第45話:「飲み込めない拳」
拳で決着はつけられる。
でも——拳では、飲み込めないものがある。
朝。
地鳴りが、戻ってきた。
昨日と同じ。等間隔。同じ重さ。同じリズム。
グラディウスの第二波。
ガルドは外壁の南門に立っていた。
門は昨日の戦闘で半壊している。
鉄の扉が一枚、蝶番から外れて斜めに倒れかかっている。
その隙間から——南の平野が見える。
砂埃の中に、赤い旗。
先頭に——あの男がいる。
ガルドの拳が握られた。
右足が、門の外に踏み出す。
ジークが気づいた。
南門に向かって走る。
「ガルドさん——」
言いかけて、止まった。
ガルドの目を見たから。
あの目は止められない。
鞘の中の剣が勝手に抜ける瞬間と同じだ。止めたら折れる。
ジークは言葉を飲んだ。
踵を返す。
南門の内側——石畳の広場に戻った。
壁を越えてくる傭兵は、ここで俺が止める。
剣を抜く。
それが今、ジークにできる全てだった。
屋根の上で、ラピスが索敵陣を広げた。
青い光が扇状に伸びる。ガルドを中心に、半径百メートル。
研究棟の屋根から見下ろせば、南門の外も、壁の内側も、全部見える。
「ガルドの周りに増援が来たら教えるよ」
小さな声。でも通るように。
曇りのない水晶が、戦場を隅々まで映している。
ナーガが南門の近くまで走ってきた。
壁の内側。昨日の負傷者たちが横たわる救護所の前。
ガルドの背中に向かって叫ぶ。
「怪我したら治すから! 思いっきりやってきて!」
声は明るい。
砂漠育ちの太陽みたいに、場違いなほど。
でもその明るさが——今は、要る。
アナは西の防衛線にいた。
昨日の続き。壁の外側。
影の蛇が石畳と壁面を這い回り、西から登ってくる傭兵を絡め取っていく。
「邪魔しないで。食事の続きよ」
誰にともなく呟いた。
ガルドの方は見ない。見る必要がない。
あの男が南に集中できるように、西は私が潰す。
それだけ。
全員が——動いていた。
誰も「行け」とは言わない。
「頑張れ」とも。
「気をつけて」とも。
それぞれの持ち場に散って、行動で道を開けている。
ガルドは気づいた。
(——ガキのくせして)
口には出さない。
でも拳が——ほんの少しだけ、軽くなった。
南門をくぐる。一人で。
***
ヴォルフは待っていた。
軍勢の前に。旗も持たず。剣も抜かず。
両手をだらりと下げて——笑っている。
あの笑い方だ。
目が笑えていない。笑う以外に顔の作り方を知らない男。
ガルドが門の外に立った。
二人の間に、五十メートル。
砂埃が舞う。
グラディウスの傭兵たちが歩みを止めた。
将と、かつての将。
その空気を——兵士たちは知っている。割って入れない。
ガルドが口を開いた。
「……ヴォルフ」
低い。一言。
ただ、全ての感情が合わさったその声は
どこまでも響き渡った。
南門の内側で——ジークが、その名前を聞いた。
屋根の上で——ラピスが、息を止めた。
救護所の前で——ナーガが、目を見開いた。
ヴォルフ。
それが——あの男の名前。
ヴォルフが歯を見せた。
「よう、ガルド。やっとケンカ買う気になったか」
走った。
同時に。
間合いが消える。
一合目。
ヴォルフの蹴りが先だった。
速い。鞭のようにしなる脚がガルドの脇腹を叩く。
ガルドの体が半歩ずれる。
「遅えよ。飯食いすぎだろ」
ヴォルフが嗤う。
二合目。
ガルドの右拳。ヴォルフが首を傾けて躱す。
紙一重。風だけが頬を掠めた。
「当たんねえな。腕も鈍ったか? あの港町で何してたんだ——干物でも売ってたか」
三合目。
ガルドの左拳がヴォルフの肩口を捉えた。
ヴォルフの体が揺れる。
同時——ヴォルフの膝がガルドの肋骨を抉った。
互いの骨が軋む。
「なあガルド。まだ恨んでんのか?」
答えない。
ガルドの拳が返事をした。
四合目。
右のストレート。ヴォルフが腕でガードする。衝撃で足が滑る。
ヴォルフの肘が跳ね返る。ガルドの顎を掠めた。
血の味。唇が切れている。
互角。
同じグラディウスで育った体。同じ間合い。同じ足運び。
ガルドが岩なら、ヴォルフは刃物。
余分な肉がない体が、最短距離で刃を振る。
でも——ヴォルフの口だけが止まらない。
五合目。
ヴォルフの回し蹴り。ガルドが前腕で受ける。
衝撃で石畳にひびが入った。
ガルドの右拳が——ヴォルフの顔の前で止まった。
殺せる。一発で。
分かっている。ヴォルフも分かっている。
拳が——動かない。
ヴォルフが血を吐いた。唇の端を拭う。
「……手加減してんじゃねえよ」
ガルドは拳を下ろさない。
