第39話:「生きた地雷原」
嘘は二種類ある。
騙すための嘘と、黙っているという嘘。
ゼノスという男は——後者の天才だった。
「ここが僕の研究棟。散らかってるけど、気にしないで」
扉を開けた瞬間、ナーガの顔が凍った。
散らかっている——という表現では足りない。
床に積み上がった魔導書の山。
干からびた薬草の束が壁一面に吊るされ、
机の上には色の変わった液体が入った瓶が十数本。
計算式が書き殴られた紙が雪のように積もり、その上に食べかけのパンが放置されている。
パンにはカビが生えていた。
「……ゼノスさん。一つ聞いていい?」
ナーガの声に、蜃気楼のような揺れ。
「どうぞ」
「これ、いつのパン?」
「さあ。先月かな。——あ、でも魔法で腐敗を遅延させてるから、食べても平気だよ」
「食べないよ!?」
ナーガが叫ぶ。
砂漠育ちの彼女にとって、食べ物を腐らせることは信じがたい罪だ。
孤児院で子供たちの食事を一粒も無駄にしなかった人間が、このカビを許せるわけがない。
「座るスペースを作ってもいいかしら」
アナが言った。
「触らないで、配置に意味があるんだ。
右の山が未読、左の山が精読済み、真ん中の崩れかけてる山が——」
「全部崩れてるわよ」
ラピスだけが、目を輝かせていた。
膝をつき、床に散らばった魔導書の一冊を拾い上げる。
ページを開いた瞬間、呼吸が止まる。
原石の鑑定士が、想像を超えた一粒に出会った時の——あの目。
「これ……多重層防衛陣の原典? こんなもの、宝石国の書庫にもなかった」
「ああ、それは割と珍しいやつだね。二百年前の——」
「二百年前!?」
ラピスの声がひっくり返る。ゼノスが首を傾げた。
「そんなに驚くこと?」
アナはそのやりとりを横目で見ながら、研究棟の窓に視線を送った。
窓の外——灰色の街並み。
ジークが壁際に立っている。
柄に手をかけたまま、微動だにしない。
間合いの外にあるはずの気配を、ずっと探っている。
ガルドは——いない。
さっき研究棟に入る直前、黙って外に残った。
理由は言わなかった。
鼻だけが動いていた。
鉄の匂いを、まだ追っている。
(あの男が黙って動く時は、理由がある)
止めなかった。
アナは視線をゼノスに戻した。
「ゼノス。本題に入りましょう」
「うん。——何から聞きたい?」
「全部よ」
ゼノスが笑う。
温度のない笑み。
水銀が光を反射するように、形だけが綺麗に整っている。
「じゃあ、順番にね」
ゼノスが窓辺に腰かけた。
足をぶらぶらさせながら——学者が講義を始めるように、口を開く。
「この街の周囲三十リーグに棲息するモンスター。最近、急に凶暴化したでしょ」
アナの目が細くなる。道中で襲われた、あの異常なモンスターたち。
赤い眼。増幅された魔力。普通の森の獣ではなかった。
「知ってるわ。身をもって」
「——あれ、僕たちがやったんだ」
沈黙。
ラピスの手が止まる。
ナーガの瞳が揺れる。
ジークの指が、柄を握り締める。
アナだけが、動かない。
「続けて」
「アルカナスは学術都市であって、軍事都市じゃない。兵
力がない。傭兵を雇う金もない。——でも、鋼牙傭兵国グラディウスが攻めてくる」
ゼノスの声は平坦だ。天気の話をするように、戦争を語る。
「だから、モンスターを使った。
周囲の魔獣に増幅陣を仕掛けて凶暴化させる。
生きた地雷原。グラディウスの先遣隊はこれで三度足止めされてる」
「——それで」
アナの声が低い。
胃の底に、何かが沈んでいく感覚。
空腹ではない。
嫌悪だ。
「巻き込まれた旅人は?」
ゼノスが首を傾げた。
本気で、意味が分からないという顔をしている。
「旅人?」
「私たちのことよ。あの森で、あなたたちの"地雷"に襲われたの。
ガルドが殴り飛ばさなければ死んでたわ。——他にもいるでしょう。
商人。旅芸人。たまたま通りかかっただけの人間」
ゼノスは瞬きを一つ。
「それは——計算の外だね」
空気が、変わった。
アナの目が据わる。
「計算の、外」
「うん。モンスターの行動範囲は予測できるけど、
