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〜無能で最弱の元プリンセスが、地獄の果てまで飲み込む復讐界隈の話〜 ミセス アナコンダ  作者: 大背戸智
第六章「鍛冶郷アンボス編」

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第58話:『月喰う夜と夜喰う月』

「一回だけ」と言って本当に一回だけで終わることはあるでしょうか。

アナの左腕から、黒い蛇紋が、手首のほうまで広がっていた。


影の蛇が、足元から三匹、のたうつ。

月光に、赤い髪が、濡れていた。


『食べたいの?』


内なる女の声が、腹の奥で、甘く、鳴った。


アナは、答えなかった。

答える代わりに、息を、短く、吐いた。


——一度だけ。

——一度だけ、任せるわ。


腹の奥で、何かが、笑った。


その瞬間、アナの意識が、ふっ、と、内側へ、沈んだ。

代わりに、何かが、体の表側に、出てきた。


影の蛇が、三匹とも、月光のほうへ、跳ねた。

跳ねさせた指は、アナの指ではなかった。


※※※


糸の牢が、五人を、包んでいた。


上から、横から、下から、無数の白い糸が、網を閉じ続けている。

触れれば、魔力が、吸われる。

切ろうとすれば、弾き返される。


『——食えばいいのよ』


女の声が、アナの口から、甘く、漏れた。


影の蛇が、糸の一本に、牙を、立てた。

白い糸が、ずるりと、消えた。


魔法反射の糸は、暴食の牙には、ただの、餌だった。


「……嘘」


ナーガが、呟いた。


影の蛇は、糸の網の、端から端まで、食い漁った。

檻が、穴だらけに、なっていく。


ガルドが、一瞬だけ、動きを止めた。

それから、気絶したままのラピスと、

血を流したまま踏ん張っているジークを、腕で、引き寄せた。


「——二人の方は、任せたぞ」


ガルドはナーガに、殊のほか低く言った。

ナーガを落ち着かせるため。

そして、守れなかった自分を許せないため。


ガルドの右の拳が、青白く、光っていた。

いつもより、少しだけ、色が、濃い気がした。


***


アナの体を、今、動かしているのは——アナではない。

それが、ラピスには、分かった。

意識が朦朧としている中で、それだけが、痛いほど、分かった。


『……硬そうね』


女が、指を、軽く、振った。


仕草が、アナに、

似ていて、似ていなかった。


角度が、違う。

温度が、違う。

指先の、重心が、違う。


彼が敬愛する主とは

似ているようで、似ていなかった。


影の蛇の一匹が、月光の下を、跳ねた。

跳ねて、親玉の右前脚の、付け根に、噛み付く。


そのまま、顔を、上げた。


八つの赤い目の、

一番下の左に、牙を、突き立てた。


ぶつり。


赤い光が、ひとつ、消えた。


親玉が、咆哮した。

森の樹々の葉が、一斉に、震えた。


影の蛇の二匹目が、続いた。


ぶつり。


二つ目の赤が、消えた。


親玉が、また、吠えた。

糸の網の密度が、目に見えて、薄くなっていた。


残り、六つ。


***


『——六つ、ね』


女が、呟いた。


親玉の体が、一回り、縮んだように、見えた。

目を潰された分、何かが、削れた。


『全部、潰さないと、死なないの? 面倒な子』


女が、顎に指を一本、当てた。

その仕草は、アナの仕草だった。



でも、

唇の開き方が、違った。

舌の運び方が、違った。

喉の震わせ方が、違った。



親玉が、残りの脚で、

女の体に向かって、飛びかかった。

影の蛇が、一匹、割って入る。



女の胸元の、手の届く距離で、脚が、止まった。


糸のない親玉は、ただの、大きな、虫だった。


「——嬢ちゃん、下がれ」


ガルドの声が、背中から、低く、届いた。


女が、半歩、下がった。


でも、唇の端だけが、小さく、上がっていた。

『嬢ちゃん、ね』と、

聞こえなかった声で、呟いた気がした。


***


ガルドの拳が、青白い軌跡を、夜に、描いた。


跳ねる。

右脚。

左前脚。

背中。


親玉の体が、ガルドの、跳ね返る足場になっていた。

最後の一歩で、ガルドは、親玉の額まで、跳んでいた。


右の拳が、振り下ろされる。



三つ目の、赤。

ぶつり。


左の拳が、回り込む。


四つ目の、赤。

ぶつり。


着地した時、ガルドの顔は、

一瞬、血の気が、引いていた。

でも、すぐに、戻った。


誰も、気づかなかった。

ガルドは、誰にも、気づかせなかった。


ガルドが、低く、言った。



「——嬢ちゃん。あと、四つ」



女が、笑った。

唇の端だけが、少し、上がる、笑い方だった。


『……頑張ってるわね、あのおじさん』


女の声が、鈴のように、鳴った。


——ガルドは、おじさんじゃないわよ。


アナの意識が、内側から、反論した。

でも、その声は、どこにも、届かなかった。


***


影の蛇が、一匹、親玉の、

左の目に、噛み付いた。


ぶつり。


五つ目が、消えた。


蛇が、目の中を、食べていた。

食べ終わると、次の目に、顔を、突き立てた。


六つ目。

ぶつり。


親玉の体が、

もう、半分以下に、縮んでいた。

咆哮も、上げなくなっていた。



残り、二つ。


『——おいしい』


女が、呟いた。

口の、両端が、いつもより、上がっていた。


『もっと、食べたい』


影の蛇が、七つ目の目に、噛み付いた。


ぶつり。


ジークが、震える声で、何かを、言いかけた。

ラピスが、意識が朦朧とする中で、その女を、見ていた。

ガルドが、拳を、もう一度、握り直した。


