第3ー9話 うつわ、さがす きおの あさおと
しとしとと世界を濡らす、ある雨の日の夕暮れだった。
押し問答のようになった、あの出口のない話し合いから数日たった真清ホーム二号棟。
奥から微かに漏れ聞こえる話し声に気づいて、朝音はリビングのドアをそっと開けた。
そこには、夢人が連れてきていた幼い二人の娘の姿があった。
生まれつき強い障害を持つ姉妹は、まだ新しいリビングの床に寝転がり、何も映さない天井をじっと見つめている。
「……ますみ。お母さん、ますみ」
次女が、覚えたての不確かな言葉を小さく呟くように、ホームの名前を呼んだ。
いや、違う。
彼女たちは、この建物の冷たい壁を、無垢な床を、まるで恋しい母親の身体であるかのように愛おしそうにその小さな手のひらで撫でているのだ。
「そうだね。お母さんだね」
傍らでただしゃがみ込む夢人の声が、耐えかねたように微かに震えていた。
朝音の気配にも気づかず、目から大粒の涙が床にこぼれ落ちるのを、彼女は息を呑んで見つめた。
頬を伝う涙を拭おうともせず、ただ愛おしそうに、切なげに壁を見つめ、静かに両手を合わせて祈る夢人の姿がそこにはあった。
――ここは……もしかすると……。
ひたひたと胸の奥を満たしていく、冷たい雨のような予感。
けれど、その正体を、今の朝音はまだ、言葉にすることができなかった。
*
雨の日の夕暮れ、リビングの床で祈るように佇んでいた一ノ瀬夢人の姿が、朝音の胸の奥に冷たい澱のように残り続けていた。
――ここは、もしかすると……。
その言葉にならない予感を振り払うように、朝音はサビ管としての職務に没頭した。
しかし、一度失われた防波堤は簡単には戻らない。現場から上がってくる生活記録、ヒヤリハット報告、そして職員たちのシフト超過データは、日々深刻な数字を叩き出していた。
このままでは、あの夜に聞いた器音のひび割れた叫び声が、本物の嵐になってホームを直撃する。
これ以上の見過ごしは、サビ管としての不作為にあたる。
朝音はホームの崩壊を食い止め、管理体制を正常な軌道へと戻すための最後の防衛線として、今夜、A4用紙数枚にわたる「確認書」を手に管理者室の扉を叩いた。
そこには、これまで夢人が「自由」という名の善意で曖昧にしてきた共同生活援助の根幹について、法的な根拠と現場の現実を織り込んだ確認事項が、一切の妥協を排した厳格な箇条書きで並んでいた。
「一ノ瀬代表」
朝音の声には、もはや感情的な激昂はなかった。極限まで研ぎ澄まされた、静かで硬い、事務的なトーンだった。
「共同生活援助の目的である『障害のある方が地域の中で自立した日常生活を営むための援助』、そして労働基準法における仮眠・休憩時間の確保、安全配慮義務の観点から、法人の見解とルール化の有無を最終確認させてください」
夢人は、机の上に広げられたその書類を前にして、あの雨の日と同じ、どこか哀愁を帯びた、悲しげな微笑みを浮かべた。
「佐野さん。また、こんなに硬い書類を作って……。僕たちは家族のような温かいホームを目指しているのに、どうしてこう、形式的な枠にはめようとするのかな」
「確認させてください。まずは【時間】についてです。現在、暫定的になっている夕食や入浴、消灯、そしてリビングの利用時間といった生活リズムの明確なルール化、ならびに食事の廃棄時間や食器洗いの線引き。さらには夜間の水分補給について、自室管理とするか夜勤者がその都度起きるのか。これらをホームルールとして明文化する意思はありますか。これらが不透明なままでは、労働基準法における夜勤者の仮眠・休憩時間の確保が物理的に不可能です」
「時間を決めてしまったら、それはもう『自由な家』ではなくなってしまうよ。生野さんだって、自分のペースで動けるからこそ、ここで暮らせているんだ。お腹が空いたときに食べればいいし、洗える人が洗えばいい。喉が渇いた人が冷蔵庫を自由に開けて飲む。利用者に我慢を強いるのは、僕の目指す支援じゃないな」
