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限界労働者の再生、あるいは暗闇からの解放  作者: エソラ
【第3章】兄妹の証明と、コンプライアンス
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第4話 釈明配信とブラコンの真骨頂

ノヴァ・アストリアの法務部会議室で行われた緊迫のコンプライアンス協議を終えても、同僚たちとランチを食べ終わった後でも、葵の胸を締め付ける重圧が消えることはなかった。

公式の発表ラインや法的防衛策は固まったものの、これから世界に向かって自身の口で事実を告げ、世間の荒波に身を投じなければならないという事実は何一つ変わっていなかったからだ。


「よし、ルナちゃん。気合を入れていくわよ。スタジオの準備はもう整っているから、そのまま移動しましょ」


マネージャーの藤村が優しく、しかし毅然とした足取りで声をかけてくれる。その背後には、法務の宮下や只野、そして事務所のスタッフたちが万全のサポート体制を敷いて控えていた。

葵はこくりと深くうなずき、重い足取りを引きずるようにして、専用の配信スタジオがあるビルへと向かった。これからが本番なのだ。


スタジオの防音扉を開け、ブースの中へ足を踏み入れた瞬間、目の前に備え付けられたメインモニターの画面が視界に飛び込んできた。そこには、配信開始時刻の三十分前であるにもかかわらず、すでに数万人の待機リスナーが雪崩れ込み、チャット欄が物理的な限界を超えて激しく明滅している待機所画面が映し出されていた。


「……っ……!」


葵は思わず息を呑み、その場で足がすくんだ。

チャット欄の流れるスピードは、モデレーターたちが総出でNGワード設定やタイムアウト処理を行っているにもかかわらず、処理能力の限界を優に突破していた。画面を埋め尽くしているのは、昨日までの和やかな応援コメントではなく、目を疑うような罵詈雑言と、吐き捨てるような非難の言葉の数々だった。


『騙されたわ。今まで一番推してたのに最悪』

『裏で男と繋がってるとかガチで冷めるんだが』

『メンバーシップ解約してきました。二度と顔見せないで』

『昨日は慰めセックスでもしてたのかよwwww』

『バーチャルで男の影出すとかプロ意識低すぎだろ』

『オワコンだな。今日の釈明配信で見限るわ』


昨日までのファンが手のひらを返したような激しいバッシング、そして今回の騒動に便乗して面白半分で野次馬に加わった外野のリスナーたちが吐き出す汚い言葉の数々。画面を見つめているだけで、心臓を直接冷たい手で鷲掴みにされるような、息が詰まるほどの恐怖と吐き気が葵を襲った。


もちろん、その暴力的なまでの暴言の嵐のなかにあっても、チャットの隅々には『ルナちゃんを信じてる!』『落ち着いて話を聞こう!』『アンチに負けるな!』と必死に声を上げ続ける熱心なファンたちの姿も数多く確認できた。しかし、人間の脳は不思議なもので、どれほど温かい言葉があっても、たった一つの凶悪な罵倒に強く引き寄せられてしまう。


震える指先が冷たく冷えていくのがわかる。ヘッドホンの下で、葵の顔から完全に血の気が引いていた。


(……怖い)

声に出さず、ただ唇を噛みしめて俯く葵の小さな肩が、小刻みに震え始めた。


「……みんな、私のこと嫌いになっちゃったんだ……」

そうぼそっと呟いた時、すっと温かい手が伸びてきて、冷え切った葵の両手を力強く包み込んだ。


「大丈夫だよ、ルナ。一人じゃないから」


顔を上げると、そこには同期である三期生のVTuber――月紗影セレネの姿があった。

先ほどの会議のあと、葵の様子を心配したセレネが、スタッフに頼み込んでこっそりスタジオのブース内までついてきてくれていたのだ。

同じ苗字と「月」を冠する名前とモチーフを持ち、『Twin Phases』として同じ日にデビューを果たしてから丸一年。ゲーム配信を主軸とするルナと、歌配信を主軸とするセレネは、お互いがライバルでありながらも、お互いの苦手な部分を補う様に、誰よりも深く苦楽を共にしてきたかけがえのない相棒だった。


