さないと、死なないの? 面倒な子』
女が、顎に指を一本、当てた。
その仕草は、アナの仕草だった。
でも、
唇の開き方が、違った。
舌の運び方が、違った。
喉の震わせ方が、違った。
親玉が、残りの脚で、
女の体に向かって、飛びかかった。
影の蛇が、一匹、割って入る。
女の胸元の、手の届く距離で、脚が、止まった。
糸のない親玉は、ただの、大きな、虫だった。
「——嬢ちゃん、下がれ」
ガルドの声が、背中から、低く、届いた。
女が、半歩、下がった。
でも、唇の端だけが、小さく、上がっていた。
『嬢ちゃん、ね』と、
聞こえなかった声で、呟いた気がした。
***
ガルドの拳が、青白い軌跡を、夜に、描いた。
跳ねる。
右脚。
左前脚。
背中。
親玉の体が、ガルドの、跳ね返る足場になっていた。
最後の一歩で、ガルドは、親玉の額まで、跳んでいた。
右の拳が、振り下ろされる。
三つ目の、赤。
ぶつり。
左の拳が、回り込む。
四つ目の、赤。
ぶつり。
着地した時、ガルドの顔は、
一瞬、血の気が、引いていた。
でも、すぐに、戻った。
誰も、気づかなかった。
ガルドは、誰にも、気づかせなかった。
ガルドが、低く、言った。
「——嬢ちゃん。あと、四つ」
女が、笑った。
唇の端だけが、少し、上がる、笑い方だった。
『……頑張ってるわね、あのおじさん』
女の声が、鈴のように、鳴った。
——ガルドは、おじさんじゃないわよ。
アナの意識が、内側から、反論した。
でも、その声は、どこにも、届かなかった。
***
影の蛇が、一匹、親玉の、
左の目に、噛み付いた。
ぶつり。
五つ目が、消えた。
蛇が、目の中を、食べていた。
食べ終わると、次の目に、顔を、突き立てた。
六つ目。
ぶつり。
親玉の体が、
もう、半分以下に、縮んでいた。
咆哮も、上げなくなっていた。
残り、二つ。
『——おいしい』
女が、呟いた。
口の、両端が、いつもより、上がっていた。
『もっと、食べたい』
影の蛇が、七つ目の目に、噛み付いた。
ぶつり。
ジークが、震える声で、何かを、言いかけた。
ラピスが、意識が朦朧とする中で、その女を、見ていた。
ガルドが、拳を、もう一度、握り直した。
親玉の体が、崩れ始めていた。
脚が、一本ずつ、地面に、落ちる。
残り、一つ。
***
——女の足元の蛇紋が、ぞろり、と、脈打った。
新しい蛇が、生まれる。
一匹、二匹。
太い、黒い、蛇が、女の足元に、とぐろを、巻いた。
蛇が、女の体を、背に、乗せた。
ゆっくりと、ゆっくりと、夜空のほうへ、持ち上げていく。
月光の下で、赤い髪が、揺れた。
——あれは、姫様じゃない。
血のにじむ口の中で、ジークは、
一度だけ、そう、声を、殺した。
——でも、あれも姫様の一部だ。
そう言葉にしなければ、
敬愛が、折れそうだったから。
高い、高い、場所で、女は、崩れ落ちる親玉を、見下ろしていた。
残った最後の赤が、女の足元の、はるか下で、弱く、光っていた。
女の、白い指が、伸びた。
膝を折るように、しゃがむ。
赤い目の、粘膜の縁に、指を、引っ掛ける。
ぐる、と、抉り取った。
親玉の、最後の咆哮が、女の足場を、下から、震わせた。
揺れる足場の上で、女は、表情を、変えなかった。
林檎でも、齧るように、その赤を、口に、運んだ。
ぶつり。
赤い光が、最後の、一つまで、消えた。
巨体が、崩れ、森の地面に、沈んでいった。
——親玉は、死んだ。
でも、女は、まだ、咀嚼していた。
赤を、噛んでいた。
月光の下で、咀嚼する、音だけが、夜に、続いていた。
ラピスが、意識の端で、それを、見ていた。
その女の体が、一瞬、自分の主を、
取り戻しかけているのを、見ていた。
「——ねえ。」
