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〜無能で最弱の元プリンセスが、地獄の果てまで飲み込む復讐界隈の話〜 ミセス アナコンダ  作者: 大背戸智
第五章「魔導皇都アルカナス編」

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第39話:「生きた地雷原」

嘘は二種類ある。

騙すための嘘と、黙っているという嘘。

ゼノスという男は——後者の天才だった。


「ここが僕の研究棟。散らかってるけど、気にしないで」


扉を開けた瞬間、ナーガの顔が凍った。

散らかっている——という表現では足りない。

床に積み上がった魔導書の山。

干からびた薬草の束が壁一面に吊るされ、

机の上には色の変わった液体が入った瓶が十数本。

計算式が書き殴られた紙が雪のように積もり、その上に食べかけのパンが放置されている。


パンにはカビが生えていた。


「……ゼノスさん。一つ聞いていい?」


ナーガの声に、蜃気楼のような揺れ。


「どうぞ」

「これ、いつのパン?」

「さあ。先月かな。——あ、でも魔法で腐敗を遅延させてるから、食べても平気だよ」

「食べないよ!?」


ナーガが叫ぶ。

砂漠育ちの彼女にとって、食べ物を腐らせることは信じがたい罪だ。

孤児院で子供たちの食事を一粒も無駄にしなかった人間が、このカビを許せるわけがない。


「座るスペースを作ってもいいかしら」


アナが言った。


「触らないで、配置に意味があるんだ。

 右の山が未読、左の山が精読済み、真ん中の崩れかけてる山が——」


「全部崩れてるわよ」


ラピスだけが、目を輝かせていた。


膝をつき、床に散らばった魔導書の一冊を拾い上げる。

ページを開いた瞬間、呼吸が止まる。

原石の鑑定士が、想像を超えた一粒に出会った時の——あの目。


「これ……多重層防衛陣の原典? こんなもの、宝石国の書庫にもなかった」

「ああ、それは割と珍しいやつだね。二百年前の——」

「二百年前!?」


ラピスの声がひっくり返る。ゼノスが首を傾げた。


「そんなに驚くこと?」


アナはそのやりとりを横目で見ながら、研究棟の窓に視線を送った。


窓の外——灰色の街並み。


ジークが壁際に立っている。

柄に手をかけたまま、微動だにしない。

間合いの外にあるはずの気配を、ずっと探っている。


ガルドは——いない。


さっき研究棟に入る直前、黙って外に残った。

理由は言わなかった。

鼻だけが動いていた。

鉄の匂いを、まだ追っている。


(あの男が黙って動く時は、理由がある)


