第四章「自由港クロッサード編」(第28話〜第34話)まとめ
金と拳だけが法律の街。
それが、自由港クロッサードだった。
商船、漁船、そして堂々と停泊する海賊船。
国家を名乗らず、王も法もない。あるのは力と金だけ。
アナたち四人が街に足を踏み入れた瞬間、男たちに囲まれた。
「見ない顔だな。通行税、知ってるか?」
「銀貨十枚だ。一人頭な」
「別の払い方もあるぜ? 赤毛の嬢ちゃん」
海賊ギルド《黒潮》の構成員。この街で安全に歩くための「対価」を要求してくる。
面倒ね——と思った瞬間。
横から巨体が割り込んできた。
「はーっはっは! 朝っぱらからガキに絡んでんじゃねえよ、ボケ共!」
三人を一瞬で叩き伏せる。倒した相手の懐から金をくすね、振り向きもせずに言った。
「おう、ガキども。怪我ねえか?」
大柄。傷だらけ。目つきが悪い。
「何者って——見りゃわかんだろ。通りすがりの善良な市民だ」
善良な市民は、人を殴って金を奪ったりしない。
ガルド。
元《黒潮》の船長。今はどこにも属さない、根なし草の男。
ナーガを見て言った。「へえ。砂漠の嬢ちゃんか。いい目してんな」
「ガルドだ。——覚えなくていいぜ、どうせすぐ忘れる」
「報酬は?」とアナが聞いた。
「メシだ。腹が減ってんだよ」
連れて行かれたのは、路地裏の小さな海鮮食堂だった。
看板もない。椅子はガタガタ。壁は塩と油で黒ずんでいる。でも魚の焼ける匂いだけは、本物だった。
「見た目で判断すんなよ。メシは舌で食うもんだ」
ガルドは顔パスで奥の席に通された。店主の親父が何も言わず、焼き魚を出す。
常連——というより、家族のような距離感。
「ここの親父に拾われたんだ。ガキの頃、路地で飢えてた時に」
ガルドはそれだけ言って、黙々と魚を食った。
感謝の言葉は言わない。「ありがとう」も「ごめん」も、この男の辞書にはない。
でも——毎日この店に来ること自体が、返答なんだろう。
アナは見ていた。この男の所作を。食べ方を。目の動きを。
(……父親みたいな男ね)
口には出さない。死んでも言わない。
でもそう感じてしまった自分に、少しだけ苛立った。
クロッサードは安全な場所じゃなかった。
アナの首には、帝国からの懸賞金がかかっている。金貨五百枚。
《黒潮》のギルド長バロッサの元に、手配書が届いていた。
バロッサ。がっしり体型。全身傷跡。左目に眼帯。
ガルドの元上司にして、この街を裏から支配する男。
帝国と裏で繋がり、アナの情報を受け取っている。
だがバロッサは、アナを売る気はなかった。
興味があったのだ。帝国が恐れる皇女とは、どれほどの化け物なのかと。
ガルドが一行を守った。
夜通し宿の入口で壁にもたれ、太い腕を組んで見張りを続けた。目は閉じているように見えて——閉じていない。夜中に五つの気配を、音もなく追い払った。
ナーガが聞いた。「ガルドさん、なんで毎朝いるの?」
「飯が美味いからだ」
嘘だ。この男は嘘をつく時、目を逸らす。
「いつの間にかいる人間が、いつの間にか必要になる」——それがガルドだった。
腹立たしいのに、追い出せない。追い出したくない自分にまた苛立つ。
ガルドが地図を広げた。
「昨日の連中は《黒潮》の下っ端だ。様子見。本命はまだ動いてねえ」
帝国との窓口を担う《錨のドレイク》という男がいる。左腕に錨の刺青を持つ、バロッサの側近。そいつが動いた時が、本番だ。
夜。焚き火を囲んで、ガルドが言った。
「後悔ってのは、やらなかった奴がするもんだ。やった奴は——前に進むしかねえんだよ」
誰に向けた言葉かは、わからない。
でもジークの胸には刺さった。城門で言えなかった言葉のことを、まだ引きずっていたから。
