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第1話 深淵の水魔㉒

「もうやめて。これ以上戦う必要はないわ」

「どけ。それはオレが決めることだ」


レヴィアタンの背後では海水が槍上に変形していく。


「いいえ。アーサー様もおっしゃるように、もう終わりです」


しかしニルプはそれに臆することもなくかぶりを振る。


「あの時オレは確かに傷ついてた。でも、今は違う。もう傷は癒えた。癒えてるはずなんだ。いつまでも痛いふりはしてられねえんだよ!」

「でもまだ痛むでしょう?辛いでしょう?立ち上がれても、動けばまたきっと傷が開くわ」

「やめろ。オレが身動きを取れなくなったのはお前のせいだ。お前の言葉が、オレにまとわりついて…」


レヴィアタンは一瞬、じっと彼の顔を正視するニルプの視線に押し負けたように彼女の顔から目を逸らした。

その瞬間が来るのを悟っていたかのようにニルプはレヴィアタンとの距離を詰め。彼の両手を握る。

手を掴まれた瞬間レヴィアタンは身を引いたがニルプはその分さらに身を寄せる。


「わたくしがあなたに負担を掛けていたの?わたくしはあの日からずっとあなたの望むことを望まれるままにしてきました」

「違う。お前はただ善意で尽くしてくれただけ…甘えてたのはオレだ」

「そんなこと言わないで。わたくしはあなたに頼ってもらえるのが嬉しくてやっていたのよ」


レヴィアタンの関心がニルプに行った今がチャンスだと思った僕はノラに目配せをする。

が、僕の目配せを受けたノラは首を傾げる。とことん以心伝心ができない。

僕は目を合わせたまま下に散らばっている切っ先の一つを指差し、続けてその指を明後日の方向に向ける。

今度は合点がいったという風に頷き、ノラは手の平をこちらに向ける。文字通り瞬く間に足元の切っ先は消え失せた。

ひとまず安全を確保できたことに胸を撫で下ろしつつ、再びレヴィアタンとニルプの方へ目を向けると彼らはまだ語り合っている最中だった。


「でもオレはあんなの納得しねえぞ!オレは元のオレに戻ったっていう証明ができるような勝ち方以外は、勝ったとは思わねえ!」

「ええ。その通りよ。あなたは勝っていない」


レヴィアタンは絶句していた。逆に僕は声が出てしまいそうだった。ニルプからの言葉が予想を大きく裏切るものだったからだ。


「あなたは負けたのよ。アーサー様は気を遣ってああおっしゃっただけ。あなたはまだ、戦えるほど回復していなかったということ」

「違う!それが違うって今から証明してやるって言ってるんだ!」

「駄目よ。ここまであなたはまだ一度も相手に攻撃を与えることができていないでしょ?」

「だからここからはオレが」

「駄目よ。水を使うと爆発する爆弾があるのよ」


そこにもう彼女の言う爆弾はなかったが、ニルプは視線を足元に落とした。


「パティさんが水を撒く道具を持っているとのこと。爆発させない自身はありますか?」

「分からねえよ。やってみねえと分からねえだろうが!できるかどうか、オレにやらせろ」

「駄目よ。あなたはまた傷つきます」

「失敗しても痛い思いをするのはオレだ。だから構うな」

「駄目よ。本当にそう思っているのですか?またあの時のようにわたくし達に危害が及ばないと。どうして言えるのですか?」


ニルプはレヴィアタンの手を握っていた手を放し、その手でレヴィアタンの両頬を包む。


「頼む。戦わせてくれ」

「駄目よ」

「オレはまだやれるんだ」

「駄目よ」

「やらせてくれ。負けたくない」

「駄目よ」

「勝てるんだ。今度こそは。オレが」

「駄目よ」


ニルプはその言葉を、レヴィアタンの脳に丹念に塗り込んでいく。

もうレヴィアタンは言葉を紡ぐのを止めてしまった。やがてニルプの手から魔力がにじみ出はじめ、レヴィアタンの瞼は彼の目を覆った。

レヴィアタンの操作していた海水はコントロールを失って地面に叩きつけられる。

上がったしぶきはレヴィアタンの背を濡らし、ニルプの頬を伝い落ちる。


「ごめんなさい。あなたの望むことならなんでもさせてあげるつもりだった。でも…でも、それであなたがわたくしから離れるかもしれない。わたくしは、そんなこと…絶対に許さない…」


