第2話 仮想世界での願夢
元気に小走りで街の方向へ戻っていくニーナの後ろ姿を、蒼は穏やかな目で見送った。
「……さて、素材の回収とレベル上げを再開しますか」
蒼は小さく息を吐くと、再び『断崖の荒野』の奥深くへと視線を戻した。
蒼の目的は最前線のランカーのようにレベルの頂点を目指すことではない。あくまで、今後本格的に開始するスローライフと生産活動の下地を整えることにある。
『断崖の荒野』は、一撃食らえば大半のHPを失う危険なアクティブモンスターであるクレイジー・ボアが徘徊する危険地帯だ。そのため、安全に効率よくレベリングを行いたい一般プレイヤーたちはこのエリアを好んで選ばない。
必然的に、この荒野はプレイヤーの足がほとんど届かない「手付かずの資源の宝庫」と化していた。
蒼は木刀を手に、襲いかかってくるクレイジー・ボアの突進を最小限の動きでいなし、正確に急所を突いて着実に討伐を重ねていく。
レベル差補正による経験値は大きかった。数体の討伐をこなした時点でさらにレベルが上昇し、ステータスにわずかな余裕が生まれていく。
◇
レベリングの合間に、蒼はしゃがみ込んで足元の植物や鉱石の採取を忘れない。
インベントリを開き、手際よく素材を回収していく。薬草、色鮮やかな野花、頑丈な蔓、加工用の枝や木材、ただの石、不純物の混じった鉱石、さらには特殊な成分を含んだ砂や泥に至るまで、多種多様なアイテムが手に入る。
採取を続けていると、インベントリの片隅に表示されている所持総重量の数値の色が変わった。
『所持総重量:80%』
このゲームの仕様上、総重量の80%を超えると『過重ペナルティ』が発生し、移動速度の低下や回避動作の硬直時間増大といった致命的なデバフがかかる。90%で更に悪化し、100%では移動不能となる。
(危険地帯であるここで動きが鈍るのは愚策だ)
一撃即死の危険があるクレイジー・ボアの生息域において、回避の遅れは即座の死を意味する。だからこそ、重量上限の80%未満――安全圏である「79%」のラインを維持することが絶対条件だった。
(……この先の採集も考慮し、汎用性の低いただの石や使い道の乏しい雑草類はここで廃棄しておこう。浮いた容量には、より密度の高い鉱石や有用な薬草を回すべきだ)
蒼は現実の仕事における在庫管理と同じ要領で、インベントリ内のアイテムを瞬時に査定し、価値の低い素材を手放してスペースを調整していく。
(――おや?)
そうして素材の厳選を進めていた時、恐らくボアが掘り返したであろう岩陰に、他とは見た目の違う鉱石が混ざっていることに気づいた。
蒼はその場に歩み寄り、慎重に土や石をかき分ける。そこにあったのは、一般的な鉱石とは明らかに異なる、神秘的な文様が刻まれた歪な形をした鉱石だった。
採取コマンドに手を触れると、視界の端に淡い光のウィンドウが浮かび上がる。
『【幻火石】を獲得しました』
『触媒として利用できる希少な鉱物素材。本来反発し合う属性を定着させるための、優秀な融和触媒』
「……なるほど。人が寄り付かない危険地帯だからこそ、こうして誰にも回収されずに高ランクのレア素材が残っているわけですね」
手付かずの荒野だからこその密度の高い成果を得ることができた。
蒼は静かに頷くと、手に入れた一株だけの幻火石をインベントリへと丁寧にしまい込んだ。
レア素材も手に入り、重量がデバフ発生手前の限界近くを維持するように調整しながら、危険なモンスターを警戒しつつ、蒼は採取を続けた。
◇
素材集めを終え、蒼は大きく息をついた。
「ふう……。換金目的としても、当面の生産材料としても、十分すぎる量が集まりましたね」
長時間の緊張感ある探索と採取作業の連続で、さすがに精神的な疲労がわずかに溜まっていた。蒼は近くにあった手頃な平らな巨岩を見つけ、そこに腰を下ろして小休止を取ることにした。
冷たい外気が頬を撫ぜる中、蒼は首を大きく回して周囲の景色を見渡した。
「……すごい、ですね」
思わず、独り言が漏れた。
眼前に広がっていたのは、現実の東京都心のコンクリートジャングルや、息の詰まる無機質なオフィスの空間とはあまりにもかけ離れた、圧倒的な大自然のパノラマだった。
赤茶けた荒野の向こう側には、どこまでも果てしなく続くセピア色の地平線と、茜色に移り変わり始めた夕空が壮大なグラデーションを描いている。遠くの断崖絶壁を縫うようにして流れる細い滝からは、水飛沫が霧となって黄金色の光を反射していた。
五感のすべてに伝わってくる風の匂いや、鳥のさえずりのような環境音は、寸分の狂いもなく本物の自然そのものだった。
