第3ー2話 うつわ、さがす きおの あさおと
前任のサービス管理責任者との引き継ぎは、半日ほどで終わった。
穏やかな女性だった。
利用者たち一人ひとりの特徴を丁寧に説明しながら、時折どこか申し訳なさそうに笑う。
「本当はもう少し引き継ぎしたかったんですけどね」
「有給消化ですか?」
「そうなんです」
女性は苦笑した。
「一ヶ月ほどお休みをいただいて、そのまま退職になります」
朝音は素直に驚いた。
「そんなに有給が残っていたんですか」
「使うタイミングなくて」
あっさりと言ったその言葉の裏で、女性の使い古されたボールペンが、カチ、カチと小さなノック音を響かせていた。
傾いた西陽に透ける、彼女のひどく薄くなった爪の生々しさ。
朝音はこの時の彼女の乾いた声を、深くは考えなかった。
ただ、境界線のない底なしの優しさに磨り減っていったような、少しだけ疲れた笑顔が、なぜか冷たい予兆の影のように、朝音の心にいつまでも残った。
*
夢人は良い代表だった。
「佐野さん、これ、今日の見学の方の資料なんですけどね」
そう言って管理者室のドアを開ける夢人の手には、いつも丁寧に淹れられたお茶が握られていた。
目元が優しく下がり、日だまりのような穏やかな笑みを絶やさない。
洗いざらしの優しい色合いのシャツはいつもピシッとしていて、彼の丁寧な人柄がそれだけで伝わってくるようだった。
夢人は、利用者の話をするとき、本当に嬉しそうに目を細めた。
「この方、前の施設ではなかなか馴染めなかったそうなんです。でも、うちのホームの写真を見たら『ここに行ってみたい』って言ってくださって。嬉しいなぁ。僕たちの場所が、その人にとっての新しい安心になれたら、こんなに幸せなことはないですよね」
その声には、一切の打算も、ビジネスライクな冷徹さもない。
ただ純粋に、生きづらさを抱えた人々に寄り添おうとする、ひたむきな善意だけが満ちていた。
職員への感謝も、彼は決して忘れなかった。
急なシフトの変更に応じてくれた非常勤職員がいれば「本当に助かりました、ありがとうございます」と丁寧に頭を下げ、夜勤明けのスタッフには「お疲れ様でした。しっかり休んでくださいね」
と、わざわざ玄関まで見送りにいく。
そんな代表だからこそ、利用者からも保護者からも、絶大な信頼を寄せられ、深く慕われていた。
保護者面談の席で、涙を流しながら「一ノ瀬さんにお会いできて本当に救われました」と手を合わせる母親の姿を、朝音は何度も目にした。
だから朝音も、このホームを良くしたいと思った。
この人と一緒なら、従来の福祉の枠に囚われない、本当の意味で利用者に寄り添った新しい居場所を作っていけるかもしれない。
そう信じているし、協力したいと心から思っている。
まだ見ぬ未来のホームの姿に、胸を躍らせるような期待を抱いていた。
もちろん、専門職としての小さな引っかかりが、全くなかったわけではない。
夢人が「あの人がそうしたいなら、少し融通を利かせてあげましょうよ」と、支援計画にない例外をあっさりと認めてしまう瞬間を目にすることもあった。
けれど、新設されたばかりのホームだ。
最初から完璧な仕組みなどあるはずがない。
何よりも、代表のあの純粋な想いは本物なのだから。
少しずつ話し合いながら、一緒に形にしていけばいい。
事務机の端、夢人が置いていった湯呑みから、白い湯気が優しく立ち上っている。
朝音はその温もりを両手で受け止めながら、代表の掲げる理想を支えようと、ただ前だけを見つめていた。
*
数ヶ月後。
新設された二号棟は、少しずつ地域に溶け込み、順調に動き始めているように見えた。
「佐野さん、〇〇さんの今日の夕食なんですけど、少し柔らかめに刻んだほうが良さそうです」
「ありがとう。じゃあ、個別の調理手順書に追記しておくね」
新しく採用された非常勤職員たちと声を掛け合い、朝音はサービス管理責任者として慌ただしくも充実した日々を送っていた。
利用者がリビングでテレビを見て笑い、世話人がキッチンでリズミカルに包丁を動かす。
そんなありふれたホームの日常のなかで、朝音は夢人の理想を共に形にしている手応えを感じていた。
だが、その歯車は、目に見えないほど小さな音を立てて狂い始めていく。
新しく入ったばかりの、穏やかな50代の女性職員が、ある日の夕方、申し訳なさそうに管理者室にやってきた。
「佐野さん、本当に急で申し訳ないのだけど……今月いっぱいで辞めさせてほしくて」
驚く朝音に、彼女は困り果てた顔で、一人暮らしをしている息子にトラブルがあり、しばらく実家に戻ってくる彼を支えなければならなくなったのだと語った。
「ご家庭の事情なら、仕方がありませんね。お力になれずすみません」
朝音は彼女の言葉を疑うことなく受け入れ、温かく送り出した。
しかし、それが始まりだった。
二人目の、若い男性職員が辞めたいと言ってきたのは、そのわずか二週間後のことだった。
本業である昼の仕事の都合が変わり、どうしても夜勤のシフトに入れなくなったのだという。
「急に会社から言われてしまって……。せっかく慣れてきたのに、すみません」
さらに三人目の、いつも熱心に動いてくれていた40代の女性職員までもが、暗い顔で退職を希望してきた。
「最近、どうも夜中に動悸がして、眠れなくなってしまって。健康に不安がある状態では、大切な利用者さんの命を預かる仕事は続けられません」
一人。
また一人。
そしてまた一人。
退職の理由は、それぞれ違った。
家庭の事情、本業の都合、安定しない体調。
どれも嘘ではないのだろう。
語る彼らの目には、本当に申し訳なさそうな色があった。
けれど、朝音の胸の奥には、説明のつかない微かな違和感が、静かに澱のように積もり始めていた。
ある日の夜勤明けのことだった。
創業時代から夢人を支えている50代の古参世話人、榊原恒一が、誰もいない給湯室でコーヒーを淹れながら、朝音にポツリと声をかけてきた。
「佐野さん。また新しい人が辞めるんだって?」
「ええ……。皆さん、ご家庭の事情や体調不良で。タイミングが重なってしまって、本当に心苦しいです」
朝音がため息をつくと、榊原は白髪の混じる頭を少しだけ掻き、苦い笑みを浮かべた。
「みんな、良い人だからね。夢人さんの理想に共感して、役に立ちたいと思って入ってくる。でもね、優しいだけの場所ってのは、時に一番残酷なんだよ。気づいたときには、自分の削られた肉の痛みに耐えられなくなってる」
榊原はそれ以上何も言わず、淹れたてのコーヒーを持ってリビングへと戻っていった。
その広い背中を見送りながら、朝音は冷たい何かが背筋をなぞるのを感じた。
朝音は、使い古された事務机の上で、次々と削られていくシフト表をじっと見つめていた。
抜けた穴を埋めるために、自分の名前が夜勤の欄に増えていく。
明確な答えは出ないまま、ただ、静かな部屋にエアコンの微かな駆動音だけが響いていた。