「手加減じゃねえ」
短い。低い。
この戦いの中でガルドが返した、たった一つの言葉。
ヴォルフの目が据わった。
距離を取る。立て直す。
「俺は間違ってねえ。弱い奴を連れてたら全員死ぬ。お前だって分かってたはずだ」
答えない。
「分かってたから——出て行ったんだろ」
答えない。
ヴォルフの声が大きくなる。
大きい声は、何かを隠す時の癖だ。
「お前の弟は——」
六合目。
ガルドの拳が動いた。
左拳でガードごと腕を弾く。
空いた胴。
右拳が——ヴォルフの腹に沈んだ。
今度は、止めなかった。
鈍い。重い音。
ヴォルフの膝が落ちる。
地面に手をつく。血を吐く。
立てない。
ガルドは何も言わなかった。
最後まで
——言葉では返さなかった。
ただ、拳で答えただけだった。
あの頃の自分と決別するように
何かのけじめをつけたかのように
南門に向かって歩き出す。
***
地面が冷たい。
ヴォルフは倒れたまま、ガルドの背中を見ていた。
大きい。
昔から——あの背中は、でかかった。
(すまなかった)
言えない。
喉に詰まっている。あの日からずっと。
俺は間違ってない。
弱い奴を連れてたら全員死ぬ。
あの坊主を置いていったのは、正しい判断だった。
正しかった。
正しかったはずだ。
——じゃあなんで、こんなに喉が詰まるんだ。
ガルドの背中が遠ざかっていく。
「おい」
声を絞った。
背中は止まらない。
「ガキは生きてるぞ」
歩幅が変わらない。
「あの日、」
「お前の口から聞きたくねえ」
遮られた。
振り返りもしない。
歩いていく。
南門の影に——消えていく。
でも——見えた。
右の拳が、震えている。
歩幅が——ほんの一歩だけ、乱れた。
それだけで分かった。
拳は届かなかったが、
言葉だけは届いた。
仰向けに転がった。大の字。
砂埃が——晴れていく。
雲の切れ間から、朝の光が差し込んだ。
顔が焼ける。
半壊した門の隙間から——見える。
あのボロボロのガキたちが。
走って。転びそうになりながら。
ガルドのもとに、集まっていく。
ヴォルフは腕を持ち上げた。
目の上に、乗せた。
「やっぱりお前は守る側なんだな」
日が眩しい。
あいつらが眩しい。
この世の全てが、眩しい。
「……俺には見えねえや」
腕の下で、口だけが笑っている。
笑い方は——まだ間違えたまま。
でも、これも正解なのかもしれない。
***
南門の内側。
石畳の広場を、ガルドが歩いてくる。
拳が震えている。でも崩れない。
立ったまま。歩いたまま。
広場の向こうから——影が走ってきた。
一人。二人。三人。
ボロボロだった。
ジーク。
広場で戦い続けていた。
刃こぼれした剣を握ったまま。腕に赤い線が走っている。
でも——走っている。
ラピス。
屋根から飛び降りてきた。
顔が青白い。索敵陣すら消えている。魔力が底をついている。
でも——走っている。
ナーガ。
救護所から駆け出してきた。
両手が赤い。治癒の光を出しすぎて、火傷のように腫れている。編み込みがほどけかけている。
でも——走っている。
アナ。
西の防衛線から戻ってきた。
走っていない。
歩いてくる。腕を組んだまま。
平気な顔をしている。
全員がガルドのためにボロボロになっていた。
あの男が一人で戦えるように——自分たちの持ち場を、死守した代償。
誰も「大丈夫?」とは聞かない。
「勝った?」とも。
ナーガだけが——笑った。
「おかえり」
ガルドは何も言えなかった。
お決まりの「ガキのくせして」すらも、出ない。
そのおかえりは、どこか懐かしい気持ちになれた。
***
南の空を見る。砂埃が晴れていく。
大将が倒れた今、もはやこの場に留まる意味を持たない。
グラディウスの旗が——遠ざかっていく。
弟は、生きている。
ガルドは立ち上がった。
南の空を見る。
砂埃が晴れていく。その向こうに——青がある。
口が開いた。
言葉じゃない。
怒りでも。
悲しみでも。
安堵でもない。
全部だ。
全部が混ざって、一つの声になった。
南の空に向かって——吠えた。
壁が震えた。
石畳が震えた。
広場にいたジークが顔を上げた。
屋根の上のラピスが目を見開いた。
救護所のナーガが、腫れた手を胸に当てた。
西の防衛線で、アナが——ほんの一瞬だけ、足を止めた。
声は長く、太く、南の空を貫いた。
拳は震えていた。
でも——もう、さっきとは違う震え方をしていた。
殺さなかった拳と、言えなかった言葉。
不器用な男たちの決着でした。
次回、4月12日更新予定です。




