第五話:雨の騎士道場破り、そして宿命の魔剣対決
ザーーーーー……。
王都の夜を切り裂くように、激しい大雨が降り注いでいた。
ヤンセン辺境伯城へと続く、広大な大広場。石畳を叩く無数の雨粒の音に混じり、金属の擦れ合う不快な音が四方から響いている。
「ヒャッハー! 本当にたった一人で来やがったぞ、あのクソ盲目のジジイ!」
「マジで片腕にボロ切れ巻いた障害者じゃねえか! 辺境伯様も大層なお触れを出してくれたもんだぜ!」
広場を埋め尽くしていたのは、辺境伯が莫大な私財を投じて集めた、悪徳ギルド『鉄の蠍』の残党を含む総勢五百人の重装私兵団だった。
彼らの纏う魔法鎧は、下町の平民から強欲に毟り取った税で造られたもの。誰も彼もが下劣なニヤつき面を浮かべ、イチを取り囲むように武器をギラつかせている。
「おい、ジジイ! お前の大事なサホちゃんはなぁ、城の奥の檻の中で、今頃恐怖でガタガタ震えてるぜぇ!」
「命乞いするなら今のうちだぞ? もっとも、お前を細切れ肉にしてから、あの女を奴隷鉱山に叩き落とすってのは変わらねえけどな、ケケケッ!」
悪党たちの汚らしい、下品な高笑いが雨音に混じって響き渡る。
――しかし、イチは一歩も立ち止まらない。
その顔には、いつもの飄々とした笑みすら消え失せ、冷徹な『静寂』だけが宿っていた。
ザーーーーー……。
激しく降り注ぐ雨。普通の人間の視界なら、一メートル先すらおぼつかない大豪雨。
だが、イチのカンストした聴覚スキルの前では、この雨こそが『最高の視界』だった。
数千、数万の雨粒が、兵士たちのヘルメットに、魔法鎧の継ぎ目に、握りしめた剣の刃に衝突し、微細な弾跳音を奏でる。
その反響音のすべてが、イチの脳内で超高精細な立体マップとして再構築されていた。
どこに、誰が、どんな武器を構え、どんな呼吸で、どこへ体重を乗せているか――。
五百人の全配置が、髪の毛一本の狂いもなく『見えすぎていた』。
「……いやあ、お兄さん方。雨の音ってのは、本当に心地よいものですな」
イチは静かに、仕込み杖を逆手に握り直した。
「あんたたちの汚ねえ足音も、下劣な呼吸音も……この雨が、すべて綺麗に消してくれますからねぇ」
「あぁあん!? 負け惜しみを言いやがって! 野郎ども、なぶり殺しにしろォ!!」
頭領の合図とともに、前衛の重装歩兵数十人が、地響きを立てて一斉に飛びかかってきた。大剣や戦斧が、雨を切り裂いてイチの脳頭へと迫る。
――カシャ。
刹那、雨音が消えた。
誰も、イチが仕込み杖から刃を抜いた瞬間を見ていない。ただ、夜の闇を黄金に染める、一筋の神速の閃光が走った。
「――が、はっ……!?」
次の瞬間、襲いかかった数十人の兵士たちの魔法鎧が、まるで豆腐のように一瞬で両断された。それだけではない。彼らの皮膚には傷一つつけず、体内の魔力回路だけを正確に寸断し、衝撃波で広場の壁へと叩きつける。
次の一歩を踏み出す間に、さらに百人の暗殺者が死角から肉薄するが――。
「【無刀流・雨穿ち(あまうがち)】」
イチが仕込み杖を逆手のまま、風を切るように一閃する。
降り注ぐ雨粒そのものが、イチの放った神速の剣気によって鋭利な弾丸へと変貌し、暗殺者たちの武器をことごとく粉砕した。衣服と防具だけを綺麗に切り刻まれ、次々と全裸になって泥水の中へ転がっていく悪党たち。
「ひ、ひえええ!? 化け物だ! 触れてもいねえのに、前衛が全滅したぞ!」
「何も見えねえ! どこから斬られたんだ!?」
さっきまでの下劣な笑い声はどこへやら、広場は一瞬にして恐怖の絶叫に包まれた。
イチはただ、コツ、コツ、と仕込み杖を突きながら、静かに歩いているだけだ。彼が歩みを進めるたびに、左右から襲いかかる兵士たちが、血の飛沫(手加減された、戦闘不能にするための最低限の出血)を上げて文字通り『紙切れ』のように吹き飛んでいく。
五百人の軍勢を、たった一人で、歩くだけで壊滅させる。圧倒的な神話級の道場破りだった。
やがて、城の最奥――ヤンセン辺境伯が隠れる玉座の間の、巨大な扉の前へとたどり着いた。
そこには、五百人の死屍累々の最後を締めくくるように、一人の男が静かに立ち塞がっていた。
「……遅かったな、イチ」