現実では、こんな風にただ座って夕暮れの景色を眺めるような時間なんて、何年も持っていなかったなと蒼は思い返す。
大学を卒業してブラック企業に就職して以来、彼の人生から「余白」という時間が完全に消え去っていた。
朝起きてから夜遅くまで仕事に追われ、休日は疲労のあまり意識を失うように眠るだけ。季節の移り変わりや自然の美しさを感じる心の余裕など、とうの昔にすり潰されていた。
しかし、この仮想世界――『アストラル・クロニクル』は違った。最新のVR機器が必要ではあるが、脳波誘導による完璧な睡眠で現実の肉体はしっかりと休息を取り、この世界では自らの意思で歩み、自分の目で美しい景色を見ることができる。
「……VRゲームが、世界中でこれほどまでに人々を熱狂させ、愛されてきた理由が、少しわかる気がします」
蒼は静かに息を吐き出し、穏やかな笑みを浮かべていた。
もし、現実の、あの過酷な労働環境からいつの日か完全に解放されることができたなら……。
その時は、この広大な世界のどこか静かな湖畔に小さな家を建て、朝から晩まで釣り糸を垂らし、今日集めたような素材を使ってのんびりと料理や薬の調合をして暮らす。そんなささやかで、何物にも代えがたい理想のスローライフを営むことができたなら、どれほど素晴らしいだろうか。
この世界で本格的にスローライフを送れたら、確かに最高の人生かもしれないなと、蒼は心の中でそっと呟いた。その胸の奥には、絶望と疲労に満ちた日常とは異なる、確かな温もりと未来への希望の灯火が宿っていた。
◇
小休止を終え、心身ともに軽いリフレッシュを完了させた蒼は、立ち上がって自身のステータス画面を開いた。
「さて……リフレッシュはこれくらいにして、次の作業へ移りましょうか」
素材集めと並行してクレイジー・ボアの狩りを継続した結果、蒼のプレイヤーレベルは順調に上昇し、この『断崖の荒野』エリアに君臨するエリアボスへと挑むための推奨到達レベルに到達していた。
ここでエリアボスの討伐が必要なのには、合理的な理由があった。
第一に、このエリアのボスを撃破し、その奥にある未踏の採集ポイントや隣接エリアへの道を開けば、序盤の生産スキル上げにおいて、最も効率が良い上質な素材を手に入れることができること。
第二に、このゲームのシステム上、各エリアのボスを撃破して地域の安全を確保したプレイヤーは、周辺の村や街のNPCたちからの評価が大きく向上するというメリットが存在していたこと。NPCとの関係値が良好になれば、一般の店では手に入らない特別なレシピを譲り受けたり、隠しショップの利用権が開放されたりと、スローライフを営む上で計り知れない恩恵を受けることができる。
遠回りに見えて、第一層のエリアボスを確実に撃破することが、結果的に最もスムーズなスローライフへの近道だった。
ビジネスにおけるプロジェクトマネジメントと同様に、目的から逆算した最適なロードマップを頭の中で組み立てた蒼は、迷うことなく『断崖の荒野』の最奥部にそびえ立つ、エリアボスの巨大な門扉へと向かって歩き出した。
◇
断崖の荒野のどん詰まり。そこには、周囲の岩肌とは明らかに異質な古代の黒い石材で組み上げられた巨大な円形闘技場のような建造物が鎮座していた。
その中央の扉の前に立つと、システムから警告のウィンドウがポップアップする。
『これより先は、【断崖の荒野】エリアボス【アイアンタスク・ボア】の生息領域となります。進入しますか?』
『[はい] / [いいえ]』
蒼は迷うことなく[はい]を選択した。
「……失礼します」
重い石の扉がギギィと音を立てて内側へと開き、蒼は静かにその中へと足を踏み入れた。背後で巨大な石扉が音を立てて閉ざされ、退路が断たれる。
闘技場の中央に広がる広大な石畳のフィールド。その中心でじっとうずくまっていた影が、ゆっくりと立ち上がった。
『エリアボス【アイアンタスク・ボア】が出現しました!』
現れたのは、通常のクレイジー・ボアとは一線を画す巨獣だった。体長は四メートルを超え、全身を覆う剛毛はまるで鋼鉄の如き鈍い光を放っている。口元から突き出た牙は巨大なサーベルの如く湾曲し、その巨体が発する殺気だけで周囲の空気がビリビリと震えているように感じられた。
蒼は腰の木刀を引き抜いたが、相手の分厚い皮膜を見据えて即座に理解した。初期装備の物理攻撃では、まともに叩き込んでもダメージは通りそうにない。
アイアンタスク・ボアが低く重い鼻息を吐き出し、赤く輝く目を蒼へと向けた。
次の瞬間、巨体が地面を粉砕しながら、凄まじい加速で突進を開始した。
ゴォォォンッ!!
爆発的な初速。巨大な鉄の牙が迫る中、蒼は体幹を最小限にずらして横へと身をかわした。
ガァァァンッ!!
