第3ー3話 うつわ、さがす きおの あさおと
生野器音の入居についての話があったのは、その頃だった。
支援区分6。
他害あり。
その記載だけで、朝音には十分だった。
共同生活援助の枠組みで支えるには、相当な準備と体制が必要な利用者であることを、その紙の重みが無言で告げていた。
朝音はアセスメント資料から目を離し、静かに息を吐いた。
不安だった。
器音自身が、他利用者が、夜勤者が、環境を巻き込むこのホーム全体が、いつか均衡を失ってしまうのではないかという予感が、胸をかすめる。
だが夢人は、いつもの穏やかな笑顔で言った。
「この子にも居場所は必要ですから」
その言葉は正しかったし、朝音も否定しなかった。
ただ、心のどこかで思っていた。
居場所は願うだけでは作れないのだと。
荒れ狂う嵐のような衝動さえも、そっと包み込んで破綻させない、強固な支える器が必要なのだ、と。
資料が語る器音の過去は凄惨だった。
器音が利用中の日中支援型施設では、要求が通らないたびに激しい雄叫びを上げ、やがて他害行為へと発展したという。
職員だけでなく、他の利用者へも拳を振るうようになり、ついには退去を余儀なくされた。
入浴や口腔ケア、髭剃りに全身への軟膏塗布。
最高度を意味する「区分6」の彼に付き従う個別ケアの山は、どれもスタッフが1対1で張り付かなければならないものばかりだった。
法律の最低ラインである「スタッフ1人体制」で彼を迎え入れれば、そのケアの最中、残された利用者は完全に誰も見守れない空白に置かれる。
もし他害が起きれば、現場は一瞬で崩壊し、大事故に繋がるのは目に見えていた。
しかも、開設間もないこの第二真清ホームは、未経験者の職員が多く脆弱であった。
「今の体制で彼を受け入れるのは、あまりにも荷が重すぎます」
朝音の必死の進言にも、夢人は「ここで受け入れなければ彼に行く宛がない」と頑なに譲らなかった。
2名体制を求めても、満床に満たないホームには人件費の余裕がなく、そもそも福祉業界の深刻な人手不足で、雇いたくても人が集まらない。
法律の「最低限の人数」でギリギリの黒字を出さなければ潰れてしまう。
それもまた、目を背けられない現実だった。
福祉における純粋な理想は、時に全員を巻き込む引き金になる。
夢人は善意の人だ。
誰かを見捨てることができない。
だが善意だけでは、緊急時の修羅場は止められない。
他事業所からの応援も、スタッフの急なチェンジも、この慢性的な人手不足の中では絵空事だった。
今いる職員で、何が何でも現場を持たせるしかない。
それが、目を背けられない冷酷な現実だった。
朝音は、腹をくくった。
自分も支援に入ろう。
サビ管である朝音が現場に入るということは、行政が敷いたあまりに煩雑な書類を、すべて一人でクリアしなければならないことを意味している。
日中も常時の見守りが必要な器音のため、平日は外部の生活介護事業所へ通うことを提案した。
しかし、器音本人から「通所するのは最大週2日間」との希望が寄せられた。
残りの平日は、ホームで過ごすことになる。
介護サービス包括型の真清ホームが日中支援をするための手続きには、体制届と日中支援加算(Ⅰ)の算定にかかる届出書が必要となる。
朝音が生活支援員として専従する時間を明確に切り分けた、1分も偽りの許されないシフト表。
理由を克明に文字にした個別支援計画書の作り直しから、監査の目に耐えうる毎日の実施記録まで、そのすべてが朝音の双肩にのしかかる。
さらに、その事業所が休みになる土曜日と日曜日。
法律の冷酷なルールにより、土日祝日の日中の見守りは、本来の「日中支援加算Ⅰ」の対象外となる。
土日は加算がないから本来は支援はなく、ホームに職員が常駐しない「利用者だけになる時間帯」が生まれてしまう。
そんな職員不在のホームに彼を放置すれば、一歩間違えれば他害が起きる。
土日だけは、朝音が本来の事務仕事をホームに持ち込み、自らリビングに常駐して、実質的な支援員として見守る形を取るしかなかった。
不正請求を疑われぬよう、極めて狭い制度の隙間を縫うような、危うい書類処理を重ねる必要もある。
サビ管の負担は、これまでの倍以上に膨れ上がった。
夢を語る一ノ瀬夢人は、その裏で発生する加算申請の不透明な深淵も、朝音の肉体が削られていく事実も、何一つとして自覚していない。
危険は分かっている。
無理も分かっている。
それでも、夢人が見ている理想を、現実に落とし込む人間が必要だった。
ならば、自分がやるしかない。
湯呑みの中で完全に冷え切ったお茶の、その暗い水面を見つめながら、朝音は心の中で静かに、しかし激しく、まだ見ぬ彼を守るための無骨な器の設計図を引き直していた。




