第4話 消失した濁り
持ち帰った重厚なパッケージを抱え、アパートの自室へと帰還した蒼は、着ていたジャケットを脱ぎ捨てることも忘れて静かにそれをローテーブルの横へと置いた。
部屋の中は、先週末に妹の葵が綺麗に掃除をしてくれたおかげで、最低限の清潔さと足の踏み場が保たれている。しかし、この一週間の過酷な労働によって出たわずかな生活ゴミ——コンビニの空き容器や、栄養ドリンクの空瓶がテーブルの一角に静かに固まっていた。
蒼は大きな箱のテープを慎重に切り、中から最新鋭のダイブギアと関連機器を取り出した。
マットブラックに塗装された流線型のヘルメット状デバイスは、手に取ると見た目以上に軽く、肌に触れる部分には吸い付くような高次元のエルゴノミクス素材が使われていた。添付されていた取扱説明書を広げ、初期設定の手順を速やかに確認していく。
「……まずはアカウントの作成、および生体脳波の初期スキャンか」
蒼の指先は、ビジネスの現場で培われたマルチタスク能力と膨大なデータを精査する情報処理能力によって、一切の無駄なく端末のタッチパネルを操作していく。
画面に表示された膨大な利用規約とプライバシーポリシーを秒単位で目を通し、同意のチェックを入れていく。続いて、現実のプレイヤーの身体的特徴をシステムへ登録・補正するための基本設定画面へと移行した。
『プレイヤーのアバター生成を開始します。リアル連動補正:標準』
画面のプロンプトに従い、蒼はダイブギアを頭部にセットし、フロントバイザーを静かに下ろした。視界が心地よい暗転に包まれ、頭部を優しく包み込む青い光のラインが幾重にも走る。
『生体スキャン完了。現実の肉体データをベースに、システム推奨のアバターを構築します』
目の前の仮想モニターに、生成された自分自身のアバターの立体映像が浮かび上がった。
それを見た瞬間、蒼は微かに目を見張った。
そこに立っていたのは、見慣れた自分であって、自分ではない姿だった。
連日の過重労働と深刻な睡眠不足によって目元に深く刻み込まれていた、あの鉛のように黒いクマが綺麗に消し去られている。土気色に沈んでいた皮膚には健康的で瑞々しい血色が戻り、げっそりと削げていた頬のラインも、システム補正によって元通りの滑らかな素顔へと修整されていた。
光の入っていなかった死んだ魚のような瞳には、かつての澄んだ輝きが取り戻されている。
(……なるほど。自動補正によって、現実の病的な疲労感や肉体の損傷は綺麗に取り除かれる仕様というわけか)
蒼自身は、鏡に映るその姿を「システムが現実の自分を少し綺麗に補正してくれた程度の素顔」としか認識していなかった。
VRMMOのサービス開始当初は、現実離れした過度な美男美女のアバターを作成するプレイヤーが乱立していたが、プレイ人口の定着とともに「リアルで会った際の落差」や「痛いキャラメイク」として周囲から嘲笑される文化が定着していた。現在では「現実の自分に少しだけ要素を足し引きした程度のリアル寄りの容姿」で作成するのが暗黙のマナーであり、トレンドとなっている。なので、システム推奨アバターもそのトレンド通りに作成される。
蒼のアバターは、クマややつれを消しただけの「素の黒川蒼」そのものであったが、本来の整った端正な顔立ちがストレートに現れたことで、結果として非常に美しい立ち姿となっていた。
プレイヤー名、すなわちインゲームネームの入力欄が点滅する。
蒼は日頃から仕事で徹底的なコンプライアンス意識が叩き込まれていた。現実の個人情報漏洩や身バレのリスクを回避するため、本名である「黒川蒼」とは何の接点もなく、本名を一切想起させない完全オリジナルの名称を入力した。
【カナト】
続いて、各種操作アシスト設定の確認画面が表示される。
