第46話:「似て非なる銀と青」
戦いの後に残るのは、
瓦礫と、答えの出ない問いだけ。
数刻前まで鉄と血と怒号で染まっていた空気が、嘘のように凪いでいる。
静寂すぎて、逆に耳が痛い。
アルカナスの南壁に刻まれた無数の爪痕と、
まだ漂う土埃だけが嵐の記憶を留めていた。
研究棟前の広場。
アナが1人歩いていた。
ジークが片膝をつき、負傷した研究員の腕に添え木を当てている。
その手つきは剣を握る時よりずっと慎重で、不器用だった。
隣でナーガが治癒の光を両手に灯している。
揺らぐ集中を、歯を食いしばって保っていた。
もう二日、ほとんど眠っていない。それでも手を止めない。
ラピスは壁面に残った防衛魔法陣の残滓を、
一つずつ指先でなぞって消していた。
正確で、静かで、淀みがない。
(今は、声をかけたら邪魔になるわね)
アナはそんな彼らに声をかけることなく、
研究棟の入り口に体を預け街全体を見渡した。
偵察塔の上ではガルドが南を向いたまま、動かない。
グラディウスの波が去っていくのを遠く眺めている。
包帯に巻かれた拳が、まだ痛々しい。
さっきの全部が、あの拳に残っている。
そんな静けさに、場違いなほど軽い足音が混じった。
「お疲れ様。面白かったよ」
ゼノスが研究棟の扉から現れる。
銀髪に埃ひとつない。
服に皺ひとつない。
さっきまでこの街が燃えかけていたことなど知らないかのような顔で、
穏やかに微笑んでいる。本当にこの街にいたのだろうか怪しいくらいだ。
胃の底が、じわりと疼く。
消化しきれない何かが喉の奥にこびりついているような——あの感覚。
「面白い、ね」
アナの声は低い。
ゼノスは微笑んだまま答えた。
「防衛データは取れたし、グラディウスの戦術パターンも記録できた。実りある二日間だったよ」
どちらが勝っても、この男の研究は進んでいた。
進む歩幅が違うだけだっただろう。
ただ、アナはそれを言葉にしない。
今、彼の相手をすると足元を掬われそうな気がした。
***
夕暮れ。
街で唯一無傷だった食堂に、六人が収まっている。
防衛戦の報酬として街が振る舞った食事は質素だが温かい。
スープの湯気が天井に向かって立ちのぼり、
窓の外では住民たちが崩れた石壁を積み直していた。
壊れた街。
でも、死んではいない。
ガルドが三人前の肉を黙々と平らげている。
噛む速度だけは病人のそれとは思えない。
骨付き肉にかぶりつき、三秒で骨だけにし、次の皿に手を伸ばす。
その隣でナーガが包帯を巻き直しながら——
「食べるのはいいけど、右腕は使わないで。傷が開くから」
「手が足りねえ」
「足りてるでしょ! 左手で食べなさい!」
ガルドは左手に持ち替える素振りすら見せない。
ナーガが額に青筋を浮かべかけた瞬間、ジークが間に入った。
「ガルドさん。ナーガの治療が無駄になりますよ」
「——チッ」
舌打ちひとつ、左手に持ち替えた。
昔なら舌打ちだけで終わっていただろう。
アナが冷たい目でガルドの皿の山を見つめる。
「あなたの食費が一番の敵よ。グラディウスより厄介だわ」
「腹が減っては戦はできねえ」
「戦はもう終わったでしょう」
ジークはフォークを握ったまま、静かに瞼が落ちかけていた。
修行と実戦の二日間が、ようやく膝に来たらしい。
肘がテーブルから滑り——ガルドが空いた左手で黙って支えた。
起こしもせず、寝かせもせず。
「……すみません」
「寝んなら飯食ってから寝ろ」
テーブルの賑やかさが、窓の外の薄暮に溶けていく。
修復中の壁。
瓦礫を運ぶ住民の影。
戻りかけている日常の輪郭。
その端。
ゼノスだけが、皿に手をつけていない。
スプーンが食器に当たる音も、肉を噛み千切る音も、叱り声も——全部、
硝子一枚の向こう側みたいに、銀色の瞳に映っている。
ラピスがそっと、ゼノスの隣に席を移した。
「食べないの?」
「あまり食事に興味がなくてね」
ラピスは何も言わず、自分のパンをちぎって口に運ぶ。
ゼノスの皿には、触れない。
ただ、隣にいた。
2人並ぶと誰もだ兄弟だと思うだろう。
(中身はアレだけ違うのに)
***
夜。
研究棟の三階。
ラピスが階段を上がると、開け放たれた扉の奥で、ゼノスが魔道ペンを走らせていた。
壁一面に浮かぶ術式の光。
青白い線が幾何学模様を描き、部屋全体が水底のように揺れている。
その手元に——見覚えのある波形。
アナの魔力波形だ。
あの夜、防衛術式だと思った光の裏側で、ゼノスが記録していたもの。
ラピスだけが気づいていた。でも、誰にも言わなかった。
「入っていい?」
ゼノスが振り返る。
