第38話:「銀の天才と灰色の街」
森を抜けました。
辿り着いた先は、思っていた街とは少し違うようです。
森を抜けた瞬間、空気が変わった。
重かった。焦げ臭かった。三日間ずっとそうだった。
でも森を出た途端、それが嘘のように消えた——わけじゃない。
匂いの質が変わったのだ。焦げた土から、錆びた鉄へ。自然のものから、人工のものへ。
「……見えた」
ラピスが指を差す。
丘の上から見下ろした街は、灰色だった。
魔導皇都アルカナス。大陸有数の学術都市。
ラピスが宝石国の書庫で読みふけった魔導書の半分は、この街の学者が書いたものだ。
知識の都。魔法の聖地。
——のはずだった。
門が、折れている。石の門柱が根元から割れて、瓦礫が道を塞いでいる。
片付けた形跡がない。踏み越えて入れ、ということらしい。
「嬢ちゃん」
ガルドが立ち止まった。鼻が動いている。
森の中でもずっとそうだった。
この男は三日間、何かを嗅ぎ続けていた。
「先に行く。ついてこい」
理由は言わない。
ガルドが黙って先頭に立つ時は、理由がある。クロッサードで学んだ。
瓦礫を跨いだ。
街の中は、外から見たより酷かった。
建物の壁面に魔法陣が刻まれている。
青白い光を帯びて、心臓みたいに明滅する。壁だけじゃない。
路面にも、排水溝の蓋にも、ベンチの裏にも。
街全体が魔法陣の血管に覆われて、脈打っている。
ラピスが壁に手を触れた。
原石を鑑定する目。
指先で光の流れを辿りながら、息を呑む。
「見たことない体系だ。宝石国のとも、帝国のとも違う」
「何の術式?」
「防衛……だと思う。街を守ろうとしてる。でも——必死すぎる。この陣、悲鳴を上げてるみたいだ」
人がいない。
昼。大通り。
大陸有数の学術都市の目抜き通り。
なのに、空。
残った住民は壁に沿って足早に過ぎ、目を合わせない。
声を出さない。
口の中で何かを呟きながら歩いていく。
(消化不良の街だわ)
腹の底が訴えている。
この街の魔力は歪んでいる。
暴食アナコンダが反応しているのに、美味いとも不味いとも言わない。
食ったことのない味。飲み込めるかどうかも分からない。
初めての感覚。
ジークが半歩前に出た。左手は柄の上。
間合いの外に、見えない刃の気配を探る目。
「……敵か味方か、判別がつきません」
「そうね。この街全体がそう」
ナーガが腕を抱いた。編み込みの髪が風に揺れる。褐色の指先が震えている。
「砂が……騒いでる。森の中よりずっと。この街の下、何か埋まってるみたいに熱い」
「森のモンスターと繋がってる?」
「分からない。でも——同じ匂い。苦しんでるのは、ここも同じ」
研究棟らしき建物が見えた。
五階建て。灰色の街で唯一、窓に灯りが点いている。
三階の窓が開いていた。
足を止めた。
——気配。
上。
三階から何かが落ちてきた。
いや——飛び降りた。
音がない。
五メートルの落下で着地音がない。
猫でもここまで静かには降りない。
石畳に触れた靴が、空気を吸い込んだみたいに——無音。
銀髪。
中性的な顔。整いすぎている。
ラピスと並べたら鏡像に見えるだろう。
同じ輝き。
温度だけが違う。
ラピスが明けの明星なら、こいつは月光だ。
明るい。でも温かくない。
十七か十八。
片手に本をぶら下げている。
この灰色の街で唯一、退屈していない目をした人間。
「——珍しいお客さんだね」
穏やかな声。笑っている。笑っているのに、目の奥で何かを計測している。
銀の瞳が、私を見た。
正確には——腹を。
三秒。
「……君」
「何」
「何か食べたでしょ」
心臓が跳ねた。
「——いくつも」
止まった。全員が。
ジークの手が柄を握る。
ガルドの拳が固まる。
ナーガが息を呑む。
ラピスだけが動かない。
銀髪を、曇りのない瞳でじっと見ている。
(三秒で——見抜いた)
暴食アナコンダの気配を。
私が何をどれだけ食ってきたかを。
たった三秒で。
腹の蛇がぞわりと鎌首をもたげる。
獲物の前に出た時の感覚——違う。
こいつの前では、覗かれているのは私の方だ。
「面白い。すごく面白い」
銀髪が笑った。
目も笑っている。
でもそれは人間が嬉しい時に浮かべる笑みじゃない。
新しい標本を見つけた学者の目だ。
「こんなサンプル、初めて見た」
「——は?」
「いやあ、本当に。複数の魔力が層になって重なってる。
毒と、獣と、宝石の……こんな構造、論文にしたいくらいだ」
「誰がサンプルよ」
「良い意味だよ」
「良い意味のサンプルはこの世にないの。覚えて」
(こいつ。悪気がゼロ。ゼロの顔してる。天才ってこういう生き物なの?)