アナの声が、ようやく、表側に、出た。
女の唇を、借りて、宙に、向けた。
何かを食べているのかは分かる。
ただ、何を食べているかは分からない。
「……何があったの?」
言葉が、空気を、震わせた。
『さあ?』
甘い、甘い、声が、腹の奥から、答えた。
『気になる?』
アナが、笑った。
女の唇の角度と、少しだけ、違う笑い方だった。
「……気になるわよ」
——独り言。
ガルドの耳には、そう、聞こえた。
ナーガの耳にも、そう、聞こえた。
ジークにも。ラピスにも。
でも、アナの腹の奥では、二人分の会話が、続いていた。
ゼノスの、魔石の、贈り物が、今夜、初めて、意味を、持った夜だった。
***
「——アナちゃん!」
ナーガの声が、夜を、裂いた。
砂漠の熱が、森の夜に、突き刺さる、声だった。
女の肩が、一度だけ、びくり、と、揺れた。
赤い髪の奥で、目が、ゆっくりと、焦点を、取り戻した。
腹の奥で、気配が、引いていく。
『……しょうがないわね』
甘い、甘い、名残の声だけが、残った。
足場の蛇が、ゆっくりと、女を——
アナを、月光の下から、地面まで、降ろしていく。
アナが、地面に、両足を、着いた。
口の中に、まだ、何かの味が、残っていた。
自分が、何を、食べたのか、分からなかった。
思い出そうとすると、頭の中が、少しだけ、痛んだ。
***
アナが、息を、ひとつ、吐いた。
左腕の蛇紋が、ゆっくりと、手首のほうへ、引いていく。
影の蛇が、足元に、一匹、二匹、吸い込まれるように、消える。
視界の端で、何かが、動いている。
振り返ると、もう、ラピスが、
木の根元に、寝かされていた。
胸の布が、真新しい包帯に、変わっている。
ジークも、右肩と、脚の糸の跡に、
薄い光の膜が、張られている。
ナーガが、ラピスの横で、両手を、膝に置いて、荒い息を、していた。
ガルドが、ジークの横に、腕を組んだまま、座っていた。
「……どれくらい、経ったの」
アナが、やっと、口を、開いた。
ガルドが、静かに、答えた。
「——お前が、食ってる時間は、長え」
淡々とした声だった。
怒りも、恐れも、混じっていなかった。
ただ、事実だけが、そこに、置かれた。
***
アナの、腰の袋の奥で、小さな、光が、点いた。
取り出すと、ゼノスから渡された、
あの、魔道通信器だった。
初めて、見る、数字が、表示されていた。
『2.3』
アナは、じっと、その数字を、見つめた。
何の数字かは、分からなかった。
分からなかったけれど——。
腹の奥の、さっきまで声がしていた場所が、もう、静かだった。
その静けさだけが、2.3という数字の、意味を、知っているような気がした。
ラピスが、起き上がれないまま、
首だけを、こちらに向けた。
青い目が、通信器の光を、映した。
「……ゼノスの、罠か、それとも——」
ラピスの声は、掠れていた。
誰も、意味を、分かっていなかった。
でも、アナの、腹の奥で、最後に、ひとつ、だけ、甘い声が、聞こえた。
『ねえ、また、呼んでね』
***
月が、森の端に、沈みかけていた。
沈む月の、最後の、銀色が、アナの赤い髪の、端を、濡らした。
闇の中で、『2.3』という、小さな数字だけが、弱く、光っていた。
月は、沈んだ。
夜が、森を、包んだ。
——夜の中で、もう、ひとつ、夜が、息を、していた。
『あれは、姫様じゃない』
『でも、あれも姫様の一部だ』
ジークの、たった一言の受容が、今夜、ひとつの主の、輪郭を、少しだけ、広げました。
『2.3』という数字の意味を、姫様自身も、まだ、知りません。
それでも、あの女は、確かに、『また呼んでね』と、言いました。
いつも応援、ありがとうございます。
次回更新は、4月25日の予定です。




