第43話:「鋼牙の兵団」
昔を知りすぎる奴は、歳をとって会うと面倒だ。
懐かしいの匂いが、殺しに来る。
夜明け前。
ガルドは外壁の上にいた。
寝ていない。
昨夜からずっとここにいる。
南の空を見ている。
星が消え始めている。
夜が明けるからじゃない。
土煙が、星を食っているのだ。
腕を組んでいる。
いつもと同じ姿勢。
でも——目が違う。
石段を上がってくる足音。
ジークだった。
水筒を二つ持っている。
一つを差し出した。
ガルドは受け取らない。
「……寝てないんですか」
「寝てねえよ」
ジークは水筒を引っ込めず、もう一度差し出した。
「水くらいは」
「いらねえ」
ジークは黙って隣に水筒を置いた。
しばらく並んで立つ。
ガルドの横顔を見る。
鞘に入れたまま抜けない言葉が、
思いの外早く、喉の奥で錆びていく。
何を言えばいい。
何も言えない。
だからせめて——隣にいる。
いつもそうだ。とジークは苦笑いを浮かべた。
地面が鳴ったのは、日の出と同時だった。
***
その地鳴りは、気持ち悪いほど規則正しかった。
モンスターの足音じゃない。
獣は地面を蹴る。
人間は地面を踏む。
そして軍隊は——地面を叩く。
等間隔。
同じ重さ。
同じリズム。
何百という足が一つの意思で動いている。
ガルドの腕が解かれた。
組んでいた腕を、静かに下ろす。
「来たか」
抑揚がない。
研究棟から全員が飛び出してきた。
ラピスが壁を駆け上がる。
ナーガが続く。
アナは最後に、ゆっくり壁に上がった。
昨日の発作の後だ。
体は動く。
でも左腕が、時折脈を打つように疼く。
あの女の笑い声が、まだ耳の奥に残っている。
——今はいい。後で考える。
南の森が、燃えていた。
正確には、壊れていた。
あの「生きた地雷原」
——凶暴化されたモンスターたちが巣食う森が、端から踏み潰されている。
倒れた木。
砕けた岩。
モンスターの死体。
大角鹿。
巨狼。
甲殻蟲。
増幅陣で凶暴化した獣たちが、片端から叩き伏せられている。
魔法ではない。
力だ。
純粋な物量と暴力。
人の手と足と刃で、獣を轢き潰している。
ラピスが壁の縁に手をかけ、身を乗り出した。
曇りのない水晶が光を読み取るように、遠くの旗を捉える。
「赤地に銀の牙。——あれが」
ガルドが遮った。
ラピスの言葉を待つまでもない、という顔で。
「グラディウスだ」
見なくても分かる。
そんな自分が恨めしい。
匂いで。
振動で。
足音のリズムで。
ガルドの体が覚えている。
ナーガが自分の腕を抱いた。
編み込みの髪が風に揺れる。
砂漠育ちの胆力でも——空気の色が変わるのは分かる。
蜃気楼なんかじゃない。
熱砂を踏んだ足裏が知っている。
これは、本物の殺気。
「ガルド」
ナーガが呼んだ。
返事がない。
「ガルド」
ようやく、振り返った。
「……あ?」
別人の顔だった。
いつもの軽口が消えている。
「おじさん言うな」もない。
「飯が美味い」もない。
昨日までここにいた男と、同じ顔をした別の何か。
アナは腕を組んだまま、
その横顔を見ていた。
(——故郷の軍隊が攻めてきた。それをどんな味で飲み込んでいるの、この男は)
聞かない。
聞いても答えない。
この男は自分の痛みを「浅い」で済ませる人間だ。
研究棟の窓辺で、ゼノスが手帳を開いたまま外を見下ろしていた。
「予定より六時間早いね」
この男にとって生死を分ける計算違いすら、
待ち合わせ時間を間違えたことと同じように言う。
***
森を踏み越えた軍勢が、平野に出た。
隊列が見える。赤い軍旗が南風に翻る。
先頭に——一人だけ、旗も持たず鎧も最小限の男が歩いていた。
背が高い。
ガルドと同じくらい。
でも体つきが違う。
ガルドが岩なら、あの男は刃物だ。
余分な肉がない。
殺すことだけに研がれた体。
両手をだらりと下げて、構えてすらいない。
その男が、壁を見上げた。
「——久しぶりだな、ガルド」
声が届いた。
距離があるのに。
声量じゃない。