漆黒の外套を雨に濡らし、冷徹な魔剣を抜いて待っていたのは、ゲラルトだった。
彼の表情には、居酒屋『カツコマ』で見せたような温かさは一切ない。王宮筆頭騎士としての、冷酷無比な『戦鬼』の顔だった。
「ゲラルトの旦那。……やっぱり、あんたがそこにいるんですな」
イチは仕込み杖を突き、悲しげに目を細めた。
「私は『鉄の蠍』、ひいてはヤンセン辺境伯に高額な魔導薬の代金で雇われた用心棒だ。騎士の端くれとして、どれほど雇い主が下劣な悪党であろうと、受けた義理は通さねえわけにはいかない」
ゲラルトは魔剣を構え、その身から禍々しいほどの漆黒の魔力を立ち上らせた。
「私を倒さねば、この奥へは通さん。……全力で来い、イチ。君のその神速の居合いで、私のすべてを断ってみせろ!」
「……やれやれ。男の義理ってのは、時に美味い酒よりも厄介ですな」
イチは低く身を構えた。仕込み杖を握る左手に、これまでにない濃密な黄金の魔力が収束していく。
激しい雨の中、下町最強の二人が、互いの全てを懸けて対峙した。
「――いくぞ! 【絶技・魔剣十一連撃】!!」
ゲラルトの身体が爆発的な速度で踏み込まれた。
その魔剣から放たれたのは、空間そのものを十一に切り裂く、回避不可能な絶対不可避の乱舞。一撃一撃が都市を破壊するほどの威力を秘めた、天才の極致。
だが、イチは動かない。ただ、雨粒の動きで、ゲラルトの剣の軌道を完璧に『聴いて』いた。
一撃、二撃、三撃――すべてを、仕込み杖の鞘の先端だけでミリ単位で受け流す。
「おおおおおーーーッ!」
ゲラルトの気迫が最高潮に達し、最後の十一撃目、すべての魔力を込めた渾身の大上段が振り下ろされた。
「――そこですな」
カシャッ!!!
世界が静止した。
イチの【神速逆手居合い】が、ゲラルトの十一連撃の『隙』を完璧に捉えて閃いた。
キィィィィィン……!
激しい金属音が響き、ゲラルトの魔剣が手元から弾け飛んで、石畳に突き刺さった。
そして、イチの仕込み杖の刃は、ゲラルトの首筋の寸前でピタリと止まっていた。
「……見事だ、イチ。私の負けだ。……さあ、首を刎ねるがいい」
ゲラルトは満足げに目を閉じ、静かに微笑んだ。
だが、イチはサヤに刃を収めると、ふいっと息を吐いた。
「何言ってるんですか。首を刎ねたら、今夜の飲み友達が一人減っちまうでしょう」
「……何?」
「それより、お兄さん。ちょっと背中を失礼しますよ」
イチはそう言うと、ゲラルトの背後に回り、彼の背中の『魔力経絡』に、今度は全力の魔力制御を込めて、力強くトントンと突きを放った。
「ぐふっ……あ、熱い……!? 何だ、これは……!」
ゲラルトの体内を、イチの純粋な黄金の魔力が駆け巡る。
それは、ゲラルトを長年苦しめていた『魔力逆流症』の根本原因である、体内の壊れた魔力回路を、ミリ単位で再構成し、完全に『新生』させていく神の治癒術だった。
ドス黒い魔力がゲラルトの口から吐き出され、次の瞬間、彼の全身を包んだのは、かつてないほど清らかな、全盛期以上の強大な魔力だった。
「ば、馬鹿な……。病の痛みが、完全に消えた……? 壊れていた魔力回路が、完治しているだと……っ!?」
「これで、高い魔導薬のカネを稼ぐ必要もなくなりましたな」
イチは仕込み杖をコツコツと叩きながら、不敵に笑った。
「あんたの『用心棒としての義理』は、今、俺に敗北したことで完全に清算された。……違いますかい?」
ゲラルトは、自分の再生した体を驚愕の目で見つめ、それから、豪雨の中で不敵に笑う盲目の男を見て、ついに観念したように大笑いした。
「ハハハ……ハハハハハ! まったく、君という男には敵わないな! ああ、そうだ。私の義理はここで終わりだ!」
ゲラルトは床から魔剣を拾い上げると、それをサヤに収め、イチの隣に並んだ。
「これからは、ただの『飲み友達』として、君の掃除を手伝わせてもらおう。……さあ、いこうか。あの下劣な辺境伯に、本当の恐怖を教えてやる時間だ」
「ええ。サホちゃんを待たせると、またエールを奢らされますからねぇ」
最強の二人が揃い、玉座の間の巨大な扉が、今度こそ完全に爆散した。
奥で恐怖に顔を歪ませる悪徳辺境伯への、本当の『ざまぁ』の時間が幕を開ける。