「セレネ……私、どうしよう……」

「うん、見たよ、あのチャット欄。ひどいこと言う奴らもたくさんいるよね。でもさ、ルナ」


セレネは葵の手をさらに強く握り締め、少しだけイタズラっぽく、しかし底抜けに優しい笑みを浮かべて言った。

「ねぇ、VTuber人生の中でさ、こんな大規模な炎上を経験するなんて、ある意味で超一流の証拠じゃない? 初めて炎上してみて、今の気分はどうよ、相棒?」


その絶妙に肩の力が抜けるような明るい冗談に、葵は思わず「もう、こんな時に何言ってるの……」と、涙ぐみながらもかすかな笑みをこぼした。セレネの温かな体温が、凍りついていた葵の神経にゆっくりと血を通わせていく。


「ありがとう、セレネ。私、ちゃんと話してくる」

「うん。いってらっしゃい、ルナ。見ててあげるから」


配信開始の時間が刻一刻と迫る。

セレネは立ち上がり、葵のことをふわりと力強く、包み込むようにぎゅうっと抱きしめた。そして、葵の耳元に口を寄せ、「大丈夫、自信持って。胸張っていきなよ」と頼もしく囁くと、ブースの外へとそっと退出していく。


防音扉が閉まり、ブースの中にはたった一人葵だけが残された。

しかし、ガラス張りのブースの外を見上げれば、そこにはセレネやマネージャーの藤村をはじめ、法務の宮下や只野、そしてスタッフたちが全員、心配そうに、しかし確かな信頼の目を向けながら葵の姿を見守ってくれている。


そして、手元のコンソールを見ると、スタッフの配慮により、コメント欄の表示モードが「チャンネル登録者限定」へと切り替えられていた。おかげで、外部からの無責任な荒らしや心無い悪意の書き込みは劇的に減少し、チャットの勢いは落ち着きを取り戻しつつあった。


(……やれる。私には事務所のみんながいて、信じてくれるリスナーがいるんだから……!)


葵は深く、深く呼吸を吸い込み、固く閉ざしていた心を開いた。

そして、震える右手でマウスを掴み、生配信を開始するための赤いボタンをしっかりとクリックした。


◇


『――みなさん、こんにちは。月紗影ルナです』


コンマ数秒の遅延ののち、葵の落ち着いた、しかしどこか緊張の残る声が、世界中のリスナーたちの端末へと届けられた。


画面の向こうで待ち構えていたリスナーたちの気配が、一瞬にしてピタリと静まり返る。

葵は逃げ出したい衝動をぐっとこらえ、カメラのレンズを真っ直ぐに見据えながら、まずは頭を深く下げた。


「昨日の定期配信の最後において、私の不注意と軽率な発言により、多くのリスナーの皆様、そして関係者の方々に多大なるご心配とご迷惑をおかけしましたこと、心よりお詫び申し上げます。本当に、申し訳ありませんでした」


誠心誠意の謝罪の言葉を述べたあと、葵は顔を上げ、言葉を濁すことなく、ただ一言、はっきりと宣言した。


「そして、皆様が一番気になられていることについて、隠し立てせず最初にお話しします。昨日の配信で私が口走った『おにぃ』という言葉、そして現在ネット上で『脱力美形カナト』として話題になっているプレイヤーについてですが――あれは、私の『実の兄』です」


その言葉が発せられた瞬間、チャット欄が一瞬で爆発的な勢いで流れた。


『やっぱり実の兄だったのか!?』

『マジかよ! 彼氏じゃなくて本当の兄弟だったのか!』

『嘘だろ、じゃああの変態的な回避を見せるプレイヤーはルナの血族……?』


驚愕、安堵、そして新たな疑問が入り交じる中、葵は逃げも隠れもせず、リスナーたちから寄せられるコメントや質問に一つひとつ誠意を持って答え始めた。


「ええと、『どうして今まで隠していたのか』というご質問ですが……特に隠す意図があったわけではありません。ただ、兄は現実の世界で別の仕事をしており、プライベートな生活がありますので、私とは違う世界の人としてそっとしておきたかったというのが正直なところです。それに、まさかあんな風にゲーム内で勝手に動画を撮られて、ネットでバズるなんて思っていもいませんでしたから……」


真摯に、丁寧に質問に答えていく葵。しかし、中には女性に対して投げかけるにはあまりにデリカシーのない質問や、揚げ足を取ろうとする意地の悪いコメントも混じっていた。


『でも、兄妹って結構怪しくね?』

『本当は身内じゃないだろ、証拠出せよ』

『男とゲームの中でもイチャつきたいだけなんじゃねーの?』


表に出すことはないものの、心無い言葉の数々に、葵の胸のなかで小さなフラストレーションの炎がふつふつと溜まっていくのが自分でもわかった。どれほど誠実に説明しても、悪意を持って穿った見方をする人間は一定数いる。その理不尽さが、葵のなかに眠る「別のスイッチ」をゆっくりと押し始めていた。