崩れ落ちるレヴィアタンの体躯を受け止めながら、赤子を寝かしつけるように彼の頭を撫でる。


「でももう大丈夫。もう二度とこんな思いはさせません。ずっと、ずうっと、わたくしが守ってあげますからね」


レヴィアタンの体はニルプの呼んだニクス達に運ばれていった。その光景をただ茫然と見送っていた僕を現実に引き戻したのはノラだった。


「起きてる?」


僕の目の前で手を振る。まつげが彼女の手に触れようかという至近距離で振られた手に否が応でも僕の背はのけぞる。


「立ちながら眠れるほど僕の体幹は鍛えられてないよ」

「でしょうね」


振り返るとヘルメットを脱ぎ脇に抱えたオスカーとパティがいた。


「我々は、勝ったのか?」


オスカーは曇った表情で僕に問いかける。


「いや、ニルプはそう言ってたけど、君たちの負けだよ」


しかし僕は辛辣とも思える言葉を返す。何もしない奴がよく言えたものだと我ながら思う。


「いや、レヴィアタンからの反撃を許さずに終始君達のペースで戦闘を運べたのは良かったと思う」


レヴィアタンが弱体化し、かつ精神的に不安定だったとしてもそれが評価に値することであるという事実は揺るぎない。


「でも最後のあれ。あの切っ先は何でできていたんだ?」

「純粋な金属ナトリウムを水に溶ける物質でコーティングしたものだ」

「やっぱりナトリウムか…」

「魔力を併用することで塩化ナトリウムの電気分解がより簡単になったのだ」

「ああ、いや。それ自体はいいんだけど、さっきばらまいたナトリウム全部が水と反応を起こすとどうなるか分かるか?」


パティは俯いて少し考え、やがて口を開く。


「その熱量は凄まじいものになるだろう。それに、あのサイズのナトリウム片ならば一度で反応しきらずに飛んだ破片による2次的な攻撃も…」

「ま、待て。まあ色々起こるんだよな。でも僕が問題視しているのはその後だ」

「あと?」

「そう。金属ナトリウムが水と反応した後、その水はどうなる?」

「…水酸化ナトリウム水溶液になると考えられる」


その通り。水酸化ナトリウムは強塩基性の液体でたんぱく質、つまり肉を溶かす性質を持つ。一滴でも目に入れば失明の恐れがあるほど危険な物質だ。


「お前たちが撒いたナトリウムが全部それになったら、そしてそれが海に流れでもしたら、取り返しがつかないことになるというのは分かるよな?」

「…はい」


パティがしぼんでいく。自分が引き起こしかけた水質汚染にすっかり委縮してしまっている。


「いや、もちろんパティに悪意がなかったっていうのは分かってるつもりだよ」

「…はい」

「それでもそういうリスクがある手を選んだ、選ばざるを得なかったっていうのは、仮に決闘に勝っても勝利とは言えない」


決闘だからと言って何をしてもいいというわけではないのだ。


「王よ。どうかパティにもう一度チャンスをやってくれないか」

「え?いや、もう一度って言っても多分レヴィアタンと戦うのはもう…」

「否。そうではなく、後片付けのことだ。俺たちのせいで汚染物質が発生したというのであれば俺たちがそれを処理するのが道理」

「ああ、そういうことか。そうだな。任せていいか?」


パティは伏せていた目を起こし、力強く、はい。と答え、レジスタンスに着いたチャック式のポケットからいつも使っている端末を取り出し、表面をなぞった。


「今、城から必要なオートマトンを呼びまし…呼んだのだ。皆はなるべく水たまりを避けて水魔城の中へ避難してくれ」

「ああ、分かった」