親玉の体が、崩れ始めていた。

脚が、一本ずつ、地面に、落ちる。



残り、一つ。



***



——女の足元の蛇紋が、ぞろり、と、脈打った。


新しい蛇が、生まれる。

一匹、二匹。

太い、黒い、蛇が、女の足元に、とぐろを、巻いた。


蛇が、女の体を、背に、乗せた。


ゆっくりと、ゆっくりと、夜空のほうへ、持ち上げていく。


月光の下で、赤い髪が、揺れた。


——あれは、姫様じゃない。


血のにじむ口の中で、ジークは、

一度だけ、そう、声を、殺した。


——でも、あれも姫様の一部だ。


そう言葉にしなければ、

敬愛が、折れそうだったから。


高い、高い、場所で、女は、崩れ落ちる親玉を、見下ろしていた。


残った最後の赤が、女の足元の、はるか下で、弱く、光っていた。


女の、白い指が、伸びた。

膝を折るように、しゃがむ。


赤い目の、粘膜の縁に、指を、引っ掛ける。


ぐる、と、抉り取った。


親玉の、最後の咆哮が、女の足場を、下から、震わせた。

揺れる足場の上で、女は、表情を、変えなかった。


林檎でも、齧るように、その赤を、口に、運んだ。


ぶつり。


赤い光が、最後の、一つまで、消えた。


巨体が、崩れ、森の地面に、沈んでいった。


——親玉は、死んだ。


でも、女は、まだ、咀嚼していた。

赤を、噛んでいた。


月光の下で、咀嚼する、音だけが、夜に、続いていた。


ラピスが、意識の端で、それを、見ていた。

その女の体が、一瞬、自分の主を、

取り戻しかけているのを、見ていた。


「——ねえ。」


アナの声が、ようやく、表側に、出た。


女の唇を、借りて、宙に、向けた。

何かを食べているのかは分かる。

ただ、何を食べているかは分からない。


「……何があったの?」


言葉が、空気を、震わせた。


『さあ?』


甘い、甘い、声が、腹の奥から、答えた。


『気になる?』


アナが、笑った。

女の唇の角度と、少しだけ、違う笑い方だった。


「……気になるわよ」


——独り言。


ガルドの耳には、そう、聞こえた。

ナーガの耳にも、そう、聞こえた。

ジークにも。ラピスにも。


でも、アナの腹の奥では、二人分の会話が、続いていた。


ゼノスの、魔石の、贈り物が、今夜、初めて、意味を、持った夜だった。



***



「——アナちゃん!」


ナーガの声が、夜を、裂いた。


砂漠の熱が、森の夜に、突き刺さる、声だった。


女の肩が、一度だけ、びくり、と、揺れた。


赤い髪の奥で、目が、ゆっくりと、焦点を、取り戻した。


腹の奥で、気配が、引いていく。

『……しょうがないわね』

甘い、甘い、名残の声だけが、残った。


足場の蛇が、ゆっくりと、女を——

アナを、月光の下から、地面まで、降ろしていく。


アナが、地面に、両足を、着いた。


口の中に、まだ、何かの味が、残っていた。

自分が、何を、食べたのか、分からなかった。

思い出そうとすると、頭の中が、少しだけ、痛んだ。



***



アナが、息を、ひとつ、吐いた。


左腕の蛇紋が、ゆっくりと、手首のほうへ、引いていく。

影の蛇が、足元に、一匹、二匹、吸い込まれるように、消える。


視界の端で、何かが、動いている。


振り返ると、もう、ラピスが、

木の根元に、寝かされていた。

胸の布が、真新しい包帯に、変わっている。


ジークも、右肩と、脚の糸の跡に、

薄い光の膜が、張られている。


ナーガが、ラピスの横で、両手を、膝に置いて、荒い息を、していた。

ガルドが、ジークの横に、腕を組んだまま、座っていた。


「……どれくらい、経ったの」


アナが、やっと、口を、開いた。


ガルドが、静かに、答えた。


「——お前が、食ってる時間は、長え」


淡々とした声だった。

怒りも、恐れも、混じっていなかった。


ただ、事実だけが、そこに、置かれた。



***



アナの、腰の袋の奥で、小さな、光が、点いた。


取り出すと、ゼノスから渡された、

あの、魔道通信器だった。


初めて、見る、数字が、表示されていた。


『2.3』


アナは、じっと、その数字を、見つめた。

何の数字かは、分からなかった。

分からなかったけれど——。


腹の奥の、さっきまで声がしていた場所が、もう、静かだった。

その静けさだけが、2.3という数字の、意味を、知っているような気がした。


ラピスが、起き上がれないまま、

首だけを、こちらに向けた。

青い目が、通信器の光を、映した。



「……ゼノスの、罠か、それとも——」



ラピスの声は、掠れていた。


誰も、意味を、分かっていなかった。


でも、アナの、腹の奥で、最後に、ひとつ、だけ、甘い声が、聞こえた。


『ねえ、また、呼んでね』



***



月が、森の端に、沈みかけていた。


沈む月の、最後の、銀色が、アナの赤い髪の、端を、濡らした。


闇の中で、『2.3』という、小さな数字だけが、弱く、光っていた。


月は、沈んだ。

夜が、森を、包んだ。


——夜の中で、もう、ひとつ、夜が、息を、していた。



『あれは、姫様じゃない』

『でも、あれも姫様の一部だ』


ジークの、たった一言の受容が、今夜、ひとつの主の、輪郭を、少しだけ、広げました。


『2.3』という数字の意味を、姫様自身も、まだ、知りません。

それでも、あの女は、確かに、『また呼んでね』と、言いました。


いつも応援、ありがとうございます。

次回更新は、4月25日の予定です。

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