第3ー6話 うつわ、さがす きおの あさおと
真清ホームでの勤務を終え、自宅のドアを開けたのは翌朝のことだった。
リビングから漂う香ばしいコーヒーの匂いが、朝音の強張っていた肩の力をわずかに緩めていく。
朝の光が差し込む食卓では、夫の佐野充寛が新聞に静かに目を落としていた。
「おかえり、朝音。お疲れ様」
充寛は手元の新聞を丁寧に畳むと、夜勤明けの妻のために、温かい湯気を立てるマグカップを優しく差し出した。
朝音はそれを両手で包み込み、張り詰めていた息を深く吐き出しながら席に着く。
「新しい出会いがあってね。最初は手探りだったんだけど、ホームのルールにしっかり馴染んで、今はすごく穏やかに過ごしてくれているの。組み立てた計画がちゃんと機能して、ひとまず安心したわ」
朝音の疲れた顔に、サビ管としての確かな充実感を宿した笑みが浮かぶ。
充寛は妻のその表情に安堵したように微笑み、何かを思い出したように少しだけ声を落とした。
「それは良かった。……ところで、朝音に真面目な話があるんだ。うちの会社が、新しくグループホームを4棟同時に開設することになったんだよ」
「4棟同時に? 凄いね。利用者さん、すぐに埋まるのかしら」
朝音は驚いて、手元のマグカップをテーブルに置いた。
「そこは大丈夫さ」
充寛は深く頷き、確信を込めて言葉を紡ぐ。
「うちの会社、すでに就労支援B型をやっているだろ? そこの利用者さんの何人かが、自立のためにグループホームへの入居を強く希望しているそうなんだ」
「それは、セット利用による高稼働率の維持になるね。利用者さんにとっても、すごくメリットがあるもの」
朝音はサビ管としての視線で、その仕組みが持つ強みを瞬時に見抜いていた。
「環境が変わらずに、地続きのまま安心してステップアップできるものね」
「さすが朝音、よく分かってる」
充寛は真っ直ぐで真剣な眼差しを妻に向け、本題を切り出した。
「そこでだ。うちの社長が、朝音に新設するグループホームのサービス管理責任者兼エリアマネージャーになってくれないか、と言っているんだ」
「え? それはとても光栄なお話だけど……いまのグループホームを辞めるわけにはいかないんだ」
朝音は静かに、けれどきっぱりと、心に決めた規律を守るように首を振った。
「新しく入った方が、いま、この場所の環境に慣れようとひたむきに頑張っている大事な時期なの。私が今ここを抜けたら、あのホームのルールが、崩れてしまうかもしれないから」
「そっか。やっぱり、そう言うと思ったよ」
充寛は妻の内に秘められた強い責任感を誰よりもよく知っているという風に、愛おしそうに苦笑した。
「一応、社長には『考えてくれている』とだけ濁して伝えておくからさ。もし気が変わったら、いつでも言ってくれ」
「ありがとう、充寛くん」
夫の変わらぬ深い理解に心から感謝しつつ、朝音は再び温かいコーヒーを口元へと運んだ。
*
夕方の事務室。
廊下の向こうから、帰設した利用者たちが一斉に手洗いに向かう慌ただしい足音や、なじみの笑い声が遠く聞こえてくる。
そんなにぎやかさを余所に、湯呑みから立ち上る白い湯気だけが、佐野朝音と一ノ瀬夢人のあいだで所在なく揺れている。
代表社員の夢人は、いつもの日だまりのような微笑みを絶やさずに、一枚の直筆メモを朝音に手渡した。
そこには、夢人が独自に書き換えた、真新しいホームルールの暫定的な時間設定が記されていた。
タイマーの廃止。
夕食は21時まで。
入浴は23時まで。
就寝は24時。
起床は朝の8時。
朝食は9時まで。
リビングは24時以降も開錠、必要であれば利用者の出入りは自由。
「一ノ瀬代表、これは……」
朝音が計画書を繰る手を止めて顔を上げると、夢人はその目元を愛おしそうに細めて、どこまでも穏やかな声で言った。
「生野器音さん、本当に毎日頑張ってくれていますよね。自分でちゃんとお茶を注いで、お弁当の蓋も開けられたって聞きました。凄く健気で、僕も本当に嬉しい。……でもね、佐野さん。僕は彼を見ていて、少し胸が苦しくなるんです。前の施設を追い出されて、せっかくここを『自分の家』だと思って来てくれたのに、分刻みのタイマーや21時の消灯時間で縛りつけてしまうのは、あまりにも可哀想じゃないですか」
夢人の言葉には、一片の打算も、ビジネスライクな非情さもない。
