第52話:「半日の師匠」
師匠と呼べる存在。あなたにはいますか?
朝のギルド前。
冒険者の朝は早い。
紅葉の月の風が、石畳の街路に落ち葉を転がしている。
レインが鞘の紐を締め直している。
マルクが大きな背負い袋を担いでいる。
リーゼが治癒用の革の鞄を確認し、クレアが杖の先で地面を一度叩いた。
朝の静けさとはにつかわしくないオーラを放ち、
曙光の四人も準備万端のようだった。
五人が近づくと、レインが顔を上げた。
「ガルドさん、こいつで」
掲示板から剥がした依頼書を差し出す。
「森の深部で、狼型のモンスターが群れを成している。
Dランクだけど、とにかく頭数が多い。俺たち四人なら半日で片付く。
同行者扱いで連れていけば、あんたらも受けられる」
ガルドが依頼書を覗いた。
「多頭か」
「少なく見積もっても二十。そん奥に、群れのボスらしい大型個体が一頭」
ガルドが頷いた。
「いい塩梅だ」
それから、後ろを振り返った。
「お前ら、聞いたな。走るぞ」
ナーガが眉を下げた。
「……走るの?」
「走る。それで着いたら戦う。それで終わったらまた走る」
ラピスが地図を取り出そうとして、レインに止められた。
「地図は俺が持ってる。任せて」
アナは何も言わずに、腰の短剣の位置を確かめた。
***
森の入り口までの道は、二里ほどあった。
曙光の四人が先頭と最後尾に散らばった。
先頭にレイン。
その少し後ろにラピス。
中列にクレア、マルク、ジーク、ガルド、ナーガ、リーゼ。
最後尾にアナ。
「最後尾が嬢ちゃんで大丈夫ですか?」
「こいつには開けた場所が必要だ。何かあったら俺が面倒を見る」
自然とそうなった。
歩きながら、クレアがラピスの手元を見下ろした。
「ねえ、王子様」
ラピスが顔を上げる。
「……ラピスと呼んでください」
「昨日の続きなんだけどね」
ラピスが顔を上げる。
「……はい」
「詠唱を練った状態で待機——あれ、気配が漏れてるって話、したでしょ」
「はい」
「そのままだと、戦闘前に相手に読まれる。
Aランク以上の敵なら、あんたがどの魔法を撃つか、詠唱ごと覗かれてる」
ラピスの背筋が伸びた。
「——隠せますか」
「隠せるようになりなさい、って言ってるのよ。
やり方は、見せる。盗んで」
クレアの杖の先が、ほんの一瞬、何かを構えて、すぐに霧散した。
見えなかった。
気配もなかった。
ラピスが、息を飲んだ。
「……今の、詠唱を畳んだんですか」
「そう。練りっぱなしで待機えおするな。必要な瞬間だけ組む。それまでは完全に消す」
ラピスの目が、磨かれる前の原石みたいに光った。
中列の反対側で、リーゼがナーガと並んで歩いていた。
「あなた、占いは本物ね」
「分かるの?」
「気配を読む筋が、同じ。
私の治癒も、気配を読むところから始まるから」
ナーガが嬉しそうに頷いた。
「占いで危険を先読みできるなら、治癒の順番も先に組み立てられるのよ」
「順番……」
「戦場に三人、負傷者が出た時。
あなたは誰から治す?」
ナーガが少し考えた。
「一番……怪我がひどい人?」
リーゼが首を横に振った。
「違う。一番戦える人」
ナーガが息を飲んだ。
「最初に治すのは、一番重い人じゃない。
一番戦える人。戦えない重傷者を先に治している間に、他の戦える人も死ぬ」
ナーガは、何も返せなかった。
その後ろで、レインがジークの剣を一瞥した。
「——重いかい?その剣」
ジークの背筋が伸びる。
「……いえ。扱える重さです」
「そういう意味じゃない」
レインが前を向いたまま、続けた。
「重いのは、技じゃない。鞘の中の迷いだ」
ジークが言葉を失う。
「守るのか、攻めるのか。
その剣は、まだ決めきれていない。だから——重い」
一拍。
「俺には、そう見える。守りが攻めになる時もあれば、攻めが守りになる時もある。
君は頭で考えすぎる癖がありそうだ。」
ジークは答えられなかった。
胸の奥が、ぎゅっと詰まった。
自分の剣が、子どものおもちゃみたいに縮こまった気がした。
Sランクの剣士がたった一言で、間合いの外から鞘の底まで測ってきた。
さらに前を歩くガルドの横で、マルクが楽しそうに歩いていた。
「ガル兄、覚えてます?