通る声だ。
戦場で命令を飛ばすためだけに鍛えられた喉。
全員がガルドを見た。
ガルドの拳が白い。
昨夜から——いや、もしかしたらもっと前から、ずっと白かったのかもしれない。
「……ああ」
一言。それだけ。
ナーガがアナの袖をそっと引いた。
「……知り合い?」
アナは小さく首を振った。
知らない。
ガルドの過去は、この男が語らない限り誰も知らない。
壁の下で、先頭の男が顎を上げた。
目を細めて——馬鹿みたいに大きな声で。
「おい、ガルド。お前……太ったか?」
沈黙。
アルカナスの研究者たちが凍りつく。
壁の上の空気が止まる。
敵の将が、味方の男に向かって何を言っているのか。
ガルドの眉がぴくりと動いた。
「あ? 飯が美味いからだ」
先頭の男が声を上げて笑った。
「はっ——相変わらず食い意地の張った野郎だ」
笑っている。
でも目が笑っていない。
笑い方を間違えている
——いや、笑う以外に顔の作り方を知らないのだ。
何かを塗り潰そうとしている。
粗暴さで。
ふざけた声で。
ガルドは笑わなかった。
壁の縁を掴む指に、さらに力が入る。
「用件は」
先頭の男が笑いを止めた。
一拍。
それから、当たり前のことのように。
「見りゃ分かんだろ。この街を貰いに来た」
「……そうか」
短い。
低い。
私たちを救ってくれたあの街では見せてくれた軽口。
いつものガルドなら「あ?」と突き返す場面だ。
それすら出ない。
先頭の男が何か言いかけた。
口が動いた——けれどガルドはもう背を向けていた。
聞かない。
聞く気がない。
壁の上を大股で歩いて、こちら側に戻ってくる。
その背中を見て、全員が止まった。
触れてはいけない。
ジークだけが一歩前に出た。
「ガルドさん。あの人は——」
「後にしろ」
ガルドは壁の縁に拳を叩きつけた。
石が欠けた。
血は出ない。
出るほど弱い拳じゃない。
でも——震えている。
それが
怒りなのか、
悲しみなのか、
それとも武者震いなのか。
それを想像するには、まだ幼過ぎた。
誰も、何も、答えも聞けなかった。
***
防衛魔法陣が起動した。
壁面の青白い光が脈打つ速度を上げる。
アルカナスの研究者たちが配置につく。
手が震えている者がいる。
当たり前だ。
本を読む手で戦争はできない。
ゼノスが窓辺から降りてきて、壁の上に立った。
手帳を閉じている。珍しく。
「障壁は四枚。自動砲台が十二基。それから——君たち」
アナが髪を耳にかけた。
南風が邪魔をする。
「足りるの」
「足りないよ」
ゼノスがあっさり言う。
「だから取引したんでしょう」
アナは壁の下を見た。
森を抜けたグラディウスの先鋒が、一枚目の障壁に触れた。
魔法の壁が軋む。
二秒で砕けた。
力技。
拳と剣と体重で、魔法を物理で殴り壊す。
二枚目。五秒。
三枚目。十秒。
四枚目が——持っている。
かろうじて。
研究者たちの追加術式が重ねがけされている。でも時間の問題だ。
最初の傭兵が壁を越えた。
***
ジークが斬った。
金属が噛み合う。
刹那、火花。
重い。重すぎる。
一合目で全部分かった。
この男の剣は殺すために振られている。
迷いがない。
最短距離。
最小動作。
斬ることだけに削ぎ落とされた一閃。
ジークの剣は違う。
背中にアナがいる。
だから抜いた。
守るために抜いた剣。
目的が、違う。
——でも、目的の違いは速さにならない。
二合目。
押される。靴底が石畳を削る。
三合目。
横薙ぎ。弾く。手首が悲鳴を上げる。
傭兵の目に感情がない。
殺意すらない。
「作業」だ。
人を斬ることが日常である者の、淡白な刃。
(——速い。重い)
だがジークの体には、昨日の記憶が刻まれている。
ガルドの拳。
「殴って覚えさせる」。
あの一日の重さが、足の裏に根を張っている。
ガルドの拳は同じくらい重たかった。
ただ、あの拳は、守る側の拳だ。
だから、目標になる。
四合目。
ジークは踏み込んだ。初めて、前へ。
剣が走る。
