第3ー4話 うつわ、さがす きおの あさおと
器音との初対面は、思っていたよりも静かな時間のなかで訪れた。
玄関先で立ち止まった彼は、朝音の胸元で優しく揺れる、ルビを振られたネームプレートをじっと見つめていた。
「朝音?」
「そうです。佐野朝音です」
「漢字」
「漢字?」
「うん」
器音は、かすかに眉を寄せて、朝音の名前の最後の一文字をそっと指さした。
「音」
「音?」
「僕も、音だよ」
そう言って、彼は首から提げられたプラスチックの自分の名札を差し出した。
生野器音
朝音は、ほんの一瞬だけ胸の奥で息を止めた。
「……ほんとだ」
それから、張り詰めた空気をほどくように、できるだけ穏やかに笑った。
「私と同じ字ですね」
器音の口元が、かすかに、本当にわずかだけ緩んだ。
笑った、と形容するにはあまりに微かな兆候に過ぎなかった。
それでも、その仄暗い灯りのような表情は確かに、朝音の胸の奥深くへと残った。
短く切り揃えられた爪の先が、名札の硬質な角を何度も何度も擦っている。
強く。
何度も。
まるで、この世界のどこか尖った輪郭を、その指先の手触りだけで必死に確かめているようだった。
朝音は、その不器用な手元を見つめながら静かに思った。
この人は、本質的に危険な人間なのではなく、
あまりにも危険な状態へと、容易に追い込まれやすい人なのかも知れない。
だからこそ、本当ならば、この小さなホームではない場所の方がふさわしい。
もっと潤沢な人の手があり、冷徹な医療の目があり、彼が崩れ落ちる前に抱きとめられる場所の方がいい。
その冷めた確信は、初対面を終えてもなお、朝音のなかで変わることはなかった。
けれど、もう賽は投げられてしまったのなら。
この場所で彼を迎えるのだと、運命が決まってしまったというのなら。
少なくとも、自分だけはその本質を見誤ってはいけない。
他害という冷酷な記録の奥に潜んでいる、この人の果てしない不安の影を。
暴力を振るう人、として片付けるのではなく。
今にも崩れそうな自らの器を、壊れぬように必死に押さえている、一人の人間としての生野器音を。
朝音は、胸の奥底で静かに、深く呼吸を調えた。
守りたい、という祈りだけでは到底足りない。
何が何でも、守り抜ける形にしなければならないのだ。
*
違和感は、夕闇が部屋の隅に溜まっていくように、少しずつ、けれど確実に積み重なっていった。
最初は本当に些細な、気にも留めないほどに小さな出来事だった。
朝音が入職して間もない頃、
第一真清ホームの夕勤に入った日のこと。
夕食の時間は夢人の考えで19時と定められていた。
だが、その日のリビングは、夜の更けゆく気配を忘れたかのように賑やかだった。
利用者同士のとりとめない会話が心地よく弾み、傍らに立つ職員もいつしかその和やかな輪に加わる。
空間を優しく満たす笑い声は、決して絶えることがなかった。
それ自体は、どこからどう見ても悪いことではなかった。
むしろ、福祉が目指すべき理想的な光景そのものだった。
夢人が理想のなかに描いていたのも、きっとこのような温かな場所だったのだろう。
けれど、壁に掛けられた時計の針は、容赦もなくゆっくりと進んでいく。
19時30分。
まだ、彼らの食事は終わらない。
20時を過ぎてもなお、利用者たちはリビングの明かりの下で、楽しそうに話を続けていた。
夜の服薬も、その絶え間ないおしゃべりの流れのなかに溶け込むようにして行われる。
やがて21時を回る頃になって、ようやく重い腰を上げるように入浴の支援が始まった。
一般的なグループホームであれば、そろそろ一日の終わりを告げ、消灯の準備を始める時間だった。
しかし、この真清ホームには、生活を律するための明確なルールが何ひとつ存在しなかった。
食事の時間。
入浴の時間。
リビングを利用する時間。
消灯の時間。
そして、眠りにつく就寝の時間。
