第2ー3話 まばたき、ほうこうする あさおと
キャンバスを囲む5人の額には大粒の汗が光り、瞬は疲れ果てたように右手をだらりと垂らしながらも、充実感に満ちた顔で荒い息を吐いていた。
やがて、会場を包む空気が、夕暮れの琥珀色へと染まっていく。
いよいよ審査発表の時刻。
芝生広場の中央ステージには審査員たちが並び、1位から10位までの入賞チームが順に読み上げられていく。
大型モニターに次々と映し出されるのは、有名デザイン事務所や洗練された最先端のグラフィックばかりだ。
隣のテントのデジタルチームの青年たちは、祈るような硬い表情のまま、冷たい光を放つ大型モニターをじっと見つめていた。
画面に新たな入賞作品が映し出されるたび、リーダー格の青年の白く強張った指先が、握りしめたタブレットの硬質な縁をわずかに強く、きしむほどに押さえる。
彼らもまた、この日のために血を吐くような思いで積み上げてきたすべてを、この場所で、何が何でも証明しようとしていた。
しかし、3位、2位、1位と発表されても、彼らの名前が呼ばれることはなかった。
「……届かなかったのか」
青年たちの表情から、張り詰めていた糸が、静かにほどけ落ちていった。
彼らのデザインは美しく、洗練されていた。
けれど、その背景に広がる、街の物語を背負うには、ほんの少し、何かが足りなかったのかもしれない。
ピエールのテントにも、諦めと静寂の影が落ちかけようとしていた。
残る枠はあとひとつ――特選として最後に選ばれる、10チーム目。
審査委員長がマイクの前に立ち、少し興奮した面持ちで口を開いた。
「最後の作品は、技術や計算とは別の場所から、我々の心を強く揺さぶってくれました」
マイクを通した大きな声に、瞬の肩がピクリと跳ねる。みんながじっと前を見つめる静かな空気の中で、瞬もまた、引き込まれるようにステージの上の審査委員長を見つめていた。
「確かに、商業ロゴとしての完成度は、まだ荒削りで不格好かもしれません。ですが、商品に込められた熱い祈りのようなコンセプト、そしてこの翠松町という街が紡いできた物語に、何よりも深く、どこまでも寄り添えていたのはこの作品でした。その不器用な美しさに、私たちはこの商品の未来を託したいと思いました。」
一呼吸おいて、静まり返る会場に、審査委員長の声が力強く響き渡った。
「――エントリーナンバー42番。チーム・ピエール!」
その瞬間、エメラルド・パイン・パークの芝生が、本当に揺れたような気がした。
「やったぁぁぁ!」
応援団として固唾をのんで見守っていた美咲たち女性棟の15人と、20人のガイドヘルパーたちが、我がことのように飛び上がって歓声をあげ、涙を流して抱き合っている。
「おれたち……おれたちの、え……?」
拓海が信じられないように呟き、徹が「え、え、やったあ!」と飛び跳ねる。
健吾が吼え、ニノマエが瞬の肩を強く抱きしめた。
隣で朝音が「みんな、やったね」と、あたたかい涙を瞳に浮かべて微笑んだ瞬間、一気に感情が決壊した。
歓喜に沸くピエールのテントの横で、隣のテントのデジタルチームは、荷物をまとめながら苦渋の表情でうなだれていた。
そんな彼らの背中に向かって、瞬が一歩、踏み出した。
「あ……あの……っ」
まだ言葉のプロセッサが追いつかない、たどたどしい声だった。
3人が怪訝そうに振り返る。
瞬は震える右手をぎゅっと握りしめ、真っ直ぐに彼らを見つめた。
「お、おれたちの……となりの、パソコンの、え……すごく、まっすぐで……きれいで……かっこ、よかった。お、おれたち、まけないように、いっぱい、かいた……。だから……あの、え、すご、すごいです……!」