あの時氷の洞窟でガル兄が俺の肩担いで運んでくれた時、——」
「重すぎたんだよ、お前は。お前が軽けりゃあそこまで苦労しなかったはずだ」
「あれから僕も鍛えたんで、今度は逆に背負って逃げてあげますよ」
「お前に背負われるくらいなら死んだ方がマシだ」
ガルドがマルクの背を拳で軽く叩いた。
「縁起でもないことを言わないでくださいよ!」
「とにかく、お前、体でかくなりすぎだ。
筋肉は動ける重さまでにしとけ。タンクは壁じゃねえ、通すもんだ」
「通す?」
「お前の後ろに仲間がいる。
お前が壁になったら、仲間は動けねえ。
お前は当たって、受けて、次のやつに流せ」
マルクが目を見開いた。ガルドが鼻で笑って、前を向いた。
そして——最後尾を歩くアナは、それら全部を見ていた。
口は開かなかった。
足を動かしながら、一人、観察していた。
(……詠唱って、あんなに細かいものなのね)
クレアとラピスのやり取りが、風に乗って流れてくる。
(……ナーガ、嬉しそう)
リーゼに頷きながら、真剣に聞いているナーガの後ろ姿。
(……ジークの剣、重そうに見えるなんて、思ったこともなかったわ)
レインに言葉を突き通されて、何も返せないジーク。
(……あの男、あんな顔で笑うのね)
マルクの肩を叩いて、目の奥だけ柔らかくなっているガルド。
アナは、歩きながら、小さく息を吐いた。
四人には、師匠ができたらしい。
半日だけの、にわか師匠。それでも、師匠。
(——私にも、いつか師匠と呼べる存在ができるのかしら)
影の蛇も、暴食も、教えてくれる人間はいない。
内なる女の声は、根源であって、師匠じゃない。
衝撃波は、自分で絞るしかない。
(まあ、いいわ)
口には出さなかった。
足の裏が、じんと痺れている。
痛みは七日間の走り込みのせいだけじゃないのかもしれない。
***
森の深部。
狼型の群れが、斜面を駆け下りてきた。
二十頭を超える。
黒い毛並みに、赤い目。普通の狼より一回り大きい。
レインが前に出た。抜いた剣が、風を切る前に既に間合いを組み立てていた。
「クレア、右翼まとめて焼け。マルク、左の群れ頭。リーゼ、後方固定。——行け」
一声で陣形が組まれる。
十年分の呼吸だった。
アナたちも反射的に散った。
ジークが左に踏み込み、
ラピスが中央で詠唱を開始し、
ナーガが後方でリーゼの隣についた。
ガルドが右の奥へ。
アナは——最後尾で、足を止めた。
指先を、ゆっくり、空中に。
衝撃波を、組み立てる。
十メートルで霧散する、未完成のそれを。
ジークが一頭を薙ぎ払った。
これまでの剣の気配とはまた違ったものだった。
すぐ後ろのラピスを庇うために踏み込んだ一撃。
ただ守るためではない、でも攻めるための一撃でもなかった。
レイン「守ってから、斬るな。斬りながら、守れ」
ジークが息を飲んだ。
その一言が、剣より重かった。
次の瞬間、ラピスの詠唱が飛ぶ。
光の鎖が三頭の狼を絡めた。クレアの声が横から飛んだ。
「鎖は、足。胴を縛るな、再起動が遅れる」
ラピスが軌道を修正する。
鎖が足首だけを刈り取った。
マルクが壁になる——と思いきや、横にずれた。
群れ頭の突進を受け流し、力をレインの剣に渡した。レインが斬り抜ける。
「そうだ、通せ」
受け流した瞬間、マルクの腕に浅く血が滲んだ。
群れ頭の牙が、掠ったらしい。
同時に——後方で、詠唱中のラピスが、側面から飛びかかった一頭に肩を噛まれた。
ジークが間に割り込んで振り払う。
ラピスの肩から、血が流れる。
負傷者、二人。
ナーガが反射的に、ラピスに向かって駆け出そうとした。
リーゼの声が、先に飛んだ。
「ナーガ。マルクから」
「え——ラピスの方がひどい」
「先に、戦えるほうから」
ナーガが一瞬、足を止めた。
さっき歩きながら聞いたばかりの言葉が、耳の奥で蘇る。
——最初に治すのは、一番重い人じゃない。一番戦える人。
歯を食いしばって、ナーガは走る方向を変えた。
マルクの腕に手を当てる。
ラピスはジークが庇いながら後退している。
一番重いけれど、今すぐ死ぬ怪我じゃない。
マルクは今、前線で群れ頭を抑えている。
ここが崩れたら、全員が危ない。
理屈で分かる。心は叫ぶ。
でも体は、リーゼの言葉に従った。
マルクの腕の傷が、光に包まれていく。