背後の壁にボアが激突し、激しい衝撃波と巻き上がった瓦礫が蒼を襲う。直撃は免れたものの、風圧と破片だけでHPバーが2割近く一気に削られた。
また、すれ違いざまに木刀を側腹部へ打ち込んでみたものの、硬質な打撃音が響くだけでボアのHPゲージはミリ単位すら動かない。それどころか、木刀の耐久度インジケーターが黄色く点滅を始めた。
自身の火力では削りきれない。だが、蒼の視線はボアが激突した闘技場の壁面へと注がれていた。
古代の黒石で組まれた壁は、ボアの強烈な突進を受けて大きな亀裂が走り、天井付近の巨大な石柱がグラリと傾いている。
(――なるほど。自前の火力ではなく、マップの構造破壊を利用した環境ダメージですね)
ボアの圧倒的な質量と突進力を、そのまま構造物を破壊するハンマーとして利用する。
第一層での初期エリアでは強すぎる能力を持ったボス。その撃破方法を瞬時に見抜き、方針を固めた蒼は、傾いた石柱が真上に位置する壁際へと迷わず移動した。
ボアが反転し、二度目の突進を仕掛けてくる。壁を背にした蒼に向かって、死の直線軌道が伸びる。
背後は壁。一歩間違えれば挟み潰されて即死するリスクの中、蒼はコンマ数秒の限界まで引きつけた。
「……そこです」
牙が鼻先をかすめる超近距離。蒼は横へ跳ぶのではなく、踏み込みと同時に体を倒し込むようにして軸を外した。
ドゴォォォォンッ!!
ボアの全重量が乗った突進が、狙い過たず亀裂の入った壁の基部へ叩きつけられた。
闘技場全体が激しく揺れ、壁面が大きく破砕される。その衝撃に耐えきれなくなった頭上の巨大な石柱と大量の瓦礫が、重力に従ってボアの真上から一斉に崩落した。
ズザザーーッ! ドカンッ!!
「グオオオオオッ……!?」
悲鳴のような咆哮が響き渡る。頭上から降り注いだ巨大な石塊の群れがボアの巨体を直撃し、下敷きにされたボアのHPゲージが一気に三割以上削り取られた。
しかし、崩落の巻き添えによる衝撃波と粉塵が蒼にも襲いかかり、足元をすくわれて地面を転がる。HPがさらに削られ、残り三割を切って赤く点滅し始めた。
「くっ……!」
ボアもタフだった。崩れた瓦礫を爆破するように吹き飛ばし、血走った目で起き上がってくる。HPが減ったことで全身の剛毛が赤く発光し、暴走状態へと移行した。
突進速度が増し、崩壊しかけた闘技場のあちこちから石片が零れ落ちる。
残りHPはわずか。スタミナも底をつきかけている。蒼は視界を濡らす汗を拭う暇もなく、まだ原型を保っている反対側の巨大なアーチ状の梁へと目を向けた。
あそこが最後の支柱だ。あそこを潰せば、闘技場中央の天井構造全体が崩れ落ちる。
赤く染まったボアが地響きを立て、狂乱のスピードで突進してくる。
蒼は崩落した瓦礫の足場を滑るように駆け抜け、危険なアーチの真下へとボアを誘い込んだ。曲線を描いて迫る鉄の牙。死の圧力が全身の皮膚を刺す。
コンマ一秒の極限状態。蒼はボアの突進の死角——持ち上がった巨大な牙の下へ自ら飛び込むように滑り込み、死角から木刀の最後の耐久度を賭けて足首の関節へ一撃を添えた。
バシィンッ! と木刀が粉砕されると同時に、ボアの体勢がわずかに傾き、突進の軌道がアーチの主柱へと完璧に固定された。
ドガァァァァンッ!!
凄まじい破壊音が闘技場にこだました。主柱を砕かれた天井構造が限界を迎え、巨大な石の天蓋ごと、ボアの真上へと完全に崩落した。
天地を揺るがす大崩落。大量の光煙と瓦礫が闘技場の中央を完全に埋め尽くす。
やがて静寂が戻り、煙の向こう側で瓦礫の下から漏れ出していた無数の光の粒子が、空へと弾け飛んでいった。
『【断崖の荒野】エリアボス【アイアンタスク・ボア】の討伐に成功しました!』
『初回クリア報酬として、【奥地エリアへの通行証】および【上質な鋼鉄の端材】を獲得しました』
『周辺地域のNPCからの評判値が上昇しました』
「ふう……。なんとか、勝てましたね」
蒼は膝に手をつき、肩で荒い息を吐いた。
手元に残ったのは砕けた木刀の柄だけ。HPバーはミリ単位の危険域、スタミナも底をつき、全身に強い疲労感が広がっている。
だが、自前の力ではなく環境と相手の力を利用する方法で難局を突破した胸の奥には、確かな達成感が満ちていた。
報酬のアイテムと辺りに散らばったドロップ素材を確実に入手し、インベントリへと収納する。
道具も肉体もすり減らした死闘の末に掴み取った勝利により、求めていた上質な素材が集まる新エリアや、静かなスローライフのための道が確かに拓かれた。
蒼は折れた柄を静かにインベントリへ収めると、息を整えて次なるエリアへと繋がる光のゲートへ足を踏み出していくのだった。




