第57話:「油断の糸を裁ち切る月影」
久しぶりに、あいつが起きます。
ドルンからの書き置きを握って、
ギルドの受付嬢から依頼票を受け取った朝。
街は、朝市の匂いに包まれていた。
五人の背中を押したのは、
風でも、街の喧騒でも、祭を祝う歓声でもなかった。
かぁん——かぁん——。
街の中ほどから、槌の音が、一定の間隔で、鳴り続けていた。
白い髭の老いたドワーフは、
工房の前にも、扉の外にも、一度も顔を出さなかった。
誰かに向けた音じゃない。
彼はただ、自分の鉄を打っているだけだ。
それなのに、聞く方の背筋が、ひとつ、伸びる。
金床の音に、そういう類のものがあると、五人は今日、初めて知った。
誰も振り返らなかった。
でも、歩幅は、ほんの少しだけ、変わった。
***
森の入り口に野営を張ったのは、夕方前。
満月を待つ、と、ラピスが決めた。
「月光蜘蛛は、満月に近い夜ほど、活動が活発になるそうです」
「……」
「糸の魔力も、そのぶん濃くなります」
ラピスが依頼票を読み上げる横で、ナーガが治癒薬の小瓶を整列させていた。
ラベルを確かめる。
赤、青、緑、銀。リーゼに教わった順番に、取り出しやすい位置へ。
「戦える人から治す、だよ。迷ってる時間はないんだから」
ナーガが、自分に言い聞かせるように呟く。
砂漠の孤児院では、順番なんか考えなくてよかった。
みんな、大切だったから。
ジークは、木陰で素振りをしていた。
剣の重さが、少しだけ、軽くなっていた気がする。
でも、鞘に戻す瞬間、胸の真ん中で、何かが、まだ重い。
——守る相手が死んだ後の、ことを、考えたことは、あるか。
レインの問いが、まだ、鞘の内側に、入ったままだった。
ラピスは、地面の上で指を動かしていた。
呪文を、空で畳む練習。
声を出さずに、構造だけを組み上げる。
クレアの教え——気配を漏らさずに詠唱する技術。
アナは、焚き火の脇で、頬杖をついていた。
「暇ね」
「そんなに走りてぇのか、嬢ちゃん」
「大変!晩ご飯の用意を忘れてたわ!」
焦って立ち上がり去っていくアナを
ガルドが、鼻で笑った。
「水場は逆だぞ」
月が、ゆっくりと、森の上に昇り始めていた。
***
森の奥は、青くて、白かった。
月光が、樹々の葉を通り抜けて、地面に斑の模様を落とす。
その斑の中に、ぼうっ——と、別の光が、ひとつ、またひとつ、浮かび上がった。
月光蜘蛛。
体の甲殻が、月を映して、淡く発光する。
「三匹——いや、四匹」
ラピスが、目を閉じたまま、指を立てた。
索敵の陣が、五人を中心に、円を広げている。
「その先に、もう一匹。距離、十二」
「了解」
ジークが、剣を抜いた。
鞘が、鳴らない。ジーク自身が、そういう抜き方を、最近覚えた。
戦いは、短かった。
ジークが前衛で一匹、ガルドが横合いから一匹、
ラピスの畳む詠唱が、声を出さずに二匹の足元を縫い止める。
拘束された蜘蛛に、アナの衝撃波が、針のように走る。
糸は、少し弾いた。でも、胴体に刺さった。
——ぶつり。
発光が、ふっ、と、消えた。
「——軽いわね」
アナが、指先をゆっくり下ろした。
***
二十分ほどで、狩りは、終わった。
とてつもなく数は多かったが、
とてつもなく数が多いだけだった。
ナーガが、糸を袋に詰めている。
ラピスが、依頼票と見比べて、本数を数える。
ジークは、剣に付いた粘液を、布で拭っていた。
ガルドが、鞘の背を、ごりっと肩に担いで言った。
「Bランククエストなのに、歯応えがねえな」
焚き火の脇で、アナが、頬杖の位置を変えた。
「数が多いから、このクエストがCじゃなくBなんじゃないですかね」
ラピスが、冷静に言った。
「ランク、間違えてるんじゃない?」
アナが、つまらなそうに言った。
ガルドが、口の端を曲げた。
「——嬢ちゃんがいれば、一網打尽か」