「先に戦えるほうから」
ナーガが歯を食いしばって、マルクの腕に手を当てた。
そして——森の奥。
群れの後ろ、岩陰から這い出てきた大型個体が、姿を現した。
普通の狼の倍。
赤い目が、血走っている。
その視線が、ラピスで止まった。
詠唱中で、肩を噛まれて、ジークが庇いながら後退している、一番弱った場所。
大型個体が、地を蹴った。
「ラピス!」
ジークの声が裂けた。
剣を間に合わせようとする。
でも角度が違う。届かない。
アナが、駆けた。
ラピスとジークの前に割り込んで、大型個体の正面に立った。
「——アナ!?」
ラピスの悲鳴。
レインが振り返る。マルクが叫ぶ。
クレアが詠唱を組み替えようとする。
リーゼが治癒の手を止めた。
全員が、焦った。
心臓が跳ねていた。
膝が、少しだけ震えた。
十五メートル先でも霧散する衝撃波を、突進してくる獣に当てられる距離は——
(引き付ける)
アナは、動かなかった。
二十メートル。
(まだ)
十五メートル。
(まだ)
「アナ!」
ナーガの声。
十二メートル。
(——今)
視界の端で、ガルドが見えた。
腕を組んだまま、動かない。
一歩も出ない。
焦った顔も、していない。
十メートルを切った。
視界が巨体で覆われたかと思うくらいの迫力だった。
(——何かあったら、この男が、なんとかする)
その信頼感が、アナを勇敢にした。
針を絞る。
細く。
細く。
もっと細く。
(私だって、できる)
放った。
一条の衝撃波が、森の空気を切り裂いた。
圧縮された針のような軌跡が、真っ直ぐに走り——
——大型個体の、眉間を、貫いた。
赤い目が、ぐるりと反転する。
「——やった」
ラピスが短い歓喜の声を漏らした。
ジークが息を吐きかけた。
——だが。
獣は、止まらなかった。
穿たれた眉間から黒い血を噴き出しながら、
四本の脚は、加速を緩めずに地を噛み続けている。
「——なっ」
アナの喉が、干上がった。
赤い目はもう機能していない。
それなのに、質量だけが真っ直ぐに向かってくる。
死に体で、重力そのものが牙を剥いて転がり込んでくる。
七メートル。
動けない。
針に全部の魔力を絞り込んだ。
影の蛇を呼ぶ残量がない。
影を這わせて自分の体を引き剥がすだけの魔力が——ない。
五メートル。
鼻先に、獣の熱気が届いた。
血の匂い。
毛の焦げる匂い。
自分の心臓の音が、耳の中で割れた。
(——嘘でしょう)
帝国に仕返しする前に。
こんな森で。
仲間を奪われた獣の、断末魔に。
——足をすくわれる?
「アナ!!!」
ジークが地を蹴った。
光の鎖が後方からしなる。
剣が横からぶん投げられる。
魔法が、矢が、怒号が——
全部、届くには一瞬だけ足りなかった。
三メートル。
獣の巨体が、視界のすべてを塗りつぶした。
二メートル。
——ガルドと、目が合った。
腕を組んだまま、動かない、あの男と。
その目の奥が、小さく、笑った気がした。
(——この男、最後まで、動かないつもりなの)
一メートル。
目を閉じた。
風が、頬を打った。
熱風。
毛皮の擦れる音。
唸りでもない、死体の最後の吐息みたいな、湿った音。
体に衝撃は、来なかった。
——通り過ぎた。
眉間を貫かれた時点で、獣の平衡感覚は既に死んでいた。
視界も死んでいた。
真っ直ぐ走っているつもりで、
ほんの指一本分、軌道が逸れていた。
アナのすぐ横を、巨体がかすめた。
毛が頬をこすった。
そのまま数歩よろけて、木の幹に頭から突っ込み——
地響き。
獣が、倒れた。
戦場が、止まった。
誰かの杖が、地面に落ちた。
誰かが、息を忘れたままの顔で立ち尽くしている。
ラピスが座り込んでいる。
ナーガの両手が震えている。
ジークが剣を地面に突き立てて、膝をつかないように必死に立っている。
誰もが予想し得なかった結末。
——ガルドだけが、鼻で笑った。
「当てやがったな」
***
討伐終了。
群れは全滅。
大型個体も含めて。
曙光は、ほとんど無傷で戦闘を終えていた。
アナたちも——大きな怪我はない。
ジークが腕に浅い切り傷。
ナーガが後方でへたり込んでいる。
ラピスの杖が煤けている。
森の帰り道。
レインが、ガルドの横に並んだ。
「ガルドさん」
「あ?」