『アシスト機能:選択中……【ON(標準)】』
一般的なプレイヤーであれば、ダイブ環境での慣れない身体操作を補うため、システム側のアシスト機能をONにしたままプレイする。アシストがONであれば、攻撃の構えをとるだけでシステムが自動的に最適なモーションへと身体を誘導し、自然で綺麗な戦闘態勢をとらせてくれるからだ。
しかし、蒼は画面の項目を一切の躊躇なく切り替えた。
『アシスト機能:選択中……【OFF(非推奨)】』
(システムによる強制的なモーション介入や補正は、私が行いたい精神統一や独自の型の確認の妨げになる。完全マニュアル操作でなければ、道場で素振りをする代わりにはならない)
蒼にとって、このゲームはあくまでも「睡眠時間を確保しながら精神統一を行うためのツール」に過ぎない。無駄なシステム補正は排し、己の意識と感覚のみで身体を動かせる完全マニュアル状態に設定を完了させる。
「よし……設定完了だな」
蒼はベッドの上にゆっくりと身体を横たえた。柔らかいマットレスに背中が沈み込む。
ギアの電源スイッチを入れると、穏やかで澄んだ電子音が耳元で鳴り響いた。
『睡眠波誘導システム、作動。ダイブを開始します——アストラル・クロニクルへようこそ』
意識が、ふっと重力から解放される。
現実の部屋の匂い、エアコンの稼働音、そして全身を絶え間なく苛んでいた鉛のような倦倦感が、潮が引くようにして遠ざかっていった。
◇
次の瞬間、蒼——プレイヤー「カナト」は、眩い光の中に立っていた。
頭上にはどこまでも澄み切った青空が広がり、心地よい風が草原の草木を揺らしている。肌を撫でる風の感覚、足裏に伝わる柔らかな大地の感触。五感のすべてが、現実と何ら変わらない精度で脳へ直接伝達されていた。
そこは、『アストラル・クロニクル』の始まりの地、第1階層「始まりの街」の南側に広がる広大な草原エリアだった。
「……ここが、VR空間か……」
蒼は自分の両手を目の前にかざした。
白い肌、引き締まった指先。現実の肉体にあったはずの酷い手荒れや力ない震えは一切存在しない。
そして、蒼はその手を握り、開いた瞬間——激しい驚愕に打たれ、息を呑んだ。
「な、これ……っ!?」
軽い。圧倒的に、身体が軽い。
それだけではなかった。手を開こうと脳で命令した瞬間、寸分の遅れもなく、完璧なタイミングと精度で指先が動いたのだ。
現実世界において、蒼は生まれつき脳から神経を通って身体が実際に動き出すまでに、ごく微かな時間の遅延が発生してしまうという固有の体質を抱えていた。頭の中で完璧な剣術の軌道やタイミングをイメージできていても、現実の肉体はその通りに追従してくれず、もどかしい思いをし続けてきた。
しかし、このダイブ空間内において、その固有の遅延が完全に消失していた。
一般のプレイヤーが使用するダイブ装置における脳波伝達率は、平均して80%程度である。そのため、一般プレイヤーはシステム側のアシスト機能を使ってその隙間や遅延を埋めて動かしている。
だが、蒼の脳波適合率は、奇跡的とも言える「100%」という驚異的な数値を叩き出していた。
ダイブ空間のシステムは、彼の脳から発せられる運動命令を100%の精度でダイレクトに仮想アバターへと伝達している。現実の肉体という物理的な制約——神経伝達の遅延——が取り払われた結果、蒼は人生で初めて「自分の頭で描いた通りのスピードと精度で、完全に身体を連動させる感覚」を手に入れたのだった。
しかし——蒼自身は、この真実に全く気づいていなかった。
(……素晴らしい。これが最新ゲームのアシスト機能のおかげなのか……! なんという追従性だ。頭で思い描いた動きが、システム補正のおかげでこれほどまでに完璧に再現されるとは……!)
