第3ー8話 うつわ、さがす きおの あさおと
その日、朝音は覚悟を決めて、事務室の更に奥、重苦しい管理者室の扉をノックした。
手には、ここ数週間で現場から悲鳴のように上がってきた日々の生活記録、積み重なるヒヤリハット報告、そして職員たちの限界を示唆するシフト超過データが、冷たい質量を持って握りしめられている。
室内にいた一ノ瀬夢人は、いつものように周囲を穏やかに包み込む陽だまりの微笑みで、朝音を優しく迎え入れた。
「お疲れ様です、佐野さん。温かいお茶でもいかがですか?」
「いえ、結構です」
朝音は勧められた椅子に腰を下ろすこともせず、磨かれた事務机の上に資料の束を突き付けた。
「代表、真清ホームの現状報告です。今すぐ、ホームルールを元のタイムスケジュールに戻してください。このままでは、現場が完全に破綻します」
夢人は困ったように眉を下げ、提出された資料に視線を落としたが、その表面の文字を淡っとなぞるだけで、紙背に隠された中身の深刻さを受け止めている様子は微塵もなかった。
「破綻、ですか? でも、僕が夜に様子を見に行くときは、みんなリビングで楽しそうにテレビを観たり、お茶を飲んだりしていますよ。生野さんだって、僕にはいつも嬉しそうに自作の工作を見せてくれます」
「それは代表が、都合の良い一瞬しか見ていないからです。私たちは、その前後を毎日見ています」
朝音の冷徹な声が、張り詰めた室内の空気を鋭く震わせる。
「実際の夜間は、完全に無法地帯です。24時就寝という形骸化した建前は崩れ、利用者の皆さんは1時、2時を過ぎても眠れていません。その結果、慢性的な睡眠不足による情緒不安定、日中活動のボイコット、さらには服薬の致命的な遅れまで多発しています。深夜のリビングでは、眠れない利用者同士の小さないざこざが絶えません」
「それは、新しい環境に移行するプロセスのなかで、みんなが自由のバランスを学んでいる最中なんじゃないかな」
夢人はどこまでも優しく、包み込むような諭し口調を一切崩さない。
「時間で縛るのをやめたんだから、最初は少し混乱するのも無理はない。信じて待ってあげれば、必ず自分たちでちょうどいいルールを見つけ出しますよ」
「見つけられません!」
思わず、朝音の声が一段と大きく跳ね上がった。それは穏やかな対話を越え、激しい言い合いのトーンへと色を変えていく。
「彼らには、自分を律するための明確な『枠組み』が必要なんです。その境界線を奪うことは、地図を持たずに底なしの砂漠へ放り出すのと同じです。現に、一番の命綱だったタイマーを奪われた生野さんは、時間の見通しを完全に失ってパニックの予兆を見せ始めています。叫び声も出ました。このままでは、再び他害へ至る可能性を否定できません」
「佐野さん、落ち着いて」
夢人はそっと手を差し伸べるようにして、すべてを見透かしたような悲しげな目で、その目元を細めた。
「どうしてそんなに、彼らを信じてあげられないんですか? 生野さんの叫びだって、自分の気持ちをうまく言葉にできないからこその、切ないSOSかもしれない。それを『パニック』だ『他害の予兆』だと危険視して、また冷たいルールで閉じ込めるのは、支援とは言えません」
「私は、現実を言っているんです!」
朝音は机の木面を、両手で激しく叩いた。
「安全配慮義務の観点からも、これ以上の放置は絶対に容認できません。ワンオペの夜勤職員は、ここ数週間、1分も仮眠を取れていないんですよ? 職員が肉体も精神も限界を迎えた現場で、もし生野さんの暴発が起きたら、一体誰がその責任を取るんですか。代表の優しさは、現場が支え続けられることを前提にしています!」
そこまで剥き出しの激しい言葉をぶつけられても、夢人の美しい表情が怒りに染まることはなかった。
彼はただ、本当に気の毒そうな、深い慈愛に満ちた目で朝音をじっと見つめるだけだった。
「佐野さんは、本当に真面目で、優秀なサビ管です。でも、だからこそ、管理の正しさに囚われてしまっている。僕はね、スタッフの皆さんの苦労も分かっているつもりです。だからこそ、みんなでその負担を分かち合って、彼らの自由を支えてあげたい。僕は、利用者を狭い枠にはめるようなホームにはしたくないんです」
夢人は静かに、けれど絶対に揺るがない拒絶を、その優しい微笑みの裏側ににじませて話を締めくくった。
「ルールは、今のままでいきましょう。信じることを、諦めたらおしまいですから」
話は、完全に決裂した。
これほどの悲痛な現実を突きつけても、夢人の底なしの善意という強固な防壁を穿つことはできない。
朝音は怒りと絶望で拳を固く握りしめたまま、平行線のまま冷え切った管理者室をあとにした。
背後で静かに閉まった扉の向こう側から、朝音には秒針のような音が聞こえていた。