止めなかった。

アナは視線をゼノスに戻した。


「ゼノス。本題に入りましょう」

「うん。——何から聞きたい?」

「全部よ」


ゼノスが笑う。

温度のない笑み。

水銀が光を反射するように、形だけが綺麗に整っている。


「じゃあ、順番にね」


ゼノスが窓辺に腰かけた。

足をぶらぶらさせながら——学者が講義を始めるように、口を開く。


「この街の周囲三十リーグに棲息するモンスター。最近、急に凶暴化したでしょ」


アナの目が細くなる。道中で襲われた、あの異常なモンスターたち。

赤い眼。増幅された魔力。普通の森の獣ではなかった。


「知ってるわ。身をもって」

「——あれ、僕たちがやったんだ」


沈黙。


ラピスの手が止まる。

ナーガの瞳が揺れる。

ジークの指が、柄を握り締める。

アナだけが、動かない。


「続けて」


「アルカナスは学術都市であって、軍事都市じゃない。兵

 力がない。傭兵を雇う金もない。——でも、鋼牙傭兵国グラディウスが攻めてくる」


ゼノスの声は平坦だ。天気の話をするように、戦争を語る。


「だから、モンスターを使った。

 周囲の魔獣に増幅陣を仕掛けて凶暴化させる。

 生きた地雷原。グラディウスの先遣隊はこれで三度足止めされてる」


「——それで」


アナの声が低い。

胃の底に、何かが沈んでいく感覚。

空腹ではない。

嫌悪だ。


「巻き込まれた旅人は?」


ゼノスが首を傾げた。

本気で、意味が分からないという顔をしている。


「旅人?」


「私たちのことよ。あの森で、あなたたちの"地雷"に襲われたの。

 ガルドが殴り飛ばさなければ死んでたわ。——他にもいるでしょう。

 商人。旅芸人。たまたま通りかかっただけの人間」


ゼノスは瞬きを一つ。


「それは——計算の外だね」


空気が、変わった。

アナの目が据わる。


「計算の、外」


「うん。モンスターの行動範囲は予測できるけど、

 そこを通る人間の数までは変数に入れてなかった。

 優先順位の問題だよ。街の防衛と、通行人の安全——」

「どっちが大事かなんて聞いてないわ」


アナが一歩前に出た。


「聞いてるのは——巻き込んだことを、どう思ってるのか」


ゼノスの銀の瞳が、初めてアナを正面から見た。


静かに。

冷たく。


「思ってない。

 ——考えたことがなかった、が正確かな」


嘘ではない。

この男は嘘をつかない。

ただ黙る。

そして黙っていないことについては、恐ろしく正直だ。


私が前に出ようつするよりも先に、ナーガが一歩前に出た。


「ゼノスさん。一つだけ」

「なに?」

「術をかけてる側も——限界が近いんじゃない?」


ゼノスの指が、ほんの一瞬だけ止まった。

ナーガの目が、砂漠の熱を宿している。

占い師の目。

真実を読む目。

蜃気楼の揺れの向こうに、本物を見る目。


「門の魔法陣、昨日見た時から明滅が速くなってる。

 壁の術式も、ラピスが"悲鳴を上げてる"って言ってた。

 街全体が——熱い。砂漠の正午みたいに。

 でも太陽がない。熱源は——あなたたちでしょう」


ゼノスが、初めて口を閉じた。

三秒。

五秒。


「……鋭いね。占い師って、本物もいるんだ」

「本物だよ。——で、どうなの」


ゼノスが窓の外を見た。

灰色の街。脈打つ魔法陣。

守っているのか、壊れかけているのか——もう区別がつかない光。


「あと二週間かな。

 それを過ぎたら、増幅陣の維持に術師の命が削られ始める。

 一ヶ月後には——街ごと倒れる」


淡々と。

自分も含めて、と言外に含めながら。

ラピスが魔導書を胸に抱いた。

濁りのない水晶のような瞳が、ゼノスを見ている。


「助けてほしいって——言えないの?」


ゼノスが振り返る。


「……言えない、じゃなくて。言い方を知らないだけだよ」

「じゃあ、僕が代わりに言うね」


ラピスが立ち上がった。

アナを見る。まっすぐに。


「アナ。この街、助けてあげてほしい」

「——ラピス」

「お願い」


アナはラピスを見た。


それから、ゼノスを見た。


それから——窓の外を見た。


灰色の街。魔法陣が脈打つ壁。声を殺して暮らす住民たち。


(私利私欲よ。いつだって)


口を開く。


「助ける、とは言わないわ」


ラピスの瞳が揺れる。


「取引をするの。——対価は?」


ゼノスの目が変わった。

温度はない。

けれど——光の角度が、変わった。

水銀に映る景色が、ほんの少しだけ動いたように。


「……何が欲しい?」


アナは笑った。

獲物の前で舌なめずりをする、あの笑み——ではない。

もっと静かな。もっと冷たい。


商人の笑み。


「明日までに考えておくわ。あなたが出せるもの、全部リストアップしておいて」


ゼノスが瞬いた。一度。二度。

それから——少しだけ、口角が上がった。


「面白い人だね、きみ」

「褒め言葉として受け取っておくわ」


アナは踵を返した。


研究棟を出る。

灰色の空。

夕暮れの光が、壊れた屋根の隙間から差し込んでいる。


外にガルドがいた。

壁に背を預けて、腕を組んでいる。

目だけが——遠い場所を見ている。


「聞いてた?」

「壁が薄い」

「……で?」

「グラディウスの先遣隊。南東の森に野営の痕跡がある。焚き火の跡が新しい。——二日、もって三日だ」


二週間ではない。

二日。

アナの胃が締まる。


「……嬢ちゃん」


ガルドの声が低い。いつもの豪快さはない。


「グラディウスの匂いは——俺が一番よく知ってる」


それだけ言って、ガルドは目を閉じた。

腕を組んだまま。

壁に背を預けたまま。

その横顔に、アナは何も聞かなかった。


聞かなくていい。

この男が動く時が来たら、動く。それだけだ。


夜が落ちる。

灰色の街が、闇に沈んでいく。

魔法陣だけが——脈打っている。


心臓のように。

悲鳴のように。


ゼノスの「計算の外」はこの男の本質。悪気がないのが一番怖い。

ガルドの二日宣告でタイムリミットが一気に縮まりました。

次回、アナは何を要求するのか。次回更新は4月6日予定です、

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