実をいうと後処理自体はノラに任せてもいいかと思ってたんだが、しかしやる気になったパティ達に水を差すのも悪い。このまま任せるとしよう。


「あれ?ニルプは?」


ふと、ニルプがいなくなっていることに気付く。


「彼女なら城の中に入っていったわよ」

「そうか。気が付かなかった」


ニルプと話したいことがあったのに。いや、それはこんな誰に聞かれているかも分からないところでできる話ではなかったから結局は同じことか。


「ノラ。ニルプが今どこにいるか分かったりするか?」

「ええ。彼女の魔力を一度この目で見たからね。今の私なら分かったりするわ」

「じゃあ…」

「それよりここから離れた方がいいんじゃない?パティの邪魔しちゃ悪いでしょ」

「ああ、そうだな」


言った直後に僕の視界は歪められ、城の一角、見たことも無い場所にノラと一緒に飛んでいた。


「ここは?」

「さっき自分で言ってたじゃない。ニルプのいるところよ」


言われて僕はあたりを見回す。やはり見覚えのない場所だった。


「あ、ちょっと待ってアーサー。ここ靴脱ぐみたい」


ノラが廊下の向こう側を指差す。そこには2足の靴が並べて置かれていた。

瞬間、僕の足裏にひんやりした感触が走る。僕の足は靴と共に何故か靴下も脱がされて裸足になっていた。

裸足で下り立って初めて床材が木であることに気付く。水魔城はおおよその床材が大理石だった点からもこの場所が城の中でも異質なことが伺える。


「ニルプは目の前の部屋の中にいるわ。私は一緒じゃない方がいいんでしょ」

「ああ。悪いけど」

「いいわよ。終わったら出てきて」

「待っててくれるのか?」

「またあんたが洗脳されそうになったらいけないから」


ノラが僕のことを心配してくれているとは、数千年に一度の奇跡に匹敵する。


「ありがとう」


僕は襖をあけて中へ踏み入った。

後ろ手に襖を閉めながら、僕は部屋の中央に敷かれた布団とそこに身を預ける一組の男女を捉える。


「誰ですか?この部屋には…アーサーさん?」


襖の音に気付いて振り返ったニルプと目があった。彼女は仰向けに横たわるレヴィアタンの長い黒髪をすくように撫で、添い寝をしているところだった。


「ええ。少し話したいことがありまして。2人の空間に土足で踏み入るのは気が引けたんですが」


もっとも、実際の土足は既に脱いである。素足で踏み入るというべきか。こっちの方を嫌がる人もいたりする。


「どうしてでしょうか?ここは普通には決して発見されえない場所ですというのに」

「まあそれは、うちには魔術師がいますから」


それも至極優秀な魔術師が。


「魔術師。…ああ、ノラさんですね。彼女はわたくしもこれまでに見たことがないほどの魔法の使い手ですね。クラーケンの治療も、まるで奇跡を目にしているようでした。レヴィが脅威に感じたのも頷けます」

「脅威?彼がですか?」

「はい」


ニルプは首肯するが、しかしおかしい。レヴィアタンはノラとほとんど何の接点もなかったはず。


「本当にノラなんですか?僕が聞いた話ではレヴィアタンはキレネを見て激怒したという話でしたけど」

「そうなのですか?レヴィは『あの悪魔の女』と申してました。悪魔という印象はキレネさんよりもノラさんの方が似合っていると思いてっきり」


歯に衣着せぬ言い方だ。ご本人は襖を隔てた向こう側にいるというのに。

まあ、同感なんだが。


「少し脇道にそれすぎましたね。本題に入りましょうか」

「どんなお話でしょうか?」

「あなたの正体についてです」

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