そして、その決定的な瞬間は、チャット欄に流れた一通のコメントによって訪れた。


『つーかさ、そもそもあのカナトって奴のキャラクリ、めちゃくちゃイタくない? 美形に盛りすぎてて見てて痛々しいんだけど、そんな盛ってる奴が身内なんて恥ずかしくないのwwww』


――ピキッ、と葵の中で何かが盛大に音を立ててブチ切れた。


ブースの外で見守る人々が、葵の気配が変わったのを感じた。

午前中に、事務所の会議室で法務担当を相手に繰り広げた、あの「ブラコンの怪気炎」の記憶が脳裏に蘇る。


(おにぃがあんなに毎日ボロボロになって働いて、自分の身体すら削って……やっと見つけた居場所で、ただ素顔のまま立っていただけなのに……それを『イタいキャラクリ』だなんて笑った奴は、今すぐ出てきなさいよ……ッ!!)


葵はカッと目を見開き、なんとか、そう口に出してしまいそうになるのを防いだ。

だけど止まらない。マイクに向かって身を乗り出した。普段の明るく穏やかなVTuberのトーンは完全にどこかへ消え去り、そこには愛する兄を侮辱された怒りに満ちた「ただの重度の妹」が降臨していた。


「――ちょっと待ってください。今のコメント、聞き捨てなりませんね」


その普段からは考えられない様な、低く重い声に、画面の向こうのリスナーたちが、一瞬で「おや……?」とざわめく。


「あのね、みなさん勘違いしていらっしゃいますけど、兄のあの容姿はね、決して過剰に盛った『イタいキャラクリ』なんかじゃありません。 現実のままです。現実の兄はですね、毎日理不尽なブラック企業で過剰労働に押しつぶされ、そりゃあ見る影もない程憔悴しきってる見た目ですけど、私も一瞬分からなかったけど、でも、本来ならゲームの中での容姿の通り、そこら辺のアイドルに負けない程の超絶美形の、世界一カッコいいおにぃなんです!」


スタジオのブースの外で、マネージャーの藤村が「あ……」と声を漏らし、頭を抱えて天を仰いだ。

法務の宮下と只野も、思わず顔を見合わせる。しかし、個人情報や規約の核心(会社名や本名など)には絶対に触れていないため、止めに入るべきか見守るべきか、一瞬判断に迷ってその場に固まっていた。


葵の暴走は、もう誰にも止められなかった。


「聞いてください! おにぃは子供の頃から正義感が強くて、剣道をやらせれば誰よりも美しい型をマスターし、頭脳明晰で、共働きの両親が居ない間も、私の面倒も完璧に見てくれた文武両道の完璧超人なんです! 社会に出てからも、どんなに過酷な環境でも弱音一つ吐かずに家族を支えてくれて……なのに、ゲームの世界に入った途端、誰に教わることもなくあの完璧なマニュアル回避と無駄のない足裁きを完全再現しちゃうんですよ!? あれはもう凡人には真似できない、武芸者の領域に達している神業なんです!そんな事が出来ちゃう人を、 それを『イタいキャラクリ』だなんて言ったそこのあなた、今すぐ謝罪しなさいよ!」


チャット欄が完全にフリーズした。

『待て待て待て、ルナちゃんのテンションがおかしことになってるぞ』

『ガチのガチで重度のお兄ちゃん子じゃねえか……』

『さっきまでのシリアスな謝罪配信はどこに行ったんだよ……』

『でも、なんか熱量がすごすぎて草』


リスナーたちが圧倒的なブラコンの圧力に言葉を失っていると、今度は別の層のアンチや面白半分の一部のリスナーたちが、新たな火種を投下してきた。


『おいおい、そこまで庇い立てするってことは、もしかして兄妹なのに不適切な関係なんじゃねーの?』

『ガチの近親相姦疑惑浮上キターーー!』


その最低最悪の邪推のコメントを見た瞬間、葵の怒りは怒涛の沸点を突破した。


「――は……? 不適切……? おにぃと私が……!? ふざけないでください! そんな汚らしい想像をする人たちは、今すぐおにぃの爪の垢を煎じて三日三晩正座して反省しなさい!」


