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限界労働者の再生、あるいは暗闇からの解放  作者: エソラ
【第2章】スローライフと、無自覚の異能
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第1話 スローライフを送るために

朝日が『アストラル・クロニクル』の始まりの地、第1階層「始まりの街」の南草原を柔らかく照らし出していた。青々とした草葉が風にそよぎ、澄み切った空気が視界の果てまで広がっている。


その草原の静かな一角で、蒼は無心で木刀を振り下ろしていた。


シュッ、と鋭く空気を切る音が一定のリズムで響く。


現実世界で長年彼を苛んできた酷い倦怠感や、神経伝達のラグはここには一切存在しない。頭の中で描いた完璧な軌道そのままに、木刀が滑らかな円弧を描いて空間を切り裂いていく。


自然な構えから、無駄な力みを一切排し、最小限の体幹移動だけで繰り出されるその一閃は、傍から見れば洗練された武芸者の動作そのものであった。


「……ふぅ」


千回目の素振りを終え、蒼は静かに息を整えた。

振れば振るほど、感覚が研ぎ澄まされていくような感触。現実世界で行う素振りよりも、終えた後の爽快感が段違いに湧き上がる。


本人は単なるいつもの型稽古のつもりであったが、その正確極まりない動作の反復は、ゲームシステム側において「極めて精度の高い剣術判定」として処理され続けていた。熟練度や基礎ステータスへの経験値は着実に蓄積されていて、本人が全く自覚しないまま、その爽快感と共にプレイヤーとしての能力は成長していた。


木刀を静かに腰の鞘へと戻し、蒼は草原の彼方を見つめた。


(さて……本来の目的であるスローライフを始めるにあたって、まずは現状の確認だな)


◇


広場を離れ、初期の安全エリアから少し外れた雑木林へと足を踏み入れる。そこには、サービス初期のプレイヤーたちが狩りの対象とする小動物系のモンスターがうろついていた。


「……グルル」


茂みから姿を現したのは、灰色の毛皮に覆われた体長一メートルほどの野犬型モンスター、ウルフだ。


ゲームを開始したばかりの初心者プレイヤーであれば、目の前に飛び出してきたモンスターの威圧感に気圧され、手元の回復アイテムを連打しながら力任せの攻撃スキルをぶつけ合う、いわゆる「ゴリ押し」の戦闘を選択する典型的な相手である。


蒼は特に焦ることもなく、静かに初期装備の木刀を構えてその場に立った。


(さて、どれほどのものか……)


ウルフが低い唸り声を上げ、四肢で地面を蹴って一直線に飛びかかってくる。

その瞬間、蒼の瞳孔がわずかに引き締まった。


(――ん?)


視界に映るウルフの挙動が、なぜか異様なまでにスローモーションのように脳裏へ焼き付いた。


飛びかかりの直前、足を踏み込み、身をわずかに沈めるその瞬間――モンスターの全身の動きが、ほんの一瞬だけ、物理的にはありえないほどの短い間、コマ送りのように静止したように感じられたのだ。


(攻撃モーションに移る直前、確実にタメの動作が入る。……待てよ、これなら)


一般的なプレイヤーの場合、ダイブギアの標準的な脳波伝達率の低さを補うためにシステム側のアシスト機能。オート回避や自動軌道補正などが常時オンの状態になっている。


その影響で、プレイヤーが「避けよう」と意識して指令を出した瞬間にも、システム側のモーション判定や硬直時間がわずかに挟まるため、敵の攻撃動作を見てから後手で回避行動をとると、どうしても判定の間に合わないタイミングが発生する。そのため、基本的には「攻撃が来る前にあらかじめ回避スキルを使う」か「盾で強引に受け止める」のが定石とされていた。


しかし、蒼の脳波伝達率は異次元の100%であり、さらにシステムアシストを完全オフのマニュアルにしている。余計なシステムの補正遅延が一切存在しないため、蒼の脳が捉えた視覚情報は、現実の肉体のラグなしに、ダイレクトにアバターの挙動へと直結していた。


(――今だ)


ウルフの飛びかかりが鼻先まで迫ったその瞬間、大掛かりな回避スキルなど一切使わず、右足を軸にして体をわずか十五度ほど滑らかに半身へずらした。


シュッ……!