不器用で、幼稚に見えるかもしれない言葉。
けれど、そこには皮肉も悪意も1ミリも混ざっていない、純度100%の、クリエイターとしての敬意があった。
3人は目を見開いた。
自分たちが無意識に抱いていた頑なさも、焦燥も、傲慢な眼差しさえも、
彼は責めることなく、ただ、まっすぐな敬意で包み込んでしまったのだ。
3人の顔から棘が消え、しばらくの沈黙の後、リーダーの男が少し照れくさそうに頭を掻いた。
「……無礼な振る舞い、本当に申し訳なかった。あなたたちの絵、凄かったよ。おめでとう」
そう小さく言い残して去っていく3人の背中は、どこか清々しかった。
ピエールの生々しくも純粋な色彩の咆哮が、街の人々だけでなく、彼らの心の奥底にも、確かに届いた瞬間だった。
――それから、1ヶ月後。
初夏の爽やかな風が、翠松町の海から吹き抜ける季節。
『れかんの家』のリビングに、大きなクール便の段ボール箱が届いた。
「みんな、集まって。ついに届いたよ」
朝音の声に、ピエールの5人はもちろん、女性棟の何人かも集まり、そわそわと席を詰める。
朝音が丁寧にテープを剥がし、箱を開けた。
冷たい冷気とともに現れたのは、ついに製品化された、美しく凍る『エストリア・スパイス・テリーヌ』の本物のパッケージだった。
「あ……」
瞬が息を呑み、そのまま言葉を失った。
パッケージの真ん中には、あの日、彼らが魂をぶつけ合って描き殴った、あの力強くも美しいロゴが、何一つ薄められることなく、堂々と、そして誇らしげに輝きを放っている。
既成のルールや枠なんて知るかと言わんばかりに叩きつけられた、あの生々しい色彩の咆哮が、商業デザインという整えられた枠の中で薄められることなく、ひとつの物語として息づいていたのだ。
「みて……! ここ……おれたちの、なまえ、ある……!」
製品の隅には、クリエイター名として『チーム・ピエール』の文字が、はっきりと刻まれている。
さらに箱を開けると、そこには1枚の美しいクレジット・インサート(紙片)が同梱されていた。
この物語を世界へと乗せるために、言葉の魔法をかけた人物がいる。
ホーム運営会社の飲食部門のキッチンチーフであり、福祉部門の食事の献立担当として関わる酒井――その実体は、世間を賑わせる人気覆面詩人『アワイノカナタ』であり作家『酒井善章』でもあるという、桁外れの属性渋滞を起こしているあの天才だ。
朝音がその紙片を手に取り、静かに、優しい声で読み上げる。
そこには、このテリーヌが生まれるまでの背景と、それに命を吹き込んだ『れかんの家の人々』の、不器用で、けれどあまりにも気高い魂の物語が、酒井の手によって一篇の美しい詩のように綴られていた。
自分たちの生きた証が、名前が、既成の枠を超えた魂の形が、この小さな紙に乗って、これから世界中の人々の元へと響き渡っていくのだ。
瞬の瞳から、あたたかい涙がぽろぽろとこぼれ落ち、テリーヌの箱を濡らした。
ニノマエも、健吾も、拓海も、徹も、そのパッケージを世界で一番大切な宝物のように、愛おしそうに代わる代わる両手で抱きしめていた。
女性棟の面々も、まるで自分のことのように涙を拭いながら微笑み、リビングはいつまでも、おしみない拍手で満たされていく。
世界がそっと息を吐くような静かな音色と、すべてを優しく包み込むぬくもりの光。
その穏やかな気配は、瞬の瞳からこぼれた涙と、彼らがここで過ごした一瞬のきらめきを愛おしく見つめているかのようだった。
朝音の響きは、命の調べと溶け合いながら、ただひたむきに、咆哮をあげた命の色彩が、いま光の中で動き出す。
――さあ、胸を張って。世界へ響け、まばたき、ほうこうする君たちのあさおと。