ラピスの胸にも刺さった。二十歳で即位する重さを、毎日噛み締めているから。
ナーガがガルドの手相を取った。
「あなたの中に、守れなかった誰かがいるね」
ガルドは黙った。
長い沈黙の後、ぽつりと言った。
「弱い奴のそばにいたら、強くなるしかねえだろ」
それ以上は語らなかった。
ガルドの過去——盲目の弟のこと。傭兵国グラディウスのこと。弟を「足手まとい」と切り離した戦友ヴォルフのこと。「お兄ちゃん頑張ってね」という最後の言葉——それはまだ、誰にも明かされていない。
《黒潮》が動いた。
港が封鎖された。バロッサが三隻の船で逃げ道を塞ぎ、直接アナたちの前に現れた。十二人の部下を従え、自らも武装している。
ガルドが前に出た。
「久しぶりだなガルド。まだ生きてたか」
「死んだらお前に報告しねえよ」
「で、帝国の皇女を匿って——どうするつもりだ」
「どうもしねえ。ただついてくだけだ」
バロッサの剣がガルドの肩を深く抉った。肩の付け根から肘まで。深い。
だがガルドは退かなかった。
「女と子供を売る商売に加担するのは——俺の流儀に合わねえんだよ」
バロッサは笑った。怒りじゃない。どこか——懐かしそうに。
かつての部下が、自分の流儀を貫いている。それが嬉しかったのかもしれない。
「夜明けまでに出口を見つけろ」
猶予を与えた。殺す気はあった。でも——殺したくなかったのだ。
ガルドが古い水路への脱出ルートを示した。
暗い。狭い。臭い。だが追手は入ってこない。
「通れるって言ったわよね」
「通れるとは言った」
「通れるのと、耐えられるかは別の話よ」
「そんなもん誤差の範囲だろう」
その夜。ナーガの手が光った。
傷ついたガルドの腕に触れた瞬間、傷が塞がり始めた。
治癒能力の覚醒。
ナーガ自身も何が起きたのかわかっていない。
「わかんない」
「でも——できた」
コツは掴めていない。感情が能力に直結するタイプ。目の前で血を流す人を放っておけなかった。ただ、それだけ。
水路を抜けた先に、六人の帝国兵と——「もっと大きい何か」が待っていた。
「アナスタシア第一皇女、お迎えに上がりました。帝国近衛第一師団、参謀補佐のカリナ・ヴォルツと申します」
三十代。黒髪を後ろで束ねた軍服姿。氷のような目。
帝国が本格的に動き出した証拠だった。
そしてバロッサが背後から現れた。
衝撃波。バロッサの切り札。空気を震わせ、地面を割り、すべてを薙ぎ払う力。
アナが前に出た。
両腕を広げ、衝撃波を——迎えに行った。
影が蠢く。黒い蛇がバロッサの衝撃波を丸ごと飲み込んだ。
「……喰った。俺の衝撃波を——喰った」
そしてアナの手のひらから——同じ衝撃波が放たれた。
帝国兵が吹き飛ぶ。カリナの目が見開かれる。
「使ってあげる。来なさい」
「思ったより——美味しかった」
衝撃波放出。暴食アナコンダの新スキル。
ただし練度は低い。十メートルで霧散する。まだ使い物にならない。
だがバロッサは笑った。今まで見たどの表情より、嬉しそうに。
「なあ、もう一度戦えるか」
「今はもう無理よ」
「いつなら」
「強くなってから」
「いつだ」
「あなたが帝国に売られない限り、生きてるうちにまた会うわ」
「お前は今いくつだ」
「十六よ」
「それなら四年待とう」
敵だが——筋が通っている男だった。
バロッサは去り際、ガルドに声をかけた。
「ガルド、いい仲間だ」
ガルドは何も言わなかった。いつも通り。
カリナ・ヴォルツは即座に全力で撤退した。
帝都への報告書にはこう記された。
「捕獲は推奨しません」
帝国は、アナを「逃げた皇女」ではなく「脅威」として再認識した。
クロッサードを去る日。
ガルドが言った。
