第55話:「錆に埋もれ、燻る炎」
たかが、三年。されど、三年。
借金取りが、帳簿を突きつけた直後だった。
ラピスが、一歩前に出た。
「……今、幾らですか」
「あ?」
借金取りが、眉をひそめる。
酒場の前の提灯の灯りが、ラピスの青い髪を照らした。
「この人の、利子分」
借金取りの目が、ラピスの髪に留まって、一瞬動いた。
ただ、何かを尋ねるような視線だった。
青は、高貴な色だ。ここでは珍しい色だった。
「……金貨二十枚だ」
ラピスが、鞄から財布を取り出した。
迷いなく、金貨を数えて、差し出す。
「二十枚。確かに」
「……ちっ」
借金取りが舌打ちして、金貨を掌で受けた。
「元金は?」
「元金は、この人が返します」
一拍。
「俺が払うと、終わりでしょう」
借金取りが、ラピスの顔をまじまじと見た。
「……うまいやり方するな、お坊ちゃん」
どこのご子息かは聞かなかった。
聞けば、面倒が増えると踏んだらしい。
帳簿を閉じて、肩をすくめて、去っていった。
提灯の灯りの下に、ドルンだけが残された。
「……お前、なんで——」
「お話、聞かせてください」
ラピスの声は、静かだった。
「利子だけです。元金は、あなたが返す」
ドルンは、しばらくラピスを見下ろしていた。
それから、目を逸らして、低く唸った。
「……酒場の奥でいい」
酒場の扉が、重たく開いた。
***
奥のテーブルは、薄暗かった。
ドルンが先に座り、
ジョッキの酒を両手で大事そうに持ちながら、啜った。
指がほんの少し震えている。
ラピスとガルドが向かいに腰掛け、ジーク、ナーガ、アナが後方の席についた。
店の喧騒が、遠く聞こえる。
ドルンがジョッキを一口、啜った。
手の甲の染みが、指の節の太さが、灯りの下でくっきり見えた。
宮廷の鍛冶場で見た手と、同じ手のはずだった。
でも、少し違った。
「……ドルンさんで、合ってますよね」
ラピスの声は、静かだった。
念のための確認だった。
幼い頃に、たった一度、宝石国の宮廷で会ったきりの男だ。
ドルンが、髭の奥で、少し笑った。
「俺がドルンだ。——間違いねえよ」
そして顔を上げた。
目を細めて、ラピスを見る。
「……お前、でかくなったな」
「もう、十六です」
「そうか」
ドルンの目が、ラピスの顔を、もう一度辿った。
顎の線、肩の張り、髪の青、目の色——そして、背筋。
幼い頃の、細い肩を覚えていた。
父王の後ろに隠れて、
鍛冶場の火を、遠くから見ていた小さな姿を。
今、目の前にいるラピスは、背筋が伸びていた。
ジョッキを持つ手に、迷いがなかった。
目は、真っ直ぐ自分を見ていた。
「……青、か」
ドルンの呟きが、低く落ちた。
「まだその色してんだな」
「ええ」
「宝石国は、どうした」
ラピスが、ジョッキのふちを指でなぞった。
「二年前、出ました。帝国と、一度揉めたので」
「……帝国、ね」
ドルンの眉が、わずかに動いた。
「それで、こんなガキどもと、大陸を歩いてんのか」
「色んな国を回って、少しずつ、強くなってます」
一拍。
「宝石国には、いつか、王として帰るつもりです」
ドルンが、ジョッキを下ろした。
ことり、と、木のテーブルに鈍い音が落ちた。
「……王、か」
酒場の雑音の中で、その一言だけが、少しだけ大きく聞こえた。
ドルンは、もう一度、ラピスの顔を見た。
——そして、目を逸らした。
自分の手元のジョッキに。
自分の、酒の匂いのする、よれよれの服に。
何ヶ月も切っていない、伸び放題の髭に。
幼い頃のラピスが見上げていた宮廷鍛冶師は——
ここには、いなかった。
「……で、何の話だ」
ドルンの声は、さっきより、少しだけ、面倒くさそうじゃなくなっていた。
代わりに、少しだけ、重くなっていた。
ラピスは、鞄の中から一枚の羊皮紙を取り出した。
「まず、これを——」
テーブルの上に、広げた。
ドルンが、ちらりと目を落とした。
そして、止まった。
羊皮紙には、細かく、正確な線で描かれた図面があった。
魔導回路、素材配置、術式の展開図、鍛造工程——
鍛冶師が一目で「これが何か」を理解する種類の図面。
ドルンの指が、ジョッキを握ったまま、固まった。
「……誰が書いた、これを」
声の温度が、変わっていた。
ラピスが答えた。
「アルカナスの研究員です。銀髪の、若い——ゼノスっていう人」
ドルンの眉が、寄った。
「——あの、小僧か」
「知ってるんですか?」
「噂だけはな」
ドルンはジョッキを置いた。
酒が、少し揺れた。
指が、羊皮紙の縁に伸びた。
紙を破らないように、慎重に、端を持ち上げる。
回路の続きを、下の段まで辿る。