蒼は、自身が初期設定でアシストを【OFF(非推奨)】にした完全マニュアル状態であることを完全に失念し、この異次元の動きやすさを「最新ゲームの強力なアシスト機能のおかげ」だと100%勘違い、誤解していた。
「……ふぅ……」
蒼は深く息を吐き出すと、自然と姿勢を低く落とした。
連日の激務で無駄なエネルギー消費を極限まで抑えようとする社畜特有の癖。そして、曾祖父の道場で叩き込まれた脱力の基本。それらが融合し、彼の佇まいはだらりと肩の力を抜いた極限の脱力体勢となっていた。
だらりと両腕を下げ、脱力したまま草原の中に佇む青年の姿。
システム自動補正によってクマややつれが消え去った端正な美形のアバターが、どこかアンニュイで気怠げな雰囲気を纏いながら、無駄な力みを一切削ぎ落とした完璧な低重心で立っている。
この時、初期エリアの広場から草原へと向かう途中の一般プレイヤーたちが、何気なく蒼の姿を目に留めていた。
「……ん? なんだあいつ……」
「すげぇ顔整ってない? でも、なんかめちゃくちゃ脱力してないか?」
「だらけて立ってるのに、構えの軸が全然ブレてないんだけど……何者だ?」
周囲の密かな視線や囁きに、蒼は全く気づいていない。
彼にとって、この場所はただの「睡眠時間を確保しながら精神統一をするための避難所」であった。
蒼は腰の鞘に差してあった初期装備の練習用木刀を抜き放つと、静かに正面を見据えた。
シュッ——と、空気を切り裂く微かな音が響く。
頭の中で描いた完璧なイメージそのままに、一筋の無駄もない素振りの軌道が草原の風を切り開いた。現実の肉体が抱えていた濁りは完全に消え去り、そこにはただ、澄み渡る静寂と洗練された虚勢を排した脱力の構えだけが残されていた。
木刀を振り下ろすたび、蒼の胸の奥に広がっていた重く冷たい暗闇が、わずかに薄らいでいく感覚があった。
現実の身体は、脳波誘導システムによって完璧な安眠状態に導かれている。毎夜のように蒼を苛んでいた、あの理不尽な上司の怒号やチャットの通知音、終わりのない書類の山という悪夢は、この澄み切った仮想空間の中には一切届かない。
(……悪夢を、見ない……。こんなにも穏やかな感覚は、一体いつ以来だろうか……)
蒼は深く息を吸い込み、胸いっぱいに心地よい仮想の風を充たした。
一筋の汗も流れることのない完璧な運動。頭の中で構想していた「理想の軌道」が、なんの引っかかりもなく現実化していく万能感。現実世界での神経伝達の遅延に苦しんできた彼にとって、この完璧な運動体験は、それ自体が極上のセラピーとなっていた。
「素晴らしい……。これならば、身体を完璧に休めながら、道場以上の精度で型をなぞることができる……」
蒼は微かな感嘆の声を漏らし、静かに木刀を中段へと戻した。
彼が素振りを一本終えるごとに、周囲で狩りをしていた初心者プレイヤーや、街への往来を行っていた中堅プレイヤーたちが足を止め始めていた。
「おい……あいつの素振り、なんかおかしくないか?」
「アシスト機能の攻撃モーションにしては、動きが滑らかすぎるだろ……」
「アシスト特有の『モーション開始時の硬直』とか『振り切った後の自動補正の硬直』が一切無いぞ。まさかマニュアル操作か?」
「ハッ、冗談だろ。このゲームのマニュアル操作で、あんな一筋のブレもない軌道出せるわけないじゃん。トップランカーのクランのリーダーだって、もっと動作に力みがあるぞ」
観客たちの間から生じる困惑と感嘆の声。
しかし、彼らの目に最も異質に映っていたのは、蒼のその「佇まい」であった。
アバターの容姿は、クマややつれを消しただけの素顔であるにもかかわらず、どこか浮世離れした浮遊感を漂わせている。完璧に整った端正な顔立ちをしながら、肩の力を極限まで抜いてだらりと木刀を保持する姿は、まるで世俗のすべてに興味を失ったかのような、アンニュイで気怠げな雰囲気を醸し出していた。
「脱力美形……って感じだな……」
「無駄な力みが全くないのに、いつでも相手の攻撃を紙一重で交わせそうな雰囲気が凄いわ……」
「いや、属性盛りすぎだろ。流石にちょっとイタいアバターだわ」
「わざとあのアンニュイなキャラメイクと立ち姿を演出してるなら、むしろ、プロかなんかの魅せプレイだろ」
プレイヤーたちは、勝手な考察を重ねて盛り上がっていた。
「魅せプレイ」でもなければ「イタいキャラクリの演出」でもない。
ただ単に、長年の激務でエネルギー消費を極限まで抑える癖が身についた社畜が、最新ゲームのアシスト機能が素晴らしいと勘違いしながら、無心で素振りをしているだけである。
この「周囲の過剰な評価と勘違い」と「本人のどこまでも真面目でズレた認識」のギャップこそが、蒼という存在の異質さを際立たせていた。
蒼は周囲の視線を気にする素振りすら見せず、再びすっと息を整えた。
一歩、前へと踏み出す。
足裏が柔らかな草を捉え、最小限の重心移動とともに木刀が閃く。
ザッ、と草を払う風の音が響き、木刀の先端が夕日の光を弾いた。
現実世界のアパートのベッドで、蒼の肉体は深い睡眠波に包まれながら、ここ数年で最も上質で穏やかな休息を貪っていた。
そして仮想世界において、蒼のアバターは、己の魂を繋ぎ止めるための美しい型を繰り返し紡ぎ出している。
ブラック企業の泥沼の中で死にかかっていた青年の時間が、いま、静かに、そして確実に動き出そうとしていた。