ただ純粋に、生きづらさを抱えた若者を無条件の優しさで包みたいという、福祉の理想そのものが放つ、濁りのない祈りだった。
「反対です、代表」
朝音は、手元にある器音の個別支援計画書に、守るようにそっと触れた。
極力、感情の起伏を排した平熱の声だった。
「生野さんが今、このホームで穏やかに過ごせているのは、ルールで縛られているからではありません。朝7時に起きて、18時にご飯を食べて、21時に寝るという『決まった規律』があるからこそ、彼の脳は次の行動を予測でき、安心して自分を律することができているんです。これは縛りではなく、彼の自立訓練のための、絶対に必要な背骨なんです」
夢人は困ったように眉を下げ、淹れたてのお茶を静かに一口啜った。
「縛りではない、か。でも、彼が紙のベルトを持ってきて、もっとおしゃべりしたい、歌いたいと言ったとき、タイマーが鳴ったら強制終了ですよね。それはやっぱり、彼にとっては拒絶なんじゃないかな」
「拒絶ではありません。見通しの提示です。終わりがあるからこそ、彼はその10分間を全力で安心できるんです。ずるずると付き合えば、関わりの境界線が溶けてエスカレートします」
「そんなに冷たく線を引かなくても、僕たち職員が彼の気持ちに合わせればいいじゃないですか。夕勤と夜勤の交代枠はあるんだから、彼がリビングにいたいなら、夜中まで一緒に起きておしゃべりをしてあげましょうよ。それが、僕の目指す『真清』の支援なんです」
「それは支援ではなく、ただの甘やかしです、代表」
朝音の一言に、夢人はわずかに目を見開いた。
しかし、すぐにいつもの柔らかな笑みに戻り、諭すように首を振る。
「言葉が強いな。佐野さんは、少し厳しすぎますね。福祉は管理じゃない。もっと利用者の『自由』を信じてあげなきゃ」
厳しすぎる。
その言葉が、硬い事務机の上に、寂しい残響を残して響いた。
朝音は冷めかけた湯呑みを両手で包み込み、夢人のまっすぐな眼差しを見つめ返した。
「厳しいんじゃない。私は、守りたいだけです」
「守る? ルールで縛ることが、彼を守ることになるんですか?」
「はい」
朝音の声に、微かな、けれど決して退かない熱が宿る。
「生野さんを、他の利用者の皆さんを、現場で夜を徹して動く職員たちを、仕組みを、組織を、そして未来を、全て守りたいんです。代表の言う『自由』の裏で、誰がその歪みを背負うか分かりますか」
「歪み、ですか?」
「そうです。例えば23時にお風呂の仕上げをし、深夜2時に生野さんに起こされ、おしゃべりや工作に付き合わされる。そんな生活を許せば、ワンオペの夜勤者は一睡もできません」
朝音は机に両手をつき、一歩も引かずに夢人を見据えた。
「そのまま朝7時の朝食から9時までの怒涛の業務を、肉体一つで回すことになるんです。安全配慮義務の観点からはもちろん、そんな限界まで擦り減った現場で、もし生野さんが予測不可能なノイズにパニックを起こしたら、一体誰が他害の嵐を止められるんですか」
「そこまで心配しなくても大丈夫じゃないかな」
夢人は静かに首を傾げた。
その美しい瞳には、朝音の必死の訴えが、かすりもしていないようだった。
「前のホームで何があったかは知らないけれど、うちに来てからの彼は本当に素直だ。信じて待ってあげれば、ルールなんてなくても、きっと人間同士、言葉を越えて伝わるはずだから。まずは、やれるところから、彼の自由を広げてあげましょうよ」
透き通るような善意の言葉が、あまりにも巨大な壁のようになって、朝音の言葉をすべて無慈悲に弾き返していく。
境界線がなければ、器は壊れる。
ルールという名の枠組みがあってこそ、初めてその内側にいる人間は、誰も犠牲にならず、誰も傷つかずに優しいままでいられるのだと、朝音は静かに訴え続けたが、二人の言葉が交わることはついになかった。
「……分かりました。一ノ瀬代表の理想は、よく分かっています」
朝音は、完全に冷めきった自分の湯呑みの、その暗い水面を見つめながら、静かに答えた。
組織としての責任と、個人としての理想。
話は平行線のまま、夕闇が完全に部屋の隅へと溜まっていく管理者室の空気の中へと、二人の声は空しく霧散していった。
一ノ瀬夢人が管理者室を出ていったあと、机の上に取り残された新しい時間割のメモを見つめながら、朝音は、足元から頑丈な器の土台が静かに削り取られていくような、冷たい予兆の震えを確かに感じていた。