葵は激高しつつも、しかし、兄の名誉を守るために、脳裏に思い浮かんだ「もう一人の大切な人」の存在を叫び出していた。


「いいですか! おにぃにはね、高校時代からずっと一途に想い続けている、世界で一番美しくて聡明で優しい、完璧な恋人……元だけど、私にとっての『おねぇ』がいるんです!別れてもずっとおにぃのことを想い続けてくれている、女神様のような人なんですよ! そんなおねぇが居るのに、そんな不誠実なことをするわけないでしょうが!!」


ここで葵の熱弁はさらに加速する。おにぃがいかに結衣ねぇを深く愛し、そして結衣ねぇがおにぃのことをどれほど一途に、狂おしいほどに想い続けているかについて、彼女は堰を切ったように語り始めた。


「みんな、想像してみてください! 世の中のカップルが簡単にすれ違って別れていく中で、おねぇは、おにぃがどんなに仕事でボロボロになって、自分に余裕がなくなって、『これ以上君の時間を縛りたくない』って一方的に別れを告げられた時も、その痛みを全部受け止めて、ずっと待ち続けてくれているんです! 会社の同僚や、外部の人たちからどれだけ素敵な男性を紹介されても、結婚を前提としたアプローチをされても、『私には心に決めた人がいるから』って、すべて綺麗に、きっぱりと断り続けているんです!おにぃも仕方なく別れを告げたけど、おにぃの心の中にはずっと、そんな一途で気高い女性が居続けてるんです!おにぃだっておねぇ以外の人のことなんて一度だって視界に入れたことなんかないんです! 二人がお互いにどれだけ深く愛し合っているか、お互いの存在をどれほど心の支えにしているか、私が一番近くで見つめてきたんですからね! そんな世界で一番美しくて尊い純愛を、『不適切』だの『不純』だの『近親なんちゃら』だのって汚す奴らは、人の感性がどうかしてるわよ!」


あまりの熱量と、推敲し切れてない生々しいまでの「純愛の暴露」に、スタジオのスタッフたちはポカンと口を開けて固まっていた。

ブースの外で、藤村マネージャーは「ちょ、ちょっと待って……ルナちゃん、そこまで元カノの惚気と一途さを全世界に向けて赤裸々に語っちゃうの……!?」と、顔を両手で覆いながらも、どこか圧倒されていた。


しかし、法務の宮下はタブレットを素早く叩きながら、冷静に分析してうなずいた。

「……いや、むしろこれは完璧なリスクヘッジです。兄妹間の不適切関係という悪質なデマを、『彼には一途に想い合う完璧な元恋人がおり、彼女以外の女性など眼中にない』という動かぬ事実で、一応完全に論理粉砕しています。さらに、その元恋人がどれほど誠実で気高い人物であるかを熱弁することで、お兄様の人間性の証明にもなっている。法的なプライバシーの核心には一切触れていませんし、むしろ好感度すら跳ね上がる展開です……そのまま続けさせましょう」


宮下の冷静なジャッジに、藤村や他のスタッフも「確かに……」と妙に納得せざるを得なかった。


それから数分の間、葵はいかにおにぃとおねぇが尊い関係なのかを力説した。

普段の配信からは想像もつかないあまりにもな熱量と、次から次に湧いてくるアンチを一人残らず論破し続けた事で、あれだけ沸いていたコメントも静かになっていた。


葵は荒い息を整え、言いたいことをすべて、一滴残らずぶちまけられた事に満足していた。

胸のつかえが綺麗に消え去り、幾分かすっきりとした、やり切った表情を浮かべる葵。


「……というわけで、私の自慢のおにぃに対する誹謗中傷や変な邪推、そしておねぇとの尊い純愛を汚す発言は、今後一切禁止とさせていただきます! 本日の釈明配信は、これにて終了! みなさん、お騒がせしました、さようならーっ!」


ブチッ、と豪快に配信の接続を切断する葵。

静まり返ったスタジオのブース内で、彼女はふうっと大きな溜息をつき、ぐったりと椅子に背中を預けた。


◇


配信終了とほぼ同時刻。

ノヴァ・アストリアの公式SNSアカウント、およびYouTubeチャンネルのコミュニティ欄に、緊急の公式声明文がピタリとタイミングを合わせて公開された。

そこには、今回の配信トラブルに関する経緯報告と、ネット上の行き過ぎた誹謗中傷、名誉毀損、およびプライバシー侵害に該当する悪質なコメントを残したアカウントに対して、すでに所属事務所の顧問弁護士を通じて「発信者情報開示請求」の手続きに着手し、法的措置を準備しているという厳重な警告が記されていた。昨今の業界標準となった迅速かつ強力な法的制裁の宣言に、ネットの野次馬たちは一瞬で冷や水を浴びせられたように静まり返ることになった。


