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9月7日 2ヶ月2週 その2


 差し出されたお茶は、正直ほとんどお湯と変わらない、味気ないものでした。

 いえ、きちんと色と味はついているようです。

 ですが、一度聖良さんのお茶を味わってしまった私は、それ以外のお茶では満足できない鼻と舌になってしまったようなのです。

 あの、一口含むだけで体の中に風が通り抜ける爽快感。

 全身を包み込む芳香。

 あれは、聖良さんにしか出せない物だとしみじみ感じました。

 お茶を飲んでいる間中、凪さんの視線は私に……いえ、私のお腹に注がれていました。

 なんだか目の遣り所がなくて、部屋中に視線を彷徨わせます。

 と、私の視線がデスクの上の写真立てに引き寄せられました。

 そこには、以前見たのと同じく凪さんに似た風貌をした女性の写真が飾られていました。

 曇りのない笑顔をこちらに向けています。

「……これは、凪さんですか?」

 写真を指差して思わず尋ねた私を凪さんはまじまじと見つめて。

「ぷふーっ」

 拭き出しました。

「ど、どうしましたか?」

「自分の部屋に自分自身の写真を飾るって……私はどれだけ自分大好きなんですか」

「では、この方は一体?」

「さすがの夢さんでも知っているでしょう。この人は――那、いえ、『お母さん』です」

「……『お母さん』!」

 思わず写真立てを手に取ってまじまじとその方を眺めました。

 そんな私を凪さんは面白そうに見ています。

「それじゃあ夢さん、分かるかしら? 何故、この人が『お母さん』と呼ばれているのかを」

「はい!」

 思わず今の状況も忘れ返事をしました。

「『お母さん』は、今ここにいる全ての人間の『母』なのですよね」

 本のこと以外は疎い私でもさすがにそれはよく存じているのです。


 『お母さん』。

 現代過去未来あらゆる時代を覗いてみても、この方以上に人類の存続にとって最も特殊かつ重要な役割を担っていた方は存在しないでしょう。


 この世界の人類が子供を作ることを放棄してしまってから長い永い時が過ぎました。

 人間に生殖能力がなくなり、やがて、女性は子供の元となる『卵』を供給できなくなってしまいました。

 その体に、卵を製造する卵巣という器官すら持たなくなってしまったのです。

 こうなってしまってはもうお手上げです。

 卵以外の細胞から受精卵を作るという研究は失われて久しく、人類は、今までに採取された凍結受精卵を使用し少しずつ子供を産みだしてきました。

 しかしそれが尽きてしまえばとうとう人類は滅亡の時を迎えてしまいます。

 その、直前になって。

 人類に遣わされた最後の希望、それが『お母さん』だったのです。

 それは、人口子宮の中の胎児の頃に判明し、全世界から熱狂を持って迎えられました。

 まだまだ小さい胎児だった彼女のお腹の中に、卵巣が確認されたのです。

 胎児が成長するに従って、その全貌も明らかになってきました。

 卵巣の中には、ちゃんと卵の元となる卵胞も存在しました。

 その数、およそ200万個。

 かつて、一般の女性が所持していた卵の量と同数です。

 しかし、卵胞は人が生まれ落ちた途端、成長するに従って数万単位で減少していくものなのです。

 ――それは、あまりにも勿体ない。

 深刻な卵不足に陥っていた人々は、それをよしとはしませんでした。

 まだ胎児だった『お母さん』から、卵の元となる卵胞が採取されていきました。

 それはすぐ卵へ、そして受精卵へと進化させられ、やがてその卵から子供が生まれるのに時間はかかりませんでした。

 『お母さん』はこの世に生れ落ちる前、胎児の頃から『お母さん』になったのです。

 やがて、全世界の卵は全て『お母さん』のものが使用されるようになりました。

 ――つまり、今この世界にいる全ての人物の母親、それが『お母さん』なのです。


「よくできましたー」

 私の解答に、凪さんがぱちぱちと手を叩いてくれました。

「それで、その『お母さん』の写真が何故ここに?」

