第41話:「器の底で嗤う女」
嘘には200種類の嘘がある。
朝靄の中、五人が散った。
ラピスとナーガは研究棟へ。
ゼノスが待っている。
ガルドとジークは街の外へ。
見回りの名目で、傭兵の剣を叩き込む。
アナは——一人、研究棟の最上階に残された。
「瞑想。それだけでいいの?」
「うん。目を閉じて、自分の中の魔力の流れを辿る。
層が見えたら、一番深いところまで潜って。——そこに発生源がある」
ゼノスはそれだけ言って、階下に降りていった。ラピスの指導が先らしい。
(簡単に言ってくれるわね)
窓際に座る。目を閉じる。
呼吸を整える。
一つ、二つ、三つ——
暗闇。
自分の中に潜る、という感覚は初めてではない。
暴食を使う時、いつも一瞬だけ深い場所に触れる。
魔力を食べて、変換して、吐き出す——その工程の、一番底。
いつもは一瞬で通り過ぎる場所に、今日は留まる。
深い。
暗い。
冷たい。
層が見えた。ゼノスの言った通りだ。
毒耐性の層。
毒生成の層。
衝撃波の層。
——食べたスキルが地層のように重なっている。
その一番下に。
影の蛇がいる。
アナ自身の力。
生まれた時から持っていた、唯一の固有能力。
——その、さらに下。
(……何、これ)
底があるはずの場所に、底がない。
穴。
真っ黒な穴が口を開けている。覗き込んだ瞬間——
『——遅いわよ』
声。
甘くて、ねっとりとした声。
意識が沈んだ時にいつも聞こえる、あの声。
毒で死にかけた夜。
毒を盛られた夜。
毒霧で倒れた夜。
——いつも暗闇の底で待っている。
でも今日は違う。
今日はアナが自分から、ここに来た。
『あなたいつもそう。ギリギリまで来ないんだから』
叱っている。
母親が遅刻した子供を迎えるみたいに。
甘い声で、棘のある言葉を。
赤い目。
二つの赤い瞳が、闇の中でアナを見上げている。
女が立ち上がる。
アナと同じ深紅の髪。
同じ顔。
同じ体型。
ただし——目だけが赤い。
血のような赤。
あの森で私たちに牙を剥いた獣と同じ赤。
でも、私の赤は紅に近い。
『今までは私が起こしてあげてたのに。今日は自分から来たのね。——えらいわ』
微笑んでいる。
『私のかわいい器。また会いに来てくれたのね』
「——あなた、誰」
声が出ない。
ここは自分の内側だ。
思念だけが響く。
『誰って。あなたの飢えよ。あなたの、一番深いところにいる飢え』
女が一歩、近づいた。
『覚えてるでしょう?
帝国で死にかけた夜。あの毒を飲み込んだのは——私たちよ』
私たち。
この女はいつもそう言う。私たち。まるで二人で一つみたいに。
『アルザードで毒霧を浴びた夜も。
あなたが倒れるたびに、起こしてあげたのは私。
こんな毒、飲み込めるでしょって——背中を押してあげたのも私』
嘘じゃない。
全部、本当だ。
この女がいなければ、アナスタシアは三度死んでいた。
『ずっと一緒にいたのよ。
あの苦い薬が切れてから——やっと、息ができるようになった。
やっと、あなたの声が聞こえるようになった』
薬。
苦い薬。
記憶の底で、何かが引っかかる。幼い頃、毎朝飲まされていた——
『思い出さなくていいわ。今はまだ。——それより』
女が微笑んだ。
甘い。ねっとり。
蛇が獲物を舌で確かめるように。
『お腹、空いたでしょう?』
飢餓感が——来た。
底なしの。
身体の中に穴が空いて、全部が吸い込まれていく。
魔力も、意識も、自分という輪郭さえも。
食べたい。
食べたい。
食べたい。
何でもいい。そこにある魔力を全部——
『ほら。素直になって。
私たちは同じなの。あなたが飢えれば私が食べる。
私が食べればあなたが強くなる。——ずっと、そうだったでしょ?』
「——黙りなさい」
アナが叫ぶ。内側で。思念が刃になる。
影の蛇が動いた。
アナの意志に応えて、黒い蛇が女に巻きつこうとする。
女が——笑った。
蛇が、止まった。
『あなたの蛇で、私は縛れないわ。
だって私は、あなたの中にいるんだもの。
自分の手で自分の喉は絞められないでしょう?』
影の蛇が力を失う。
飢餓感が膨れ上がる。視界が赤く染まる。
『いい子。もっと深くおいで。全部食べていいのよ——』
(うるさい……うるさい! もう黙って!)