「嬢ちゃんたちに、付いて行ってやろうと思ってな」
「暇なの?」
「暇じゃねえ。ただ、この国でやることもなくなった」
その前に、ガルドは一人で港に降りた。
あの海鮮食堂。看板のない店。ガタガタの椅子。
扉は叩かなかった。
月光の中、店の戸口の隙間に——何年分もの食事代に相当する金貨を、そっと差し込んだ。
親父は出てこなかった。
出てこなくていい。言葉にしたら汚れる。
そういう別れ方を、この男は選んだ。
アナたちと合流し、南東への街道を歩き始める。
五人。
テントが足りなかった。
四人用のテントに五人。ガルドは「外で寝る」と言った。
「何してるの」
「外で寝るわ。あなたが外なら、私も外よ」
「ガキじゃねえか。風邪引くぞ」
「あなたが外に出るなら、私も出る。それだけよ」
ジーク。「止められません」
ナーガ。「アナが外で寝るなら、私も外で寝るよ」
ラピス。「僕も」
ガルドが折れた。
「わかった。テントに入る」
五人でぎゅうぎゅうに押し込まれた。
誰かの肘が誰かの脇腹に刺さり、誰かの足が誰かの顔にかかった。
翌朝。
「首が」「腰が」「肩が」「全部だ」
ガルドだけが「誤差の範囲内だ」と平然としていた。
「テントを買え。もう一張り」
「却下。荷物が増えるわ」
——結局、次の街で一回り大きいやつを買った。
五人用のテント。
このテントが、いつか伏線になる。
「広くて寒い」と感じる日が来ることを、今はまだ、誰も知らない。
丘の上で、ガルドが足を止めた。
一瞬だけ、港の方角を振り返った。
何を思ったのかは、語らなかった。
ナーガが何も言わず、隣に並んで歩いた。
アナは思った。
(くだらない賭けのペースに乗せて、全員を丸め込む大人。皇女として育てられた環境にはなかった「距離感」を持つ男。父親みたい——誰かのために強くあろうとして、結局自分が一番不器用な——)
口には出さない。死んでも言わない。
クロッサードの空は、紺碧だった。
群青とは違う。嵐を呑んだ海がそのまま空になったような、猛々しくて深い青。
ガルドの色だ、とアナは思った。
ガルドが歩き出す。
「お前の衝撃波、十メートルで霧散してたぞ。話にならねえ」
次の目的地は、魔導皇都アルカナス。南東の魔法学都市。
アナの力を磨く場所だ。
五人の足音が、街道に響く。
紺碧の空は、どこまでも続いていた。
たった一つ足音が増えただけなのに、道が少しだけ賑やかになった。
テントが少しだけ狭くなったように。
——まだ、失うものは何もないと思っていた。
▶ 第四章のキーワード
ガルド——元《黒潮》船長。傷だらけの大男。「ありがとう」「ごめん」を絶対に言わない。感情は行動と目だけで語る。飯屋の親父への金貨が、この男の全てを物語る。
バロッサ——《黒潮》ギルド長。敵だが筋が通っている。アナに四年後の再戦を約束した男。ガルドに「いい仲間だ」と言える男。
衝撃波放出——バロッサから捕食した新スキル。十メートルで霧散する未完成品。アルカナスでの修行が必要。
ナーガの治癒覚醒——ガルドの傷に触れた瞬間に発動。「わかんない。でも——できた」。感情と能力が直結するが、制御はまだ遠い。
テント——四人用から五人用に買い替える。この伏線が回収される時——覚悟しておけ。
紺碧——クロッサードの空の色。ガルドの色。嵐を呑んだ海がそのまま空になったような青。
「捕獲は推奨しません」——帝国がアナを「脅威」として再認識した転換点。もう逃げた皇女じゃない。
▶ 次章予告
魔導皇都アルカナス。魔法理論の聖地にして、今まさに侵略の火が迫る街。
そこで待つのは、ラピスと同じ美しさを持ちながら出口が真逆の——銀髪の天才。
そしてガルドの過去が、追いかけてくる。