「やる気なかっただけよ」
ナーガが、ぷ、と吹き出した。
ジークが、布を畳み直した。
ラピスが、依頼票を、鞄の内側に仕舞う。
全員が、緩んだ。
剣が、鞘へ。
杖が、地面へ。
糸の袋が、背負袋の中へ。
治癒薬の蓋が、ことんと、閉められた。
焚き火の薪が、ぱちり、と、爆ぜた。
アナが、ふう、と、頬杖を外した。
——月光が、翳った。
***
最初に気づいたのは、ナーガだった。
「……あれ?」
影が、濃くなった。
森の斑模様が、ゆっくり、黒に塗り潰されていく。
ラピスが、顔を上げた。
索敵の陣を、咄嗟に広げ直す。
「——反応、ない」
声が、低くなっていた。
「索敵に、反応が、ない」
月の光が、欠けていく。
雲ではない。
何かが、月を、遮っていた。
五人が、同時に、見上げた。
月を背にして、黒い、長い脚が、八本。
音もなく、五人の頭上に、巨体が、覆いかぶさっていた。
ガルドが、拳を握った。
「——こりゃ」
いつものように青白く光る。
「ランク間違えてるぜ」
——その声が、終わる前に。
一本の脚が、しなった。
「ラピス——ッ!」
ジークの叫びが、遅かった。
畳みかけの詠唱の途中で、ラピスの体が、横に薙がれた。
木の幹が、ぐしゃりと音を立てる。
折れたのは、枝か、肋骨か、分からなかった。
それだけでは終わらなかった!
「ジーク!もう一発くるぞ!!」
ジークが、本能で飛び込んだ。
次の脚が、倒れたラピスを踏み潰しに来る軌道だった。
剣で受ける。
受けきれない。
ジークの脚に、白い糸が、ずるりと巻き付いた。
重い。鉄より重い。
体が、地面に縫い付けられる。
その上から、黒い牙が、ジークの右肩を、深く、噛んだ。
「——ッ」
声を、喉で潰した。
姫様の前で、叫ばない。それだけは、守った。
「ジーク!」
ナーガが、走り出した。
リーゼの教え——迷ってる時間はない。
一番戦える人から。
ジークの脇に膝をつく。
魔力を、流し込む。
でも、糸を通って、すぐ散る。
蜘蛛の糸が、治癒の魔力まで、吸っていた。
「……ッ、うそ」
アナの右手が、空に上がった。
衝撃波。針。
十五メートル。親玉の眉間——のはず。
針は、親玉に届く前に、空中で、ぴん、と、止まった。
糸。
上から、横から、下から、
無数の糸が、五人を包む檻を、編み始めていた。
ステルスが、解けた。
代わりに、糸の、牢が、閉じていく。
月が、親玉の背中から、半分だけ、顔を出した。
黒い、大きな、毛に覆われた巨体。
八つの赤い目が、五人を、ゆっくりと、舐めた。
ガルドは、動けなかった。
ジークとラピスの位置から、半歩も、離れられなかった。
ここで離れたら、次の脚で、二人は、死ぬ。
ガルドが、奥歯を、鳴らした。
「——嬢ちゃん!!!」
焚き火が、ぱちり、と、小さく爆ぜた。
仲間が周りにいる状況で、影を使う経験はまだない。
だが、アナは、すでに、前に出ていた。
私利私欲ではなかった。
左腕の袖の下で、黒い蛇紋が、にゅるりと、浮き上がっていた。
影が、地面から、ぞろり、と、立ち上がる。
一匹。二匹。三匹。
アナの足元で、黒い蛇が、のたうちながら、形を取っていく。
月光が、アナの赤い髪を、濡らした。
『あら。美味しそうじゃない』
内なる女の甘い声が、久しぶりに鳴り響いた
「食べたいの?」
『食べさせてくれるの?』
「あなたが頑張ってくれたらね」
月影の中で、牙と牙が、向き合った。
色んな意味でランクを間違えていましたね。
乱戦の舞台で、影を制御できるのか。
これまでの修行と言語理解。
この2つが組み合わさった時、何が起こるのか。
いつも応援ありがとうございます。
サイトの使い方に疎すぎて
初めて評価をつけていただいていることに気づきました。
重ねてありがとうございます。
次回更新は4月24日予定です。