「あなた、誰」
「ゼノス。ここの研究員……みたいなもの、かな」
首を傾げる。
「みたいなもの」で済む存在感じゃない。
この灰色の街で唯一灯りが点いている建物から、音もなく降りてきた男。
「五人もいるんだね。旅の一行にしては物騒だ」
「物騒なのはこの街でしょう。門が折れて、人がいなくて、壁が脈打ってる。何があったの」
「何があった、じゃなくて——何が起きてるか、かな」
ゼノスが壁の魔法陣に指を滑らせた。青白い光が指に従って揺れる。
「この街は今——」
「待て」
ガルドが、口を開いた。
門を潜ってからずっと黙っていた男。
鼻を動かし続けていた男。
三日間、森の中で何かを嗅ぎ続けていた男が——ようやく、口を開いた。
「鉄の匂いがする」
低い。
いつもの粗さが消えている。
「武具油。革鎧。多人数の汗を煮詰めたような匂い。——傭兵だ」
ゼノスの手が、止まった。
銀の瞳がガルドを見る。
初めて、この大男をちゃんと見る。
「鼻が利くね、おじさん」
「おじさん言うな」
「え、違う?」
「三十路前だ」
「そう。貫禄があるから——」
「殴るぞ」
(大事な話の最中に何やってるのこの二人)
「グラディウスだろ」
ガルドの声が、さらに低くなった。
グラディウス。
鋼牙傭兵国。国そのものが傭兵組織の異常国家。
ガルドの——故郷。
「この匂いは、忘れねえ」
ゼノスの笑みが——変わらなかった。
変わらないことが、答えだった。
「傭兵は——」
銀の瞳が、壊れた門の外を見る。
灰色の空の向こう。森の向こう。
「——まだ、いないよ」
まだ。
「……まだ?」
「うん。まだ」
風が吹いた。
魔法陣が脈打った。
街の空気がほんの一匙だけ、重くなる。
ゼノスは笑っている。
温度のない笑顔。きれいで、冷たい。
「まだ、ね」
三度。
この銀髪は「まだ」を三度繰り返した。
一度目は事実。
二度目は確認。
三度目は——
予告だ。
ガルドの拳が白くなっている。
ナーガの指が震えている。
ジークの手が柄から離れない。
ラピスだけが——ゼノスの目をまっすぐ見ている。
硝子の向こうの光を読むように。
(この街に来たのは、正しかったのか)
腹の蛇が、しゅう、と舌を出した。
飲み込めるか分からない。
でも——来てしまった。
森を三日歩いて、モンスターの咆哮を聞いて、焦げた空気を吸って、辿り着いた。
引き返すつもりはない。
「ゼノス」
「何かな」
「案内して。この街のこと、全部聞かせてもらうわ」
「全部? 長くなるよ」
「構わない。——私、食べるのは得意だから」
ゼノスが、目を細めた。
「……やっぱり、面白いね。君」
「褒め言葉として受け取っておくわ。サンプルよりはマシだもの」
灰色の街。
銀の天才。
壊れた門の向こうから、やがて来るもの。
お腹が——鳴った。
不味い予感がする。
でも、それでも。
食べるしかない。
ちょっとお腹の例えが多くて消化不良になるから、ここぞというところで出してほしいかな
森を抜けたら、もっと厄介な場所でした。
壊れた門、灰色の街、壁を走る魔法陣。
三日かけて辿り着いた学術都市は、想像していたものとは全く違う姿をしていました。
そして新キャラ、ゼノス。
アナの暴食を三秒で見抜いて「サンプル」呼ばわり。
悪気がゼロなのが一番厄介です。ラピスと並べると鏡像に見える
——けれど、温度だけが決定的に違う。
そんな彼が一体、何をしているのか。
次回更新は4/5(日)を予定しております。