わずかに目を見開き——すぐに、穏やかな顔に戻った。
「どうぞ。何か用かな」
ラピスは部屋に入り、窓際まで歩いた。
夜空の星がアルカナスの灰色の屋根を銀色に染めている。
銀と青。
この部屋の色は、どこかゼノスに似ていた。
綺麗で、冷たくて、何も映さない。
「ゼノスはさ」
声のトーンが変わる。
いつもの明るさが、静かに沈んでいく。
「怖くないの。誰も信じないで」
ペンが一瞬止まる。
再開する。
「信じるって、何かな」
穏やかな声。温度はない。
「根拠のない判断は、ノイズだよ。
僕は観察して、記録して、検証する。それで十分なんだ」
一拍。
「信じる必要がない」
ラピスは窓枠に手を置いた。
星の光が青い髪に落ちる。
原石を鑑定するときの目。
濁りを探すのではなく、奥に何が眠っているかを見極めようとする目で——ゼノスを見た。
「僕も昔、全部計算してた。君の計算よりもたちが悪いものかもしれないけど」
ゼノスのペンが、止まる。
今度は——再開しない。
「この人は敵か味方か。この笑顔は嘘か本当か」
声は落ち着いている。
でも、軽くはない。
「国が毒が侵されて、昨日笑ってた人が今日には刃を向けてくる。
家族だと思っていた人間は敵で、敵だと思っていた他人が味方だったりした。
——計算しないと、生きていけなかったけど、決して満点は出せなかったけどね。
だから、君みたいに信じることすら面倒になっていたんだ。」
沈黙が落ちる。
術式の光だけが、ゆっくりと明滅している。
ゼノスが初めて——ラピスの目を、正面から見た。
「……君が?」
「うん。僕が」
震えはない。
澄んでいる。
「でも一人だけ、計算しない人が現れたんだ。」
窓の外で、星が一つ瞬いた。
「理由も、見返りも、何もなくて。
敵なのか、味方なのかも分からなかった。
ただ——そばにいてくれた」
間。
「それだけだったんだ」
ラピスの声は静かだ。
でも、静かなのに——届く。
「でも、その存在だけで、全部変わった
計算することさえバカバカしくなったんだ。」
ゼノスは口を開きかけた。
——でも、閉じた。
手元のデータがぼやける。
ペンを握る指先の感覚が遠い。
耳が詰まったように音が消えて
——いや、違う。部屋が静かすぎるだけだ。
「この街を一人で守り抜き続けることは僕にはできない。
人を無理に信じなくてもいいと思う。
でも、たまには人に興味を持つのもいんじゃないかな」
濁りのない水面に、何かが落ちた。
波紋が広がる。水底まで揺れる。
——でも、水面はすぐに凪いだ。
「……面白い話だね」
「もちろん、研究対象としてはダメだからね。」
「それは、とても難問だね……」
声は、いつも通り。たぶん。
ラピスは振り返らなかった。
「おやすみ、ゼノス」
足音が階段を降りていく。遠くなる。消える。
ゼノスは椅子に座ったまま、壁に浮かぶデータを見つめた。
アナの魔力波形。
整然と並ぶ数値。記号。
計算可能な世界の、確かな手触り。
「バカバカしいか。」
***
同じ頃。
アナは宿の窓辺に腰掛けていた。
月のない夜。
星だけが、街の輪郭をかろうじて浮かべている。
左腕が、疼く。
蛇紋はとうに消えている。
ゼノスの薬が効いているはず。
でも——皮膚の奥で何かが蠢いている感覚が、消えない。
(『——遅いわよ』)
あの声が、まだ耳の奥に貼りついている。
内なる女。自分と同じ顔の、血のような目をした女。
あの朝。
発作が起きた時、自分の魔力を自分で食い始めた。
影の蛇が暴走し、視界が赤く染まり
——ナーガが飛んできて、両手で蛇紋を押さえてくれた。
あの手がなかったら。
左腕を、無意識に右手で押さえる。
指先が冷たい。
視線が、宙を泳ぐ。
いつか——この飢餓が、あの四人に牙を剥いたら。
暴食が止まらなくなって、一番近くにいる仲間から食い尽くしたら。
制御できる保証なんて、どこにもない。
「明日、出るんだろ」
屋根の縁から、声。
ガルドが、南ではなくこちらを見ていた。
いつからそこにいたのか分からない。
「ええ。用は済んだもの」
「そうかよ」
ガルドは空を仰いだ。
星明りが、包帯だらけの腕を白く照らす。
沈黙。
でも——嫌な沈黙じゃない。
アナは窓枠を握る手に、少しだけ力を込めた。
答えは、出ない。
でも——止まるわけには、いかない。
いかなる犠牲を払っても、
やり遂げないといけないことがあるから。
ゼノスのペンが止まった理由は、
たぶん本人にも分かっていません。
次回、アルカナス最終話。
聖女出陣です。
次回更新は4月13日を予定しています。




