第3ー5話 うつわ、さがす きおの あさおと
個別支援計画書の最上段には、彼の名前が印字されていた。
本人の意向:
「リビングで世話人さんとたくさんおしゃべりしたり、歌ったり踊ったりして楽しく過ごしたい」
インクの冷たい匂いがかすかに残るその紙を、事務室にいた佐野朝音は、深夜の静寂のなかでじっと見つめていた。
強度行動障害、支援区分6。
前籍のグループホームを、他害行為によって追われたという生野器音を迎えるにあたり、朝音が組み立てた初期計画の短期目標は、自立訓練の確かな基盤となる規則正しい生活リズムの定着と、不測の事態を排した予測可能性の確保、その二つだけに静かに絞り込まれていた。
ホームのスケジュールや視覚的なタイマーを併用し、自ら次の行動に見通しを持つことができる。
内なるストレスを検知した際、自傷や他害の嵐へと発展してしまう前に、自らクールダウンできる静かな場所へ移動できる。
それらは、彼が張り詰めた集団生活のなかでかろうじて安全に息をし、自立への一歩を踏み出すために敷かれた、ホームルールという名の頑丈な「支える器」だった。
アセスメント資料の白地に並ぶ「他害」「衝動」「暴言」という冷酷な文字の数々に、現場の職員たちは一様に身を硬くして構えていたが、実際に始まった器音の新しい生活は、それらの過剰な警戒を、透明な拍子抜けの空気で満たしていた。
土曜日の、まだ陽の光が静かに差し込む午前中。
本来ならば日中の職員配置がないはずのホームで、山積みの事務仕事をリビングのテーブルへと持ち込んだ朝音の向かい側、器音の定位置、まるで気配を消すようにじっと座っていた。
朝7時から夜21時まで、リビングは常に利用していい、というのがこの場所のルールになっている。
けれど、他の利用者は皆、週末の外出に出払っているか、あるいは自室の殻に籠って思い思いの時間を過ごしているため、昼下がりに向かうフロアには、がらんどうの静けさだけが満ちていた。
ポケットの口から所在なげに覗く、使い古されたアクリル製のネームキーホルダー。
そこには、彼の名前が掠れた頼りない文字で刻まれていた。
彼の親指は、その硬質なプラスチックの角を、何度も、何度も、世界の輪郭を確かめるように静かに擦り続けている。
カチ、カチ、カチ、カチ。
12時。
器音がお弁当のプラスチック蓋ともどかしく格闘する姿を、朝音はあえて手を出さず、彼の力を信じるように静かに見守る。
「生野さん、お茶は自分でコップに注げるかな」
朝音が極力平熱の声をかけ、冷たいお茶の入ったピッチャーを指し示すと、器音はキーホルダーからそっと手を離し、「うん」と小さく頷いた。
手を慎重に動かし、琥珀色の一杯のお茶を自らの力だけで一滴もこぼさずに注ぎきる。
成し遂げられたその小さな成功の手触りを、胸の奥で深く噛みしめるように、器音の口元に、子供のような素直な笑みがふわりと浮かんだ。
「あさねさん」
昼食を終えたばかりの、静かな午後の早い時間。
器音は、画用紙で作られた歪なベルトを、宝物のようにそっと朝音の前へと突き出してきた。
彼が午前中、熱心にハサミを動かし切り貼りしていた、自作の「ヒーローの変身アイテム」だった。
「これ、つけて。ぼくのまねして」
人と関わりたい、自らの存在を認められたいという純粋なパッションが、彼の幼い内側には、狂おしいほどの熱量となって渦巻いている。
この「ヒーローごっこ」という強烈な要求に対しては、朝音の主導のもと、職員の意思、職種や業務状況に応じた明確な『役割分担』を徹底していた。
全員が一律に同じ負担を背負うという無理な形ではなく、チームとして役割を分けたルールを運用し、支援の一貫性と現場の息切れ防止を図ることになっていた。
朝音は、自らの左手首にその不器用な紙のベルトを巻き、引き締めるように電子タイマーを取り出した。
「生野さん、ありがとう。すごくかっこいいベルトだね。じゃあ、今からこのタイマーがピピッと鳴るまでの『10分間』、一緒に全力でヒーローのポーズをやろう。タイマーが鳴ったら、私はお仕事に戻るから、一回おしまい。いい?」
器音の細められた瞳が、タイマーの液晶画面に表示された「10:00」という無機質な数字をじっと凝視する。
彼は小さく、けれど深く、自らに言い聞かせるように首を縦に振った。
「ト、ト、ト、ト……」
器音が不器用なステップを踏むように踊り、自作の紙の武器を天高く掲げる。
朝音もそのステップに静かに歩調を合わせ、彼の魂の叫びを最大限に肯定する言葉を何度も重ねた。
器音の口元が、まるで冬のひだまりのように優しく和らいでいく。
