第44話:「タガタメの」
守るものが違えば、刃の形も変わる。
でも——握る手の痛みだけは、同じだ。
最初の一人は、嗤った。
小娘だ。
赤い髪。白い肌。
防衛線の穴から出てきた、令嬢みたいな女。
——一太刀で終わる。
影が走った。
石畳を裂くように。音もなく。
黒い蛇が傭兵の足首に巻きつき、地面に縫いつけた。
「な——」
アナの掌が、胸に触れた。
一瞬。
男の顔から血の気が引く。
膝が折れる。
力が——抜けていく。
魔力を、喰われたのだ。
傭兵が持っていた身体強化の魔力。薄い。安い。
(——不味い。鉄屑を舐めたような味)
でも、数がある。
掌が二人目の肩に触れた。三人目の背中。四人目の腕。
喰うたびに、影の蛇が育つ。
地面を走る蛇が一匹ずつ太く、長く——そして数を増やしていく。
一匹が二匹に。
二匹が五匹に。
奪った魔力を蛇に変えている。
喰えば喰うほど、蛇が増える。
アナの周囲半径二十メートルが、黒い蛇の巣になった。
石畳。壁面。瓦礫の隙間。
あらゆる影に蛇が棲みつき、踏み込んだ足を絡め取る。
五人目が倒れた。六人目。七人目。
もう誰も嗤っていない。
「化け物——」
傭兵の一人が叫んだ。
アナは髪を耳にかけた。南風が邪魔をする。
「失礼ね。食事中よ」
蛇が一匹、石畳を滑るように走り、叫んだ傭兵の足を刈った。
十人分の魔力を喰った蛇の群れは、もう小さな軍勢だった。
西の防衛線から、傭兵が退いていく。
撤退ではない。回避だ。
蛇に塗りつぶされた一角を迂回して、別の壁面を攻める判断。
訓練された軍隊の、合理的な選択。
——面倒な奴ら。逃げ方まで上手い。
アナは壁に背を預けた。
息を整える。
左腕が、疼いた。
蛇紋が脈打つように光っている。
喰えば喰うほど、紋が濃くなる。
あの女の声が、耳の奥で囁いた。
——まだよ。もっと——
押し込む。
今は、黙れ。
壁の上から、銀の目がこちらを見ていた。
ゼノス。
あの目が——いつもと違う光を帯びている。
***
東の壁面が、軋んだ。
三人の傭兵が同時に壁を越えてくる。
研究棟の正面。窓が見える距離。
研究者たちが悲鳴を上げた。
「東が——研究棟に来ます!」
防衛魔法陣が火花を散らす。出力が足りない。
傭兵の剣が壁に食い込む。石の粉が飛んだ。
ゼノスが、手帳を閉じた。
——初めて見た。
研究棟の前に立った。
銀髪が南風に流れる。
指先が持ち上がる。
壁面に刻まれた防衛魔法陣に、触れた。
一筆。たった一行の術式を書き加える。
光が変わった。
青白い防壁が、深い紫に染まる。
密度が倍。いや——それ以上。
傭兵が弾き飛ばされた。
三人同時に壁から叩き落とされる。
研究者たちが目を見開いた。
「手書きで魔法陣を……」
「一行の追記で出力が倍に? あれは——」
ゼノスは振り返りもしない。
二つ目の壁面に手を当てる。三つ目。四つ目。
歩きながら、触れるだけで防衛陣を書き換えていく。
一筆ずつ。迷いなく。
研究棟を囲む防衛魔法陣が、紫の光の檻になった。
「研究は、作り直せないからね」
穏やかな声。
人を守った感慨は、ない。
紙の束と数式と三年分の実験データ。
それが傭兵の靴で踏まれることが、ただ許せないだけ。
誰もがタガタメに戦っていた。
ただ、ゼノスのそれは「研究」だった。
——いつ、いかなる時も。
ジークが壁の下から見上げた。
ゼノスの右手に、薄青い光が灯っている。
魔道ペン。
空中に、光の文字が走っている。
防衛陣を片手で維持しながら、もう片方の手が——何かを綴り続けている。
ジークが叫んだ。
「ゼノスさんが術式を二重展開してる——!」
ナーガが負傷者を抱えたまま見上げた。
空中に走る光の文字列。
「防衛と攻撃の同時展開……!」
——違う。
ラピスだけが、気づいた。
壁の上から曇りのない水晶の目で、光の文字を読み取る。
防衛術式では、ない。
攻撃術式でも、ない。
『被験体A 魔力捕食回数:推定12回
接触から吸収完了まで0.2〜0.4秒
変換先:影の蛇への再構成
蛇体積と吸収魔力量の相関──線形ではない。指数関数的に──』
アナの戦闘データだった。
みんなが命懸けで戦っている最中に。
片手で研究棟を守りながら、もう片方の手で——味方の能力を記録していた。