「……次に【バウンダリー(境界線)】についてです。代表はコミュニケーション優先のため、家事は利用者の就寝後に行うと仰いましたが、福祉の基本は環境の構造化です。『職員が仕事をしている時間は待つ』という社会生活の当たり前のルールを学んでいただくことも支援です。現状では職員個人の感覚に依存し、依存関係の助長や生活リズムの崩壊を容認する結果に陥っています。明文化の意思はありますか」
「佐野さん、福祉を冷たい社会のルールに当てはめないでください」
夢人は静かに首を傾げ、胸が痛むとでも言うように目を細めた。
「職員が家事をしているからって、利用者を後回しにするなんて悲しいよ。いつだって話したいときに話せる、それが本当の優しさじゃないかな」
朝音は、最後の用紙を夢人の目の前へ静かに滑らせた。
「最後は【他害】についてです。生野さんのパニック時の物損や暴行への対応に関して、代表の用意したマニュアルは事後処理の手順でしかありません。もし深夜にワンオペの夜勤帯で激しい他害行為が発生した場合、専門資格のない非常勤一人が身体を張って制止し、通報や他の利用者の避難を同時に行うことは不可能です。緊急時に機能するオンコール体制、あるいは暴発する前にヘルプサインを出す契約や本人側の努力目標を取り交わす意思はありますか。これらを未経験の非常勤一人の責任のまま、放置されるおつもりですか」
しばしの沈黙が、管理者室を支配した。
廊下の向こうからは、相変わらずリビングで大音量で流れるテレビの音と、いつまでも自室に戻ろうとしない利用者の、どこか苛立ったような足音が響いていた。
夢人は大きく、静かに息を吐いた。
その顔には、怒りではなく、頑ななまでの「憐れみ」が浮かんでいた。
「佐野さん。僕はやっぱり、その考え方には賛成できないな。パニックや他害を『契約』や『禁止ルール』で縛るなんて、本人をさらに追い詰めるだけだよ。不穏になったら声をかけろなんて、利用者に過度な自制を強いることはしたくない。深夜に彼が荒れてしまったなら、そのとき居合わせた職員が、一人の人間として、精一杯彼の苦しみに寄り添って、抱きしめてあげればいい。マニュアルやシステムじゃない。最後は、人と人との愛なんですよ」
愛。
その眩しすぎる言葉が、朝音のなかの「プロとしての最後の導火線」を、静かに、完全に消火した。
――ああ、この人は…
あの雨の日に、床を撫でながら「お母さん」と呟いた娘たちの姿が。
それを見つめて涙を流していた夢人の姿が、朝音の脳裏で鮮明に結びつく。
「真清」
それは、このホームの名前であると同時に、彼が愛し、そして失った妻の名前そのものだったのだ。
夢人は、自分の娘たちのように、既存の社会のルールからはみ出さざるを得なかった人たちを、無条件に肯定するための「聖域」を、この場所に作ろうとしていた。
少なくとも朝音には、それは単なる福祉事業ではなく、亡き妻へ捧げる祈りの場所のように思えた。
真清ホームは、彼が失った人へと捧げた、あまりにも美しい「墓標」だったのだ。
朝音は立ち上がり、書類の束をすっと引き戻した。
「現状のホームルールの不透明さ、夜間の休憩環境、重大な他害リスクへの対応。今回挙げさせていただいた全体の管理体制を鑑みますと、医療資格のない非常勤が一人で背負うには、あまりにもリスクが大きすぎます。これが法人の最終見解ですね」
「ええ。僕は、彼らの自由と、人間としての優しさを信じ続けますよ」
夢人は、どこまでも透き通った、美しい善意の笑みを浮かべて頷いた。
サビ管として、これ以上この場所を「正しい支援の場」として機能させることは不可能だという厳格な現実だけが、朝音のなかに、重く、確かな決意として残された。