切り裂くような風圧が、着古した布服の裾をかすめて通り過ぎていく。

ウルフの巨体は、蒼の胸元と紙一重の隙間をすり抜け、そのまま背後の木に激突して盛大に地面を転がった。


被ダメージ表記は出ない。HPゲージは、一ミリたりとも減っていない。


(……なるほど。見てから十分に回避が間に合う仕様になっているわけか)


敵の予備動作のブレを見極めさえすれば、いかなる攻撃も被弾することなくいなすことができる。これほどのロジックが成立するのならば、この雑魚をこのままチマチマと狩り続けるよりも、遥かに高い効率で経験値を稼ぐことが可能だ。


「生産スキルの解放条件を最速で満たすためには、一撃食らえば即死しかねないリスクはあるが、得られる経験値が膨大な高攻撃力・紙装甲の格上モンスターを狙うべきだな」


持ち前の「ゲーム脳」による冷徹なデータ分析力と、ネット上の攻略データベースの記憶を頭の中で高速回転させる。


自分の回避能力と相性が完璧に噛み合うターゲット。それは、一撃食らえば即死しかねないほどの危険な攻撃力を持つ一方で、耐久力が極めて低く、動きの直線的なモンスター――。


「……第1階層の外れ、『断崖の荒野』に生息する『クレイジー・ボア』か」


そのモンスターは、プレイヤーの間では「初心者殺しの第一の鬼門」として有名だった。


防御力を度外視した超高速の直線突進を繰り出し、まともに食らえば一撃でHPが消し飛ぶため、初心者のパーティが次々と壊滅させられてきた忌避すべき存在である。周囲のプレイヤーたちも、安全な初心者狩りフィールドやインスタンスダンジョンに集中しており、こんな危険な外れまで好んで足を伸ばす者はほとんどいない。


(他のプレイヤーが敬遠するエリアで、誰も邪魔されずに静かにレベリングができる。人目を気にせず、ただ作業をこなすにはこれ以上ない理想的な環境だ)


迷う理由は何もなかった。

蒼はウルフを軽く一突きで片付けると、初期装備の木刀の柄を握り直し、目的の地である『断崖の荒野』へ向けて歩き出した。


◇


南草原の平穏な風景を抜け、岩肌が露出し始めた坂道を登り詰めると、視界が一気に切り拓けた。


そこに広がっていたのは、赤茶けた巨岩と荒涼とした砂地が果てしなく続く『断崖の荒野』であった。風が吹くたびに砂塵が舞い上がり、遠くには切り立った断崖絶壁がそびえ立っている。安全な初期エリアとは一線を画す、殺伐とした雰囲気が漂っていた。


(攻略サイトの情報の通り、他のプレイヤーの姿は全く見当たらないな。レベリング環境としては文句なしだ)


蒼は足を止め、荒野の地形と周囲の隠れ場所を冷静に観察する。

遮蔽物となる巨岩の配置や足場の滑りやすさを把握しつつ、目的のモンスターであるクレイジー・ボアの姿を探して視線を走らせた。


索敵を始めてから数十秒後、目指すターゲットの兆候はすぐ近くの岩陰から訪れた。


ガサリ、と干上がった低い草木が大きく揺れた。


岩陰から、赤い目を血走らせたクレイジー・ボアが姿を現した。蒼の姿を視界に収めるやいなや、フシューッ! と荒々しい鼻息を吐き出し、地面を蹄で激しく削り始める。


突進の態勢。


一般的なプレイヤーであれば、その威圧感に気圧され、システムのアシスト機能による回避ボタンを連打するところだ。


だが、蒼は両腕を自然に下ろし、余計な力を入れないいつもの型のまま、動じることなくボアの動きを注視していた。


ボアが前足を深く沈め、全身の筋肉が収縮する。ほんの一瞬、コンマ数秒の「タメ」が生じた。


(……ここだ)


ボアの巨体が地面を蹴り、凄まじい風圧とともに一直線に襲いかかる。

その直前、蒼は身体を急激に捻ったり大きく跳び退いたりすることはしなかった。ただ体勢を保ったまま、軸足をわずかに滑らせて体幹を半身分だけ横へとずらす。


ドオッ! と音を立てて、鋭い牙と巨体が蒼の鼻先数センチを通り抜けていった。


回避の完了。


すれ違いざま、蒼は腰の木刀を滑らかに抜き放ち、ボアの後脚の関節部分へと正確に叩き込んだ。


バシッ!


乾いた打撃音が響き、ボアのHPバーが目に見えて削れ落ちる。


「フゴッ!?」


想定外の反撃を受けたボアは、急ブレーキをかけて猛然と振り返った。さらに苛立ちを募らせ、間髪入れずに二度目の突進を仕掛けてくる。


しかし、蒼の冷徹な観察眼は、二度目の予備動作も完璧に捉えていた。


ボアが踏み込む直前、わずかに頭部が下がる一瞬の隙。


蒼は再び最小限のステップでその突進を軽やかにいなし、通過するボアの側頭部へ木刀の連撃を叩き込む。


バシッ!


