第35話:赤い眼の咆哮
本当に強い奴は、腕を組んだまま戦場を見ている。
ラピスは歩きながら魔導書を読んでいた。
宝石国を出てから、ずっとそうだ。荷物の半分が本。ジークが呆れるほどに。
「また読んでるの」
「うん。面白いんだ、魔法って」
難解な魔導書を「面白い」で片付ける天才は厄介だ。
おかげで索敵陣も拘束陣も使えるようになっている。
教わったわけでもないのに、読んだだけで。
(……この子の吸収力は、私の暴食より質が悪いわね)
森に入って、二日目の朝だった。
空気が変わった。
湿った土の匂いに、鉄錆のような何かが混じっている。
「ナーガ」
「……うん。何かいる」
ナーガが目を閉じた。
いつもの三秒——ではなかった。
五秒。十秒。
「……おかしい」
「何が」
「気配が——揺れてる。怒ってる、みたいな」
「怒ってる?」
「動物たちが、何かにすごく怒ってる」
その瞬間、木々が揺れた。
***
出てきたのは、大角鹿だった。
通常は草食。人を襲わない。
森の臆病者。
——のはずだった。
目が、赤かった。
瞳じゃない。白目の部分まで、べったりと赤い。
口の端から泡を吹いている。
角を下げて、こちらを見ている。
なぜかモンスター化している。
「……大角鹿だろ。こいつは本来——」
ガルドが、言い終わる前に突進してきた。
速い。
草食のそれじゃない。肉食獣の加速。
「散れ!」
ジークが叫んだ。
全員が左右に飛ぶ。
大角鹿が、ジークのいた場所を貫いた。
地面が抉れる。角が土に刺さり、引き抜く。
振り返る。赤い目が、私を捉えた。
迷わず影を発動させようとした。
「嬢ちゃん」
ガルドが、木に背をもたれた。
腕を組んでいる。
私たちと同じ空間にいるのに全く違う空気をまとっている。
「衝撃波と体術だけで戦え。捕食は使うな」
「……今、言う?」
「今だから言う」
「暴食を使えば一瞬で終わるわ」
「だから使うな」
「理由は」
「食って覚えた力を、食わずに使えるようになれ。じゃなきゃ一生食い続けるだけだ」
(……癪だけど、正論ね)
大角鹿が、再び突進の体勢に入る。
「ジーク」
「はい」
「前を頼むわ」
「承知しました」
ジークが抜剣した。
***
ジークが前に出る。
剣を構える。間合いを測る。
大角鹿が突進した。
ジークが横に跳んで、角の付け根を狙う。
斬った。
——浅い。
毛皮が異常に硬い。通常の大角鹿の三倍は厚い。
「硬い……!」
「ラピス!」
「うん」
ラピスが魔法陣を展開した。
地面に光の紋様が走る。
大角鹿の足元——拘束陣。
足が止まった。二秒。
「今よ」
私は右手を上げた。
振動を溜める。指先に集中する。
——放った。
衝撃波が飛んだ。
大角鹿に当たった。
当たった——が。
「っ——」
怯んだだけだった。
バロッサの衝撃波なら吹き飛ばしていた。
私のそれは——押し返しただけ。
(足りない。全然足りない)
ラピスの拘束が切れた。
大角鹿が暴れる。
角が横薙ぎに振られた。
「ナーガ、下がって!」
ナーガが転がるように避けた。
でも——枝が腕を掠めた。
赤い線が、ナーガの腕に走る。
「ナーガ!」
「大丈夫——大丈夫。自分で治す」
ナーガが自分の腕に手を当てた。
光——が、出ない。
いや、出ている。でも、弱い。
クロッサードの時の半分もない。
「……なんで」
ナーガの声が、震えた。
「あの時はできたのに——なんで」
手のひらが、蜃気楼みたいに揺れている。
力が定まらない。形にならない。
「あの時は必死だったから……でも、今は——」
「ナーガ、下がれ」
ジークが、ナーガの前に立った。
剣を構え直す。
大角鹿が再び突進する。
ジークが受け止めた。