どこのホームにも、まるで当然の約束事のように掲示されているはずの生活ルールが、ここにはどこを見渡しても見当たらない。
いつも夢人はいう。
「利用者さんによって、心地いい時間は違いますから」
「僕たちは、ここを誰もが自由に過ごせる場所にしたいんです」
その言葉の裏には、一片の悪意も混じっていない。
目の前の利用者をただ大切に思おうとする、そのひたむきな気持ちも、紛れもない本物だった。
だからこそ朝音も、それを正論で頭ごなしに否定することはできなかった。
だが自由とは、本来、何もない空白のなかに放り出されることではない。
人間が安心して息を吸い、過ごせるための境界線があってこそ、初めて成り立つものだ。
その違和感だけが、朝音の胸の奥底に、澱のように静かに残っていた。
22時。
夜勤支援員の遠野彩が出勤してきた。
その時間を過ぎても、リビングの明かりが落とされることはなく、そこにはまだ誰かの気配があった。
静かに温かいお茶を飲む人。
ぼんやりとテレビの光を見つめる人。
今日あった出来事を職員と熱心に話をする人。
夢人が掲げる方針では、利用者が目を覚ましている時間は、何をおいても利用者を優先する。
掃除や洗濯、日々の記録といった細々とした家事業務の手を動かすのは、すべての利用者が自室で寝静まってから。
職員が忙しそうに背中を向けていては、利用者がせっかくの頼りごとを諦めてしまうからだ、と。
その優しすぎる考えもまた、利用者への無垢な慈しみから生まれていた。
だから、誰もその方針に異を唱えることなどできない。
夜の23時を過ぎた頃。
ようやく、リビングに残っていた最後の利用者が、満足したように自室の扉の向こうへと戻っていく。
朝音は、退勤時間が過ぎてもその場に残り、状況を確認していた。
利用者のいなくなった静寂のなかで、壁の時計を見上げた。
23時28分。
本当の夜勤の戦いは、そこからだった。
溜まりに溜まった洗濯。
フロアの掃除。
翌朝の慌ただしい準備。
そして、今日一日の支援記録。
遠野は、手慣れた無駄のない手つきで、それらの山積みの業務を淡々と片付けていく。
利用者が起きている時間には決して手をつけられなかった仕事が、夜の帳が降りきったこの時間に、一気に押し寄せてくる。
全ての業務を終えた頃には、日付はとっくに変わり、深夜の静寂が深く深くホームを包み込んでいた。
リビングの片隅には、間に合わせの簡易的なソファベッドがぽつんと置かれている。
屏風を立てて、周囲からの視線を辛うじて目隠しをしただけの、あまりに心許ない仮眠スペース。
遠野は疲弊した身体を、そこへ滑り込ませるようにして横たえた。
だが、どれほど身体が重くとも、完全に深い眠りへ落ちることは許されない。
夜の闇のなか、あらかじめ決められた時間を刻む巡視の義務がある。
利用者によっては、心細さや不安から、「特定の時間には必ず部屋を見にきてほしい」と切実に希望する人もいた。
そして、静まり返った深夜。
足音も立てずに利用者がふらりとリビングへ出てくることも、決して珍しくはなかった。
「……お茶をください」
暗闇に響くそんな微かな声に、何度仮眠を破られ、身体を起こしたか分からない。
朝音は、深い眠りについた静かなリビングを、そっと見渡した。
誰も悪くないのだ。
ここで暮らす利用者も。
夜を削って動く職員も。
そして、理想を信じる夢人も。
皆、本当に、透き通るような善意のままで動いている。
だからこそ、朝音の胸の奥は、凍りつくように怖かった。
目の前の利用者の希望。
ともに暮らす他利用者のささやかな生活。
現場を支える支援員の休息。
そして、組織として命を守るための安全。
どれか一つだけを天秤にかけ、守ることは決してできない。
そのすべてを、誰の犠牲もなしに包み込める強固な仕組みが、今の真清にはどうしても必要だった。
それは、夢人が語る美しく脆い優しさを否定するためではない。
その優しさを、現実の濁流のなかで、決して壊さないためだった。




