第十五話:いまさら「戻ってきて」と言われても遅いです
ヤンセン辺境伯の失脚に続き、王立聖騎士団の新団長ボルドーが起こした魔王軍との内通事件は、王都全土に凄まじい衝撃を与えた。
ボルドーが豚小屋の泥沼で全裸のまま生ゴミを投げつけられて完全失脚したのと同時に、彼の不正や下町への弾圧、そして魔王軍に防衛結界の鍵を売り渡そうとしていた全容が王宮へ暴露された。
結果、エリートを気取っていた王立聖騎士団の権威は完全に失墜。
魔王軍の隠密部隊『幻影の牙』を全裸で縛り上げ、三百人の精鋭をデコピン一発で壊滅させ、挙句の果てに巨大怪獣ごと総本部の主塔を真っ二つに両断した「盲目の化け物」が、かつて自分たちが無能扱いして追放したイチであると知った王宮の重鎮たちは、恐怖で夜も眠れない日々を過ごしていた。
◇
数日後、下町の居酒屋『カツコマ』。
いつも通りの昼下がり、店の前にきらびやかな王宮の高級馬車が停まり、中から現れたのは、なんとこの国の頂点に立つ国王その人と、冷や汗を頭から滝のように流した王宮の大臣たちだった。
「お、おい……本当にここなのか? 伝説の聖騎士長が居座っているという下町の店は……」
「は、はい……間違いありません。しかし国王様、どうかご無理はなさらぬよう……」
大臣たちがガタガタと震えながらドアを開けると、そこにはいつも通り、壁に仕込み杖を立てかけ、呑気に黒エールを喉に流し込んでいるイチの姿があった。
「いやあ、いらっしゃいませ。ずいぶんと上等な絹の擦れる足音が聞こえてきましたが……おや、お客さん、かなり肩が凝っていますな。高そうな王冠の重みのせいですかねぇ?」
イチは眼帯の奥の目を動かさずに、フフッと飄々とした笑みを浮かべた。
「イ、イチ殿……! いや、イチ聖騎士長!!」
次の瞬間、居酒屋の床に、豪華なマントを羽織った国王がガバッと両膝をつき、頭を床にこすりつけるようにして土下座を敢行した。
最高権力者である国王の、異例中の異例たる土下座懇願である。
「ひえっ!? 国王様が土下座を!?」
厨房からポトフの器を持って出てきたサホが、驚愕のあまり目玉を丸くして固まる。隣の席で串焼きを食べていたゲラルトだけが、「ふん、見苦しいな」と鼻で笑っていた。
「イチ殿! 恥を忍んでお願い申す! 我ら王宮の無能どもが、貴殿のような神話級の英雄を『盲目の無能』と蔑み、退職金すら無しで追放した非礼、いくら詫びても足りぬ! どうか、どうか我が国を救うため、新設される『聖騎士長』として騎士団へ戻ってはくれまいか!」
国王は涙目を浮かべ、必死になってイチのズボンの裾にすがりつこうとした。
「貴殿が抜けた聖騎士団は完全に崩壊し、魔王軍の脅威に怯えるばかり! 貴殿が戻ってくだされば、爵位も、ヤンセン辺境伯の遺領も、王宮の全財産の半分も、望むがままに差し上げよう! 頼む、戻ってくれぇぇぇ!」
後ろに控える大臣たちも、「どうか、どうかお願いします!」と涙と鼻水を流しながら一斉に床へ頭をこすりつける。かつてイチをゴミのように扱い、組織の面汚しだと罵った王宮の連中が、今や生き残るために盲目の男の足元に這いつくばっている。完璧すぎる『王宮ざまぁ』の縮図だった。
だが、イチは困ったように頭を掻くと、ジョッキを置いて仕込み杖を優しく手元に引き寄せた。
「いやあ、国王の旦那。熱心なスカウトはありがたいんですがねぇ……。いまさら『戻ってきて』と言われても、もう遅いですわ」
「な、何故だ……!? 栄誉もカネも、何でも手に入るのだぞ!?」
「簡単なことですよ」
イチは両腕で仕込み杖を抱え、サホが持ってきてくれた湯気立つ特製ポトフの、たまらなく優しい香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
「俺は前世のブラック企業でも、今世の聖騎士団でも、カネや名誉のために身を粉にして働いて、散々すり減ってきたんですわ。目が見えねえ書類仕事なんて、不便で肩が凝るだけです。――それよりも、今の俺には、この下町の居酒屋で美味いエールを飲む方が、ずっと忙しいもんでねぇ」
「そ、そんな理由で……国家のトップの座を蹴るというのか……っ!?」
国王と大臣たちは、イチの圧倒的な「無欲のスローライフ」の前に、返す言葉を失って呆然と絶句した。
「というわけですから、そちらの組織はそちらの無能……失礼、エリートの皆さんで勝手に再建してください。さあ、サホちゃん、お偉方にお出しするエールはないから、お引き取り願いましょうかねぇ」
「はい! イチさん! ――そういうわけですから、国王様も大臣様も、営業の邪魔だからお引取りください!」
サホが布巾をバシッと叩いて胸を張る。
「く、クソォォォ! 完璧にフラれた! 戻ってくれぇぇぇ!」
国王たちは惨めな悲鳴を上げながら、這う失意のまま高級馬車へと逃げ帰り、王都の闇とともに去っていった。
◇
夜。居酒屋『カツコマ』には、いつも通りの、いや、いつも以上の賑やかな笑い声が響き渡っていた。
「いやあ、イチ。国王の土下座をエール一杯で一蹴するとは、最高の酒の肴だったぞ。かんぱいだ!」
「ハハ、ゲラルトの旦那。やっぱり男の義理よりも、サホちゃんのポトフの方が価値がありますからねぇ」
完治したゲラルトと、イチの二人のジョッキが心地よく合わさる。
「もう! 二人とも格好いいこと言ってないで、冷めないうちにたくさん食べてよね!」
サホが嬉しそうに、特大の器に盛られたポトフを取り分ける。
ヤンセン辺境伯に続き、王立聖騎士団の闇も綺麗に掃除したイチたち。彼らの元には、名誉も、莫大な富も、権力も残らなかった。
だが、イチが仕込み杖の先で床をコンと叩くと、カンストした聴覚スキルを通して、下町の住人たちの温かい笑い声、サホの優しい呼吸、そしてゲラルトが美味そうに酒を喉に流す音が、最高の立体マップとして脳内に響き渡る。
目が見えない代わりに手に入れた、絶対に誰にも譲らない、最高に贅沢で愛おしい――【三億ゴールド(百万両)の日常】。
「いやあ、それにしても。やっぱり目が見えないってのは、不便ですな!」
イチのいつもの冗談に、サホも、ゲラルトも、そして店内のすべての客たちが、夜空を揺らすほどの声で大爆笑した。
仕込み杖を片手に、大切な仲間たちとの最高のスローライフは、下町の片隅でどこまでも、いつまでも続いていくのだった。