剣と角がぶつかる。火花が散る。
押されている。ラピスがもう一度拘束陣を張る。
私がもう一度衝撃波を放つ。
当たる。怯む。でも——倒れない。
三度目の突進。
今度はラピスを狙った。
「ラピス——!」
ラピスが後ろに飛ぶ。
間に合わない。角が迫る。
骨の一、二本では足りないだろう。
その刹那。
轟音。
大角鹿が、横に吹き飛んだ。
十メートル。で足りるだろか。
木を三本なぎ倒して、止まっていた。
動かない。
土煙の奥に立っていたガルドが、拳を下ろした。
木にもたれていた姿勢から、一歩も動いていなかった。
ただ——右拳を、一度だけ振っただけ。
衝撃波。
桁が、違った。
私のそれとは——何もかもが、違った。
***
静寂。
森に、鳥の声が戻ってくる。
「……一発」
ジークが、呟いた。
「一発ですか」
「一発だ」
ガルドが、拳を開いて指を振った。
何でもないように。
「ガルドさん、すごい……」
ナーガが、目を丸くしている。
「すごくない。嬢ちゃんのが十発分詰まってるだけだ」
「つまり、十倍すごい」
「算数の話はしてない」
ラピスが、大角鹿を見ていた。
「ねえ——この鹿、泡を吹いてる」
全員が、倒れた大角鹿を見た。
口から白い泡。
赤い目はまだ充血している。
そして——体中に、赤黒い紋様が浮かんでいた。
魔法陣。
外部から刻まれた、魔法の痕跡。
「……誰かが、こいつを凶暴化させてる」
ガルドが、膝をついて紋様を見た。
「俺はこの街道を何度も通ってる。大角鹿がこんなになるのは——普通じゃない」
「魔法で凶暴化?」
「ラピス、この紋様に見覚えは?」
ラピスが、しゃがんで紋様を見た。
魔導書と見比べながら、目が、光を読むように細まった。
「……増幅陣。魔力を無理やり流し込んで、本能を暴走させる術式だね」
「誰がこんなことを」
「分からない。でも——術式の精度が高い。素人じゃない」
全員が黙った。
風が吹いた。生温く、肌にまとわりつく風。
アルカナスの方角から。
「……嬢ちゃん」
「何」
「この先——面倒なことになるぞ」
「でしょうね」
私は、自分の右手を見た。
さっきの衝撃波。三発打って、一頭も倒せなかった。
ガルドは一発で終わらせた。
(足りない。制御も、威力も、全然足りない)
そして——
(やっぱりアルカナスが必要ね)
ガルドを見た。
腕を組んで、何食わぬ顔で立っている。
(……計算してたのかしら、あの男)
最初からこうなると分かっていて、アルカナスを提案した?
私が自分の力不足を痛感するまで、黙って待っていた?
(……本当に、食えない男)
癪だ。
癪だけど——
「急ぎましょう」
私は、前を向いた。
「アルカナスまで、あと何日?」
「歩きなら四日だ」
「三日で着くわ」
「寝ないのか」
「寝るわよ。ただし——歩く速度を上げるの」
ガルドが、短く笑った。
「いい判断だ」
「あなたに言われたくないわ」
森の奥から、また何かの咆哮が聞こえた。
遠い。でも確かに——赤い目の獣が、まだいる。
この森だけじゃない。
アルカナスに近づくほど、
何かが壊れて始めるのに気付く日はそう遠くなかった。
ここからは戦闘シーン多めで行きます。
ガルドの一撃に比べに物足りない4人。
それぞれの課題が見えてきたモンスター戦。
このままでは帝国に仕返しをするなんて、夢のまた夢です。
さらに、モンスターの凶暴化。大角鹿の体に刻まれた増幅陣。
誰かが、意図的にやっているのですが、一体何のために。
アルカナスまであと三日。何が待っているのか——次回をお楽しみに。
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