「さっきの衝撃波」
一拍。
「魔法じゃないですよね」
ガルドは答えなかった。
「詠唱の気配がない。なのに、威力だけがある。
距離も、魔力の組み立ても、普通の魔導士の流れじゃない」
レインが正面を向いたまま、静かに言った。
「——俺には、読めませんでした」
ガルドが足を止めた。
「よく見てんな、お前」
「十年、剣振ってきたんで」
一拍。
ガルドが短く笑った。
「本気で見ろって言ったろ」
「……はい」
レインはそれ以上、聞かなかった。
ガルドが答える気がないのは、分かった。
でも——二度と忘れないだろうと、レインは思った。
あの衝撃波の軌跡を。
***
ギルド帰還。夕暮れ。
受付で報酬を受け取る。
曙光がカウンターで次の依頼を確認している。
レインが掲示板を眺めていて、ふと顔を曇らせた。
「また流れたのか」
クレアが横から覗いた。
「……幻鉄の依頼?」
「これで三回目」
リーゼが息を吐いた。
「Aランクでも届かない層だしね。あの山の鉱脈は」
マルクが首の後ろをかいた。
「幻鉄がありゃ、剣を打ち直したいやつは山ほどいるんだけどなぁ」
——幻鉄。
その言葉に、ラピスが反応した。
「幻鉄?」
クレアが振り返る。
「知ってる?」
「宝石国の文献で、読んだことがあります。
鍛冶に使う——特別な鍛冶に使う鉱石、だと」
「へえ。よく知ってるね」
「昔、読んだだけです」
その横で、ガルドが鼻から短く息を抜いた。
何かを考えているような、そうでもないような顔で、腕を組み直した。
ラピスはそれ以上、口に出さなかった。
頭の片隅に——幼い頃、宮廷の鍛冶場で一度だけ会った、
槌を握る大きな手の輪郭が、ぼんやりと浮かんだ。
「お前も守りてぇモンができた時は、この 様が剣を打ってやろう」
大笑いしながらそう話した鍛治の顔も、名前も思い出せなかった。
ただ、記憶にそのやり取りだけは鮮明に残っていた。
***
別れ。ギルドの前。
陽が沈みかけている。
曙光の四人は、次の依頼に向かう。
レインが、ガルドに右手を差し出した。
ガルドが左手で受けた。
右手はまだ、ヴォルフの戦いの名残で、強く握れない。
「ガルドさん」
「ああ」
「また、どこかで」
一拍。
「……お前ら、強くなったな」
レインが、一瞬、目を潤ませた。瞬きで消した。
「ガルドさんが、鍛えてくれたおかげです
「おだてんな」
マルクが後ろから、ガルドに飛びついた。
「ガル兄ー!」
「離れろ」
「十年ぶりに抱きついた!」
「十年分、重くなってんだよお前は」
リーゼがその様子を見て、口元に手を当てて静かに笑った。
クレアが、ラピスに向かって杖の先を軽く振った。
「あんた、その詠唱、次に会う時は綺麗に磨いてきてね」
ラピスが、姿勢を正した。
「はい」
レインがジークを一瞥して、短く頷いた。
ジークも深く頭を下げた。
言葉はなかった。
剣士同士の、挨拶はそれで十分だった。
強くなるためのヒントはもらった。
それ以上は望みすぎだ。
リーゼがナーガに手を振った。
ナーガが手を振り返した。
四人が背を向ける。
曙光が、次の空へ歩き出す。
レインが、最後に振り向いた。
アナを見た。
目礼。
一つだけ。
アナは、スプーンを振るみたいに、ひらりと右手を上げた。
(——幻鉄、ね)
遠くで、曙光の影が、夕陽の中に溶けていった。
***
夜、宿の窓辺。
アナが夜空を見ている。
走って、走って、疲れた体で放った衝撃波。
多分、死ぬまで忘れることはないだろう。
(あの巨体を貫けた)
それだけ。
火事場の馬鹿力だったのか。
仲間を助けるための覚悟がそうさせたのか。
それとも、四六時中走らされたことで可能にしたのか。
確認する術はない。
「——師匠、ね」
ぼそっと、窓の外に向かって呟いた。
アナは窓から離れた。明日も走るらしい。
Sランクの半日指導は濃かったですね。
九死に一生を得たアナ。
それ以上に、アナが覚悟を決めなければジークとラピスはどうなっていたのでしょう?
それすらもガルドの計算通りだったのでしょうか?
アナが知ったらブチギレそうですね
幻鉄という鉱石の名前が、ラピスの記憶をほんのり揺らしたようです。
アナが獣を仕留めても、次回も走る日々が続きそうです。
次回更新は4月19日を予定しています。