彼らの周りだけ
酒場の雑音が、遠くなる。
髭の奥の目が、細くなっていく。
「……ここの、魔力の通し方」
呟き。独り言だった。
「こんな——組み方を、する奴が、いるのか」
三年、槌を置いた男の指が、無意識に、紙の上を動いている。
触れるでもなく、撫でるでもなく、線を追っている。
職人の指だった。
***
しばらく、誰も話さなかった。
ドルンが、図面を隅から隅まで見た。
何度も、行ったり来たりした。
やがて、ふっ、と息を吐いて、顔を上げた。
「……誰がこれを打つんだ?」
ラピスが、静かに言った。
「あなたに、お願いしたくて」
ドルンは、一瞬、口を開きかけた。
そして——閉じた。
視線が、落ちた。
髭の奥で、何かが潰れるような音がした。
「……無理だ」
ラピス「……どうして」
「見りゃ分かる。ここの鍛造、三日で済む仕事じゃねえ。しかもこの素材の組み合わせ——」
ドルンが羊皮紙の端を指で叩いた。
「——大陸でも、揃えてる奴はいねえ」
「探せば、揃いますか?」
ドルンが、鼻で笑った。
乾いた笑いだった。
「揃えばな。……まあ、いい」
羊皮紙を引き寄せると、もう一枚の紙を取り出し、ペンを握った。
手が震えていた。
でも、筆は走った。
書き殴られていく、素材の名前。
——幻鉄。
ラピスの眉が、ぴくりと動いた。
——月光蜘蛛の糸。
——溶岩鉱脈の芯。
——赤金鉱。
——凍霧の結晶。
ドルンが、書き終えた紙をテーブルに叩きつけた。
「これを、揃えてこい。話はそれからだ」
ラピスが、リストに目を落とした。
「……幻鉄」
呟きが、漏れた。
ドルンが、顔を上げた。
「あ? 知ってんのか、坊主」
「……聞いたことがあります。
山岳の深層にしかない、
Aランク冒険者でも届かない鉱脈、って」
「それが分かるなら、わざわざ俺が説明するまでもねえな」
ドルンがジョッキを啜った。
「——できもしねえくせに」
声は、テーブルの向こうの五人に向けられているようで、
視線は、手元のリストに落ちていた。
***
ガルドが、椅子の背にもたれた。
腕を組んだまま、低く言った。
「——お前、誰に言ってんだ?」
ドルンの肩が、ぴくりと動いた。
顔を上げようとして、上げきれなかった。
ラピスたちに向けた言葉より
できもしないのに大口を叩いた
自分自身にも、向けた言葉だった。
ガルドが、それを見て、少し笑った。唇の端だけ。
「揃えてきたら、打て」
「……は?」
「約束だ。言質、取ったからな」
ドルンが、ジョッキを握り直した。指の震えが、さっきより、少しだけ強くなっていた。
「……坊主」
「はい」
「お前、誰と組んでんだ」
ラピスの後ろに控えるガルドを、ドルンがちらりと見た。
ガルドは、何も言わなかった。ただ、鼻で笑って、視線を逸らした。
「……面倒な連れだな、お前」
ドルンが、溜息を吐いた。
でも、テーブルの上のリストには、まだ震える指が触れていた。
***
話が一段落して、五人は立ち上がろうとしていた。
ジークが先に扉に向かい、ナーガが続き、ガルドが最後に椅子を引いた。
その時——ラピスが、止まった。
鞄の底に手を入れていた。
何かが、指に触れた。
——推薦枠。
今日の昼、ギルドで受け取った一枚の書類。
参加辞退された鍛冶師の枠を、誰か一人に渡せる券。
ラピスは、それを取り出した。
少し折れ曲がった、小さな書類。
テーブルに、置いた。
「……これ、使えませんか?」
ドルンが、顔を上げた。
書類に目を落とす。
一秒。二秒。
指が、止まった。
「……は?」
ラピスが、静かに続けた。
「鍛冶祭り、参加者推薦枠です。」
「……なんで、これを、坊主が持ってる」
「今日、クエストの報酬で貰いました。偶然、ですけど」
ガルドが背を向けながら補足した。
「俺らが持ってても仕方がねえ。他の鍛治師なら高値で買ってくれるだろう。
でもこの坊主はそれをしねえ。その意図を汲んでやってもいいじゃねえか。」
その声を受け
ドルンを見ていたラピスの青い目が、一際強くなった。
「コンテストに、出てください」
ドルンの口が、開いて、閉じた。
開いて、閉じた。
髭の奥で、呼吸が詰まっているのが分かった。
「……お前」
声が、低くかすれた。
「俺は——」
続きは、出なかった。
酒場の喧騒だけが、遠くで鳴っていた。
三年、槌を置いた男
三年、前を向き続けた少年
錆びた手とくすんだ原石
あの日の思い出が、一枚の図面で交差しました。
「できもしねえくせに」
この言葉の行方はどこに行くんでしょうか。
次回更新は4月22日を予定しています。