そこを通る人間の数までは変数に入れてなかった。
優先順位の問題だよ。街の防衛と、通行人の安全——」
「どっちが大事かなんて聞いてないわ」
アナが一歩前に出た。
「聞いてるのは——巻き込んだことを、どう思ってるのか」
ゼノスの銀の瞳が、初めてアナを正面から見た。
静かに。
冷たく。
「思ってない。
——考えたことがなかった、が正確かな」
嘘ではない。
この男は嘘をつかない。
ただ黙る。
そして黙っていないことについては、恐ろしく正直だ。
私が前に出ようつするよりも先に、ナーガが一歩前に出た。
「ゼノスさん。一つだけ」
「なに?」
「術をかけてる側も——限界が近いんじゃない?」
ゼノスの指が、ほんの一瞬だけ止まった。
ナーガの目が、砂漠の熱を宿している。
占い師の目。
真実を読む目。
蜃気楼の揺れの向こうに、本物を見る目。
「門の魔法陣、昨日見た時から明滅が速くなってる。
壁の術式も、ラピスが"悲鳴を上げてる"って言ってた。
街全体が——熱い。砂漠の正午みたいに。
でも太陽がない。熱源は——あなたたちでしょう」
ゼノスが、初めて口を閉じた。
三秒。
五秒。
「……鋭いね。占い師って、本物もいるんだ」
「本物だよ。——で、どうなの」
ゼノスが窓の外を見た。
灰色の街。脈打つ魔法陣。
守っているのか、壊れかけているのか——もう区別がつかない光。
「あと二週間かな。
それを過ぎたら、増幅陣の維持に術師の命が削られ始める。
一ヶ月後には——街ごと倒れる」
淡々と。
自分も含めて、と言外に含めながら。
ラピスが魔導書を胸に抱いた。
濁りのない水晶のような瞳が、ゼノスを見ている。
「助けてほしいって——言えないの?」
ゼノスが振り返る。
「……言えない、じゃなくて。言い方を知らないだけだよ」
「じゃあ、僕が代わりに言うね」
ラピスが立ち上がった。
アナを見る。まっすぐに。
「アナ。この街、助けてあげてほしい」
「——ラピス」
「お願い」
アナはラピスを見た。
それから、ゼノスを見た。
それから——窓の外を見た。
灰色の街。魔法陣が脈打つ壁。声を殺して暮らす住民たち。
(私利私欲よ。いつだって)
口を開く。
「助ける、とは言わないわ」
ラピスの瞳が揺れる。
「取引をするの。——対価は?」
ゼノスの目が変わった。
温度はない。
けれど——光の角度が、変わった。
水銀に映る景色が、ほんの少しだけ動いたように。
「……何が欲しい?」
アナは笑った。
獲物の前で舌なめずりをする、あの笑み——ではない。
もっと静かな。もっと冷たい。
商人の笑み。
「明日までに考えておくわ。あなたが出せるもの、全部リストアップしておいて」
ゼノスが瞬いた。一度。二度。
それから——少しだけ、口角が上がった。
「面白い人だね、きみ」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
アナは踵を返した。
研究棟を出る。
灰色の空。
夕暮れの光が、壊れた屋根の隙間から差し込んでいる。
外にガルドがいた。
壁に背を預けて、腕を組んでいる。
目だけが——遠い場所を見ている。
「聞いてた?」
「壁が薄い」
「……で?」
「グラディウスの先遣隊。南東の森に野営の痕跡がある。焚き火の跡が新しい。——二日、もって三日だ」
二週間ではない。
二日。
アナの胃が締まる。
「……嬢ちゃん」
ガルドの声が低い。いつもの豪快さはない。
「グラディウスの匂いは——俺が一番よく知ってる」
それだけ言って、ガルドは目を閉じた。
腕を組んだまま。
壁に背を預けたまま。
その横顔に、アナは何も聞かなかった。
聞かなくていい。
この男が動く時が来たら、動く。それだけだ。
夜が落ちる。
灰色の街が、闇に沈んでいく。
魔法陣だけが——脈打っている。
心臓のように。
悲鳴のように。
ゼノスの「計算の外」はこの男の本質。悪気がないのが一番怖い。
ガルドの二日宣告でタイムリミットが一気に縮まりました。
次回、アナは何を要求するのか。次回更新は4月6日予定です、