鞘からまだ完全には出ていない何か
——父から受け継いだ、名前のない衝動が、刃を押し出す。
傭兵の剣を弾き返した。
一人。
息を吐く間に、二人目が壁を越えてくる。
三人目。四人目。
ラピスが屋根の上から叫んだ。
索敵陣の光が走っている。
「ジーク、左!」
拘束陣が左の傭兵の足を絡め取る。
その隙にジークが正面を裁く。
連携。
だが——数が違う。
壁の向こうから、
まだ来る。まだ来る。
ナーガが負傷した研究者のもとに駆け寄った。
膝をつき、両手を当てる。
砂漠の熱を心の芯に仕舞い込むように
——昨日覚えたばかりの光が、指先に灯る。
毒矢を受けた研究者の顔色が、少しだけ戻った。
研究者が震える声で言った。
「ありがとう……」
ナーガはもう立ち上がっていた。
次の負傷者を目で探しながら。
「お礼は後!」
声は明るい。
戦場でも変わらない。
でも手が震えている。
震えたまま、走る。
ガルドは前線にいた。
素手。
拳だけで傭兵を薙ぎ倒していく。
一撃。
二撃。
グラディウスの間合い、癖、足運び。
全部、体が覚えている。
でも——手加減している。
殺さない。
倒す。
殺さない。
止める。
知っている顔があるかもしれない。
飯を食った相手がいるかもしれない。
それが分からないまま、拳を振り続ける。
一発ごとに、顔が暗くなる。
***
外壁の三箇所が突破された。
自動砲台が二基、壊されている。
アナは研究棟の屋上から見ていた。
腕を組む。
深紅の髪が南風に煽られる。
左腕が微かに疼く。
あの女の声が一瞬だけよぎる。
——押し込む。今は、黙れ。
数えた。
突破された箇所。
障壁の残数。
研究者の消耗。
ジークの呼吸が上がっている。
ラピスの魔力が削られ始めている。
ナーガの治癒の間隔が短くなっている。
ガルドの拳だけが衰えない
——けれど、あの男の目は戦場を見ていない。
もっと遠い、昔の何かを見ている。
このままだと、一時間で内側まで喰われる。
(——お腹が空いたわ)
飢餓感が、胃の底から這い上がる。
発作じゃない。
これは純粋な食欲。
獲物を前にした蛇の本能。
腕の蛇紋が、微かに光った。
影の蛇が主人の意思に応えて蠢く。
アナは振り返らずに言った。
「ゼノス」
後ろで手帳をめくる音が止まった。
「何かな」
「西の防衛線、私が塞ぐ」
ゼノスがペンを止めた。
銀の瞳がアナの背中を見る。
「一人で?」
「対価の分は働くと言ったでしょう」
立ち上がる。屋上の縁に足をかける。
ゼノスが
——ほんの一瞬、手帳を閉じた。
「……気をつけてね。貴重なサンプルに消えられたら困るから」
アナは肩越しに振り返った。
「あなたの心配はそこなのね」
笑った。
目が笑っていない。
獲物を見定めた蛇の目。
眼下で、ジークが六人目を凌いでいる。
ガルドの拳が七人目を沈める。
ラピスの拘束陣が八人目を捕らえ、ナーガが走る。
——よくやってるわ、みんな。
口には出さない。
でも、ここからは私の仕事。
アナは屋上の縁に立った。
影の蛇が壁を這い下りる。
深紅の魔力が石壁に張りつき、主人の体を抱え込むように巻きついた。
三階分の壁面を、蛇に吊られるように滑り降りる。
着地。
石畳に靴底が触れる。
蛇はそのまま前方へ走り、傭兵二人を薙ぎ払った。
石畳が割れる。砂埃。
立ち上がる。
前を見る。
グラディウスの傭兵たちが、
一斉にこちらを向いた。
「ごきげんよう」
微笑む。
「——お腹が空いたの。付き合ってくれるかしら」
防衛線の穴から、這い出た蛇。
その見た目に、奴らは騙された。
いよいよアルカナス編に大きな動きが。
ガルドの顔から軽口が消えた理由は
——もう少し先で語ろうと思っています。
共に誰かを守るための
ジークの剣とガルドの拳。
同じところと違うところ。
2人が何を守るのか?
想像しながら楽しんでもらえたら嬉しいです。
さて次回、アナが久しぶりに暴れます。
これまでよりも暴れます。
次回更新は4/10を予定しています。