別れを惜しむ間もなく、無情に10分が経ち、ピピピピ、と無機質なアラーム音がリビングの空気を切り裂いて鳴り響いたとき。
器音は一瞬だけ、もどかしそうに大きな指先を震わせ、ポケットのキーホルダーを壊れんばかりに強く握りしめた。
けれど、朝音が「タイマーが鳴ったから、おしまい。お約束、守ってくれてありがとう」と穏やかに語りかけると、彼はふぅ、と胸の奥底から熱を逃がすように深く息を吐き、「……おしまい」と切なく呟いて、自作のアイテムを一枚ずつ丁寧に片付け始めたのだ。
夕方、時計の針が16時を過ぎる頃。
ホームの空気は、それまでの静寂から一変する。
帰宅した利用者たちが次々と扉を開け、手洗いやうがいの見守り、夕食の激しい支度の音、お互いの繊細な距離感を測りながらの入浴の順番整理。
フロアは一気に、目を離せない「支援が幾重にも重なり合う時」と化していく。
器音はその激しい動線の波に巻き込まれないよう、ソファの定位置から帰宅した他の利用者たちの騒がしい風景を静かに、ただ見つめていた。
18時。
ホームの規律通りに、夕食の時間が静かに訪れる。
無言でひたすら箸を動かす者、テレビを眺めながら食べる者、時折、甘えるように話しかけてくる者、それぞれが穏やかな夕食のひと時を過ごし、時間が過ぎていく。
「お薬だよ」
朝音が手渡すと、器音はそれを素直に口へ含み、水でゴクリと飲み下して、「はい」と口を開け舌を出して見せる。
そして、空になった小さなプラスチックのカップを真っ直ぐに返した。
入浴支援が必要な器音は、全体の混雑を避けた夕食後の入浴が定刻となっていた。
頭も身体も、大半は自分自身の力で洗うことができる。
最後の仕上げの時間だけ、職員がその背中を優しく洗い流す。
温かい浴槽に入るよう促す時、「はーい」という、弾むような明るい返事が狭い浴室に響く。
器音は、この湯に深く浸かる時間が何よりも大好きだった。
5分のタイマーが鳴ると、湯から上がるよう声をかける。
大きな水滴を周囲に撒き散らしながら、身体を一生懸命にタオルで拭く器音の姿に、思わず手助けしようと手が動きそうになる朝音。
「だめだよー、あさねさん。ぼく自分でやれるよ」
「ごめんなさい、そうだったね!」
湯気の中で顔を見合わせ、弾けたように笑う二人。
20時。
就寝前の大切な口腔支援、洗面台の鏡に向かって、彼は一心に歯ブラシを動かす。
自身の手ではどうしても磨き残してしまう奥歯の仕上げを、朝音が「あーんしてね」と優しく手伝うと、彼はじっとその丁寧な指先の動きに、全面的な信頼を寄せるように身を委ねていた。
21時。
リビングの利用時間が終わり、ホームの完全な消灯時刻を告げる。
職員と言葉を交わすのが大好きな器音にとって、この夜の境界線は、一番の名残惜しさに満ちた時間だ。
他の利用者がとっくに自室へと戻る中、彼は利用時間ギリギリまでソファに残り、カチ、カチと静かにキーホルダーを鳴らしていた。
けれど、朝音が「21時になったから、今日のリビングはおしまい。お部屋でゆっくり休もうね」と静かに声をかけると、彼は最後にもう一度だけキーホルダーを強く握りしめ、「……おやすみなさい」と呟いて、素直に自室のベッドへと戻っていった。
ここで、朝音のサビ管としての盾は、夜間支援員へと静かにバトンタッチされる。
24時。
静まり返ったホームの廊下を職員が足音を立てずに巡視に回る。
器音の部屋のドアをそっと開けると、常夜灯の淡いオレンジ色の光の中で、彼は布団をしっかりと胸元まで引き上げ、小さな、けれど健やかな寝息を立てて深く眠っている。
枕元には、あのアクリル製のキーホルダーが、静かに夜の闇を反射させながら、彼を見守るように置かれていた。
午前7時。
リビングの利用開始時間を告げると同時に、あたたかい朝食の匂いが漂い始める頃、器音が部屋から静かに出てきた。
「生野さん、おはようございます。よく眠れました?」
朝の職員が明るく声をかける。
「おはよう、眠れたよ」
香ばしいトーストとスープが並ぶテーブルで、彼は昨日と全く同じ定位置に座り、不器用ながらもスプーンを丁寧に口へと運ぶ。
24時間という途切れない生活の流れの中で、朝7時から夜21時までのホームルールに沿って規則正しく、自らを律して生きること。
それこそが、彼にとっての何よりの自立訓練であり、社会という冷酷な世界と繋ぎ止めるためのたった一つの生命線。
枕元のキーホルダー、朝7時に同じ席へ座る。
その健気なまでの素直さに、朝音は胸の奥底で静かな安堵を覚え、この無骨な、けれど絶対的な器の設計図を、サビ管としてどこまでも守り続けようと、心に深く誓っていた。