「那……『お母さん』は、私のお母さんであり……子供の頃からの友人だったのよ」

「おお……!」

 驚きの御縁。

「彼女は、小さなころから大切に大切に育てられ、何度も病院に行っては卵を採取されていてね。最初は何故だか分からなかったけど、事情を聞いてすぐ納得したわ」

「そうなんですかー」

 しかし、『お母さん』が凪さんと年がそんなに変わらないということでしたら、ひとつ疑問が湧いてきます。

「そ、その『お母さん』は、どのような御方だったのでしょう?」

 今はもう亡くなって久しいと聞いている、その『お母さん』。

 どんな方なのか、俄然興味が湧いてきました。

 私の質問に、凪さんは懐かしそうに語ってくださいました。

「愛を、持っていた」

「愛、を……」

「そう。当時はよく分からなかったけど、今思い返してみれば間違いないわ。彼女は、私達……全ての子供を愛していた。不思議よね。私たちとほとんど年は変わらないのに、彼女は私たちの『お母さん』なのよ」

 成程、確かに言われてみればとても不思議な存在です。

「彼女はよく言っていたわ。『愛がなくなったら、私は死んでしまう』って。その言葉に嘘はなかったみたいね」

「そう、ですね」

 だから、愛を失った人類……お母さんの子供たちは今まさに全滅の危機を迎えているというのでしょうか。

「だから『産屋』を作ったの」

 私の心を完全に読み切ったかのように、凪さんは自信たっぷりに語りました。

「『お母さん』の子供が死んでいくのなら、私が、私達が産まなければ。愛をもって」

「愛……私達に『愛』があるのですか?」

 思わず質問してしまって、あっと口を押えました。

 凪さんの愛は疑う所はありません。

 でも、産屋に集められた私は、私達は……

 未だにお腹の中の子供を実感できない私には、愛を感じる資格があるのでしょうか。

 でも、それを当の凪さんに言うべきではありませんでした。

 まさに今、子供を授かっている私が……

「大丈夫よ」

 それでも凪さんは優しく笑うと、請け合ってくれました。

「もしも人が井戸……穴に落ちそうになったのを見かけても、この世界の人はきっと助けない。でも……それが赤ちゃんなら、あなた達はきっと助ける筈よ」

「何故……ですか?」

「その時になってみれば分かるわよ」

 性善説――孟子の一節を引き合いに出した凪さんの説明。

 ですが、やはりそれすぐに実感することはできませんでした。

「それにね……」

 凪さんは、私を、いえ、私のお腹を見ながら続けます。

 これで最後だよとでもいうように。

「彼女も、旧感覚者オルダスタジアだったのよ。嗅覚を、持っていたわ」

「嗅覚を……」

 私や、聖良さんと同じ。

 私がここ『産屋』にフリーパスで入れた理由がなんとなく分かったような気がしました。

「あの、凪さん」

「……それで、体の方は大丈夫なの?」

「あ」

 もっと色々と質問しようとした私に凪さんが尋ねます。

 だから私は、『お母さん』の話題が終わったことを悟りました。

 そして今から、私自身の本題に入ろうとしていることも。

 凪さんは、私がここに来た理由をうすうす理解しているのではないでしょうか。

 私が今抱えている、妊娠への懸念。

「実は――」

 しばらく味のないお茶を口に運んだ後、黙って私を見ている凪さんにやっと本題を切り出しました。

 凪さんは笑顔のまま、それに耳を傾けていました。

 が、終わった途端に真剣な表情になり、がしりと私の手を掴んだのです。

「――大丈夫。ええ、全然大丈夫。なんとしてでも、私たちの子供を、生み出してあげましょう」

「私、たちの子供を……」

 ぎりぎりまで接近した凪さんからは、以前と同じような香り……視覚も嗅覚も閉ざされてしまいそうな甘い香りが微かに漂ってきました。

 そのまま凪さんは、私を再び横抱っこで持ち上げます。

「那美は、『お母さん』は言っていたわ。『愛が無くなった時、私は死ぬ』って。だから――愛さえあれば、命は続くのよ」


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