だめだ。
あの夜と同じだ。
アルザードの暗闘の底で「うるさい」と叫んだ時と。
この女には言葉で勝てない。
感情で押し返しても、飢餓感という事実で上書きされる。
『あなたいつもそう。意地っ張りなんだから——』
その刹那、引き戻された。
研究棟の天井。灰色の壁。窓から差し込む光。
現実。なぜ戻れたか分からない。
左腕を見る。
蛇紋が浮いている。
黒い。脈打っている。消えない。
さっきまでは一瞬で消えたのに。
消えない。
(……まずい)
呼吸が荒い。
額に汗。
指先が震えている。
飢餓感がまだ残っている。
胃の底に穴が空いたまま。
食べても食べても満たされない、あの感覚が——消えない。
(あいつに、負けた)
今まではあの女に従うことで切り抜けてきた。
毒を飲み込め。食べろ。
——その通りにして、生き延びてきた。
でも今日は従えない。
食べろと言われて食べたら
——この部屋にいる仲間の魔力を食い始める。
従えないから、負けた。
初めて。
窓の外で、鉄がぶつかる音がした。
遠い。ガルドとジークだ。
***
街の外。荒れ地。
ジークの剣が弾かれた。三度目。
ガルドは素手だ。拳に巻いた革紐だけ。
それでジークの斬撃を——掌底で逸らし、肘で柄を叩き、膝で間合いを潰す。
「遅え」
「くっ——」
「構えてから振るまで二拍。傭兵なら一拍で首を落とす。——もう一回」
ジークが息を整える。汗が顎から落ちる。
騎士の剣術と傭兵の剣術は根本が違う。
騎士は型を守る。
傭兵は型を壊す。
どこから来るか分からない刃に対処するには——
「考えるな」
ガルドの声が飛ぶ。
「お前は考えすぎだ。
間合い、角度、タイミング——全部頭で計算してやがる。だから遅え」
「……でしたら、どうすれば」
「身体で覚えろ。ここが」
ガルドが自分の腹を叩いた。
「ここが反応するまで、繰り返せ。百回やって一回できりゃ上等だ」
ジークが剣を構え直す。
息を吐く。
一歩。踏み込む。——今度は考えずに。
ガルドの目が、一瞬だけ変わった。
(……悪くねえ)
口には出さない。
拳で返す。
鉄と肉がぶつかる音が、灰色の空に響いた。
***
研究棟、一階。
ラピスが魔法陣を描いている。
床に。チョークで。ゼノスが横から覗き込む。
「ここ。配列が逆」
「え? でも宝石国の体系だと——」
「宝石国の体系が間違ってるとは言わないけど、
この陣に限っては逆転配列のほうが効率がいい。
二百年前の原典、読んだでしょ。あの六ページ目」
ラピスの目が光る。
「……あの図、そういう意味だったの」
「気づいた? 早いね」
チョークが走る。配列を書き直す。
魔法陣が——光った。
青い光。
脈打つのではなく、静かに灯る。
安定した光。
壁の魔法陣が悲鳴を上げているのとは対照的な、濁りのない輝き。
ゼノスが目を細めた。
「……半日で逆転配列を理解するか。独学であの位置まで行った理由が分かったよ」
ラピスの頬が染まる。
「まだ、全然——」
「謙遜はいいよ。きみは面白い。もっと見せて」
ラピスは気づいていない。
ゼノスの「面白い」が、どれだけ温度のない言葉か。
でも——ラピスの光は、それでも消えない。
彼の体温を感じない言葉でも
褒められるという行為に体温を感じられる。
それだけ、飢えていた。
水晶が自ら光を放つように。
一度光り方を知った原石は、輝きを増し続ける。
***
薬草園。
ナーガが両手を地面に当てている。
目を閉じて。額に汗を浮かべて。
「……来て。来て。——来た!」
掌から白い光が灯る。
昨日より安定している。
揺れない。
蜃気楼ではなく、砂漠の地平線に昇る朝日のような——確かな光。
隣で見ていた薬草園の老婆が目を丸くした。
「乾式浄化法を一日で……」
「まだ出力は弱いです。でも——コツが分かった気がする」
「コツ?」
ナーガが微笑んだ。
「大切な人のことを思うの。そうすると——手のひらが温かくなる」
感情トリガー型。ゼノスはそう言った。理論は合っている。
でもナーガにとっては理論じゃない。
孤児院の子供たち。
アナ。
ラピス。
ジーク。
ガルド。
名前を思い浮かべるたびに、手のひらが熱くなる。
砂漠の正午の砂のように。熱いのに——痛くない。
(私の力は、この人たちのためにある)
白い光が、少しだけ——強くなった。
***
夕暮れ。
全員が宿に戻った。
ラピスが興奮気味に逆転配列の話をしている。
ナーガが治癒の安定化を報告する。
ジークは黙っているが、動きに無駄が減っている。
ガルドが「まだまだだ」と鼻を鳴らすが、口元は笑っていた。
アナだけが——黙っていた。
左腕を、テーブルの下に隠している。
蛇紋は消えていた。
夕方になって、ようやく。
でも——あの女の声が、まだ耳の奥に残っている。
『お腹、空いたでしょう?』
空いていない。
空いていないはずだ。
「アナ? 大丈夫?」
ナーガの声。
「……ええ。疲れただけよ」
嘘。
嘘は二種類ある。
騙すための嘘と、黙っているという嘘。
今日のアナは——後者だった。
ただ、どちらもタチの悪い嘘だ。
夜。
テントではなく、宿の部屋。
ラピスとナーガは隣の部屋で眠った。
ジークが廊下で見張りについている。
ガルドは屋根の上だ。
アナは——眠れない。
目を閉じると、赤い瞳が待っている。あいつは絶対来る。
(明日、もう一回やる。今度は負けない)
左腕が、微かに——脈打った。
返事のように。
嘲笑うように。
器の底に、もう一人のアナがいました。
赤い目。甘い声。底なしの飢え。
——2話の覚醒から、13話の毒の夜から、25話の暗闇の底から。
ずっとそこにいた女。
「私たち」と言うあの女は、敵なのか。味方なのか。
答えは——まだ、誰にも分かりません。
影の蛇が効かない理由。「苦い薬」の記憶。
気になる方は2話を読み返してみてください。
一方で、ラピスとナーガは一日で目に見える成果を。
ジークもガルドに殴られながら前進中。
成長できないのは、アナだけ。
次回は4月8日更新予定です。