「……ゼノス」
ラピスが呼んだ。
「ん?」
「それ、防衛陣じゃないよね」
ゼノスが振り返った。
銀の目が——輝いていた。
怖い、とラピスは思った。
恐怖ではなく。
この人の目に浮かぶ光が、磨かれる前の原石を見つけた時の自分と同じだと気づいたから。
「すごいんだよ、あの子」
ゼノスが笑った。
温度のない微笑みではなく、目が光っている。
初めて見る表情。
「暴食が魔力を再構成する速度……前例がない。目の前で起きてるのに記録しない手はないからね」
戦場で。
人の命が懸かっている最中に。
この男の最優先は——ノートだった。
ラピスは何も言えなかった。
敵でも味方でもない。
善意でも悪意でもない。
観察者。
それがゼノスの本性。
***
第一波が引いたのは、日が落ちてからだった。
壁の上に火が灯る。
研究者たちが交代で見張りについている。
ジークが剣を壁に立てかけた。
刃こぼれが光を散らしている。
五合分の重さが、刃に刻まれていた。
ナーガが最後の負傷者の手当てを終えて、壁の上に座り込んだ。
編み込みの髪が煤で灰色に染まっている。
手がまだ微かに光っている。砂漠の熱を仕舞い込んだ指先の、残り火。
ラピスは索敵陣を維持したまま壁の縁に腰を下ろしていた。
消耗している。でも陣は落とさない。
アナは少し離れた場所に立っていた。
腕を組んで、南の空を見ている。
ガルドは——壁の端に、一人で座っていた。
拳が赤い。
自分の血じゃない。殴った相手の鎧の塗料がこびりついている。
ナーガが立ち上がった。
迷わない。
歩いていく。ガルドの隣に。
座った。
「ガルド」
返事がない。
「あの人、誰なの」
昨日から——ずっと聞きたかった言葉を、ようやく。
砂漠育ちの女は、踏み込むことを恐れない。
蜃気楼と本物の区別がつく足で、この男の沈黙を踏んだ。
これは蜃気楼じゃない。本物の痛みだ。
だから——聞く。
沈黙。
火が爆ぜた。
風が壁の外を撫でていく。
全員が——聞いていた。
聞いていないふりをしながら。
ジークの手が剣の柄に触れている。
ラピスの索敵陣の光が、一瞬だけ揺れた。
アナは腕を組んだまま、動かない。
ガルドが口を開いた。
「弟がいた」
短い。
「目が、見えねえ」
短い。
「俺が目になるって、言った」
火が爆ぜる。
「……守れなかった。それだけだ」
それだけ。
何年分の後悔が、四行で終わった。
ナーガがガルドの横顔を見た。
「あの男は」
「——弟を、足手纏いだって切り離した奴だ」
声が低い。
怒りではない。怒りならまだ楽だ。
怒りにすらできない何かが、喉の奥で固まっている。
ナーガが膝を抱えた。
砂漠の夜は冷える。
でも今、隣にいるこの男の方が——冷たい。
「弟さん、今どこに?」
「……分からねぇ」
それ以上は、語らなかった。
火の音だけが壁の上を埋めている。
ジークは剣の柄を握ったまま、指が白くなっていた。
(——だから、殺さなかったのか)
あの戦場。ガルドの拳は傭兵を一撃で沈めていた。
でも殺さなかった。
あの拳は——殺す剣とは違う。
守るために鍛えた拳。
守れなかったから、止まれない拳。
鞘の中で、自分の剣が重くなった気がした。
ラピスは何も言わなかった。
ただ索敵陣の光を、ほんの少しだけ——ガルドの方に寄せた。
温めるように。見えないように。
アナは振り返らない。
(——この男は、自分の痛みに名前をつけない)
「守れなかった」。「それだけだ」。
何年分かも分からない後悔を、四行で片付ける男。
(嫌いじゃないわ、そういうの)
口には出さない。
絶対に。
***
ガルドが立ち上がった。
拳の赤い塗料を、壁で拭う。
南の空を見る。
星が出ている。
昨夜と同じ空。
でも——昨夜の目とは、違う。
焦点がある。
「明日、ケリをつける」
静かだった。
怒りでも。
悲しみでも。
武者震いでもない。
覚悟。
拳を握る音がした。
ジークがその背中を見た。
鞘に入れたまま抜けない言葉は、まだある。
でも今は——抜かなくていい。
明日は、ガルドの番だ。
「それだけだ」で語り終えるガルドの不器用さ。
でも——これだけ語ったことが、この男にとっては全力だったんだと思います。
次回、ガルドとあの男の因縁に決着を。




