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第3ー7話 うつわ、さがす きおの あさおと


 一ノ瀬夢人が提示した「新しい時間割」が始まって、最初の数日は、不気味なほど静かだった。



 むしろ、これまで厳格な日課や生活の枠組みの中で過ごしてきた利用者たちは、「21時を過ぎてもリビングにいていい」「夜中まで過ごしても注意されない」という、降って湧いたような規則の緩みに、どこかそわそわとした解放感を覚えているようでもあった。



 だが、現場を預かる朝音の懸念は、目に見えない歪みとなって、まず「時間」の境界線から浸食を始めた。


 最初の綻びは、精神科薬の服薬リズムだった。


朝8時起床、朝食は9時までという設定は、一見ゆとりがあるように思えたが、朝の時間を後ろ倒しにしたことで、夜勤から日勤への引き継ぎや、午前中の通所(作業所)の送り出しの時間が完全に過密化した。



さらに、これまで7時に起きていた利用者が、「9時までなら」と朝の二度寝を選ぶようになる。


「佐野さん、すいません……。木村さん、さっき起きてきて『朝の薬』飲んだんですけど、もう10時半なんです」


事務室に駆け込んできた若手職員の顔には、早くも焦燥が浮かんでいた。


 精神科の薬、特に統合失調症や双極性障害の抗精神病薬は、血中濃度を一定に保つための「服薬間隔」が命だ。


朝の薬が11時近くになれば、昼の薬までの間隔が狭まり、今度は夜の眠剤の効果にまで影響が出る。


 枠組みを緩めた結果、利用者の体内時計と薬のサイクルが、ドミノ倒しのように狂い始めていた。


 そしてその狂いは、個室という「プライベートな空間」の安全性すらも、内側からじわじわと脅かしていった。


 リビングの24時間開放。


 もちろん、他者の気配や物音がストレスな利用者は、自分の個室に戻ればいいはずだった。


実際、多くの利用者は夜になると自室へ引き上げていった。


しかし、問題は「リビングに残り続ける一部の人間」が放つノイズだった。


 夜の23時。


 これまでなら全員が就寝していたはずの深夜、数人の利用者がリビングに残り、大音量でテレビを観たり、小声で独り言を呟きながら徘徊したりし始めた。「自由」だからこそ、それを止めるルールはここにはない。



 木造のグループホームにおいて、深夜のリビングの物音や床の振動は、個室のドアを透過して、静かに寝ようとしている他の利用者の部屋へと容赦なく廊下を伝って忍び込んだ。


「ねえ、うるさいんだけど……」


 自室から出てきた利用者が、眉をひそめてリビングの面々に苦情を言う。


しかし、言われた側は「だって、24時間自由って代表が言ったもん」と聞き入れない。


ルールがないゆえの、利用者間での小さないざこざ。


自室に逃げ込んでも、壁の向こうから微かに聞こえるテレビの重低音や、誰かが廊下を歩く不規則な足音が気になり、一度覚醒した脳はなかなか眠りにつけない。


部屋にいても、休めない。



 そうした「薄い寝不足」が数日、一週間と積み重なるにつれ、利用者の精神状態は確実にトゲトゲしさを増していった。


日中、些細なことでイライラしたり、幻聴の訴えが増えたり、作業所を「だるい」と休む者が一人、また一人と増えていった。


 そして、23時まで拡大された「入浴自由」のルールが、現場の夜勤職員を物理的に圧迫していった。


 これまでは21時に一斉に就寝準備に入っていたため、夜勤者は22時以降、定時の巡回と書類仕事、そして緊急対応に専念できていた。


 しかし今は違う。


21時過ぎに「お腹が空いた」とリビングに降りてくる者の遅い夕食対応をし、22時半になって「今からお風呂に入る」と言い出す利用者の見守りをする。


お風呂から上がれば、当然、浴室の仕上げ掃除や水分の拭き取りが必要になる。


それが深夜23時半まで続くのだ。


夜勤職員の仮眠時間は、書類上は深夜0時から翌朝4時と決まっていた。


だが、利用者の生活リズムが後ろにズレ込んだ結果、深夜2時になっても不穏で自室から出てくる者の対応に追われ、仮眠室のベッドに横たわることすらできなくなっていた。


 1分も気が抜けない、ノンストップのワンオペ夜勤。


職員たちの目の下には、日に日に濃い隈が刻まれていった。


 この、ゆっくりと満ちていく泥水のような混沌の底で、生野器音の心もまた、確実に悲鳴を上げ始めていた。


「ねえ、これ。これ作ったの」


 夜の23時45分。


 器音は、細く千切った紙のベルトを両手に握りしめ、リビングのソファで夜勤職員の袖を引いていた。


彼の目は、疲労と興奮で充血している。


 自室にいても、夜中まで開いているリビングの気配が気になり、どうしても部屋でじっとしていられなかったのだ。


「生野さん、ごめんね、今ちょっと木村さんの対応があって……。あ、木村さん、お薬お水で飲んでくださいね!」


 限界を迎えている職員に、かつてのような笑顔の余裕はなかった。


折り直されるたびに強度が失われ、ボロボロに毛羽立っていく紙のベルトは、そのまま器音の精神の摩耗そのものだった。



「歌、歌う。お姉さん、聞いて、聞いてよ」


 器音の声が、焦燥感で細く尖っていく。


以前なら、「タイマーが鳴ったらおしまい。お部屋に戻る」という絶対的な境界線があった。


終わりが明確だからこそ、器音はそのルールに身を委ね、時間内は全力で安心していられたのだ。


しかし、今のこのホームには、明確な終わり(ルール)がない。


 就寝時間まではリビングにいていいはずなのに、職員はちっとも構ってくれない。


いつになったら自分の話を聞いてくれるのか。


どこまでが許されて、どこからがダメなのか。


境界線の溶けた世界は、彼にとって「無限の放置」と同じだった。


器音は何度も壁時計を見上げた。


ポケットの中で、親指がアクリル製のキーホルダーを擦り続けている。


カチ、カチ、カチ、カチ、カチカチカチ


その音は以前よりも明らかに速く、精度を欠き、プラスチックが悲鳴を上げるような歪な音へと変わっていた。


以前の彼なら、ここでタイマーが鳴り、終わりを告げられた。


しかし、今は違う。


終わりがない。


それは器音にとって、いつ自分を終えていいのか分からない世界だった。


カチカチカチカチカチカチ……。


「生野さん!もう24時になるから! お部屋に戻って! お願いだから!」


 他者の介護で手一杯の職員が、ついつい強い語気で、器音の手を拒絶するように振り払ってしまった。


カチカチ、という音が不意に止まる。


その瞬間、器音の頭の中で、張り詰めていた見通しの糸が、ぷつりと切れた。


「ああああああああああーーーッ!!!」


 深夜のホームに、器音の引き裂くような絶叫が響き渡った。


彼は自分の髪を激しく掻きむしり、持っていた紙のベルトをズタズタに引き裂くと、ソファから転げ落ちて床に何度も頭を打ち付け始めた。


ゴン、ゴン、と鈍い音がリビングに響く。


「嫌だ! 嫌だ! どこ!? どこに行けばいいの!? ああああーーーっ!!!」


 ルールという「背骨」を奪われた器音は、自由という名の暗闇の中で、完全にパニックの嵐に呑み込まれていた。


制止しようと近寄った職員の腕を、器音は物凄い力で激しく撥ね退ける。


その拍子に職員がよろめき、棚の角に激突する音が暗い廊下まで響いていく。


その夜を境に、現場の肉体も、利用者たちのささやかな平穏も、確実に削られていった。


 


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