被弾なし。無駄な動作なし。


初期の木刀ゆえに一撃あたりの攻撃力は低かったが、ボアの薄い防御力と正確な急所攻撃が重なり、着実に相手の体力を奪っていく。一歩間違えば死という薄氷を踏むような戦闘でありながら、蒼の表情には微かな焦りすら浮かんでいなかった。ただ真摯に、丁寧に、相手の動きに応じた回避と攻撃を繰り返す。


そして最後の突進。


蒼はすれ違いざまに木刀を振り下ろし、ボアの首筋へと滑らかな一閃を叩き込んだ。


ズドン、とボアの巨体が地面に倒れ込み、次の瞬間、光の粒子となって空中に弾け飛んだ。

その粒子が完全に消え去ったのを見届けた蒼は、静かに木刀を収めた。


(ふむ……計算通りだな。被弾さえしなければ、このレベリング手法は非常に合理的だ)


今のたった一匹のモンスターの討伐でレベルが一気に上がり、格上狩りで、狙い通り効率よくステータスが向上していくことに安堵の息を漏らす。


そうして狩りを再開しようとしたその時だった。


「いやぁぁぁっ! 誰か助けてっ!」


少し離れた茂みの奥から、少女の切迫した悲鳴が響き渡った。


声を聞きつけた瞬間、蒼の身体は思考よりも速く、即座に現場へと向かって動き出していた。社畜生活の中で突発的な業務トラブルへ対処し続けてきた習性が、一秒の逡巡も挟まず彼を走らせる。


木立を抜けた先には、小さな籠を抱えた少女が地面に尻餅をついて怯えていた。その目の前には、先ほど蒼が倒したものよりも二回りほど巨大なクレイジー・ボアが牙を剥き出しにして迫っている。


状況をコンマ一秒で把握した蒼は、直線的な最短ルートでボアと少女の間合いへと滑り込んだ。


突進を開始しようとしていたボアの正面へと瞬時に立ちふさがり、木刀の柄でボアの鼻先を正確に叩いて注意を自分へと強制的に引きつける。


「そこまでにしなさい」


フシューッ! と激怒したボアが、ターゲットを蒼へと変更し、凄まじい風圧を伴って突進してくる。


しかし、すでにボアの攻撃パターンを完全に把握していた蒼にとって、その巨体は見切りやすい対象であった。


直前に生じる予備動作の「タメ」を見極め、余計な力みを入れない自然な体勢のままスッと半身を引いて回避を果たす。すれ違いざま、木刀をボアの首筋へ正確に叩き込み、わずか数撃の交錯のもとで大型のボアを光の粒子へと変えてみせた。


「……ふぅ。怪我はありませんか?」


蒼は木刀を鞘へと納めると、怯えて固まっている少女の前で膝をつき、目線を合わせて丁寧なトーンで声をかけた。


少女——薬草取りのNPCである『ニーナ』は、パチパチと大きな目を瞬かせ、目の前に立つ青年の整った顔立ちと穏やかな眼差しを見つめた。


「あ……ありがとうございます! 私、薬草を摘んでたら突然襲われちゃって……すごく怖かったです……っ」


ニーナは安堵の表情を浮かべ、何度も深々と頭を下げた。


蒼が「無事で何よりです」と温かく微笑むと、ニーナはバスケットの中から一際鮮やかな緑色を放つ、小さな種の袋を取り出して蒼へと両手で差し出した。


「これ、お礼です! 私のおじいちゃんが大切に育ててる『高級薬草の種』なんです! すごく育てるのは難しいけど、素敵な薬草が実るんですよ!」


『NPC『ニーナ』との友好度が上昇しました』

『【高級薬草の種】を獲得しました』


ウィンドウに躍る文字を見つめ、蒼の胸に静かな喜びが広がる。


(高級薬草の種……。これこそ、まさに私が求めていたスローライフの第一歩ではないか)


「ありがとうございます、ニーナさん。大切に育てさせてもらいますね」


「はいっ! お兄さん、本当にありがとうございました!」


ニーナは嬉しそうに手を振ると、元気に小走りで街の方向へと戻っていった。


その可愛らしい後ろ姿を穏やかな目で見送る蒼であったが、彼は気づいていなかった。

木立の陰から、数人の一般プレイヤーたちが息を呑んで自分たちの戦闘行動を目撃していたことに。


「おい……今の見たか……?」

「ああ……なんだあの動き……。初期装備でボアを討伐したよな?しかも、あの突進をあんな紙一重でかわすなんて……」

「アシスト機能の動きじゃないぞ……完全マニュアル操作なのか……!?」


プレイヤーたちの困惑と驚愕の呟きが木漏れ日の中に溶けていく中、蒼は「さて、種も手に入ったことだし、もう少し素材を集めるとしよう」と、至って平然とした様子で次の行動へと歩を進めるのであった。

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