◇


ブースの扉がガチャリと開き、葵がよろよろと外に出てくると、待ち構えていたセレネがパッと駆け寄り、再び彼女を力強く抱きしめた。


「ルナ……お疲れ様。すごい大立ち回りだったね、途中から完全に公開処刑の逆バージョンになってたけど」

「うう……セレネ……私、ちゃんとおにぃを守れたかな……?」


セレネの温かい腕の中で、張り詰めていた糸がプツリと切れたように、葵の目から大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。セレネは優しく葵の背中をポンポンと叩きながら、くすくすと笑った。


「十分すぎるところまで守り切ったよ。……でさ、ルナ」

「ん……?」

「そこまでルナが命がけで大絶賛するおにぃって人、私、本当に興味出てきちゃったなぁ。今度さ、事務所に遊びに来る時とかにさ、ちょっとだけ会わせてくれない?」


そのセレネの軽いノリの提案を聞いた瞬間、葵はガバッと顔を上げ、涙を引っ込めて鬼の形相で首を横に振った。


「――絶対にダメ!!」

「えー、ケチだなー! ちょっと挨拶するだけでいいじゃん!」

「絶対ダメ! おにぃは私のもの……じゃなくて、おねぇのものだし、そもそもセレネみたいなギャルに紹介したら絶対面倒なことになるもん! 絶対に嫌です!!」


泣き笑いのような表情で全力拒絶する葵と、面白がってからかうセレネ。

その賑やかなやり取りを見て、周囲のスタッフたちも思わず苦笑いを浮かべ、スタジオ全体にようやく本当の平穏と温かな空気が戻ってきたのだった。


◇


数時間後。

すっかり夜のとばりが降りた都内の高級マンションの一室。

自室のベッドの上で、葵はスマートフォンを握りしめたまま、じっと画面を見つめていた。


(おにぃに……電話、しよ……)


今日の配信のこと、事務所でのこと、そして自分のせいで兄に迷惑をかけてしまったかもしれないという罪悪感。いろんな感情が混ざり合い、葵は震える指で蒼の電話番号をタップした。


コール音が、耳元で静かに響く。

1回、2回、3回……。仕事中かもしれない。出てくれないかもしれない。そう思いかけた時、ガチャリと通話が接続された。


『――もしもし、葵ですか? どうかしましたか、こんな時間に』


聞こえてきたのは、少し疲労の色を滲ませながらも、いつもの優しく落ち着いた兄の声だった。

背景からは、カチャカチャとリズミカルにキーボードを叩く音や、システム処理の電子音が微かに響いてきている。――きっと、まだ会社に残って、終わらない仕事の処理に追われているのだ。


「おにぃ…… お仕事中なのにごめんね……でも、敬語!」

『ぅ……申し訳ありま……いや、ごめん。うん。問題ない。ちょうど一区切りついたところだ。それより、お前……昨日の今日で大変だったろ。そっちは大丈夫か?』


恐らくVTuberルナが炎上しているのを知ったのだろう。アストラル・クロニクルの攻略サイトでも取り上げられていたので、知る機会はいくらでもある。

自分の心配をするよりも先に、妹の仕事やメンタルの心配をしてくれる。その優しさに触れた瞬間、葵の胸が再び熱くなった。


「ううん、私は大丈夫……! でも、おにぃ……私、今日の配信で、おにぃが私の実の兄だってこと、世界中に言っちゃったの……。もしかしたら今後、おにぃの職場とかゲームの中で、変な人が迷惑かけたりするかも……」


電話の向こうで、蒼はふっと小さく息を吐き、穏やかに笑った。


『そんなことか。気にするな、葵。私の職場はいつも通り殺伐としているし、誰も私がゲームで何をしているかなんて興味ないさ。それより、お前が自分の仕事を守るために必死で戦ったんだろ。よく頑張ったな』


「おにぃ……」


あまりにも優しく、すべてを包み込むような兄の言葉に、葵はこれ以上ないほどの安心感を覚えた。

しかし同時に、この電話の背景で、兄が今この瞬間も理不尽なブラック企業の激務に縛られ、自分の時間を削り取られているという現実が胸を刺す。


(ダメだ……おにぃは、あんな場所にずっといちゃいけない人なんだ……)


あまり忙しい兄を長電話で拘束するのも申し訳なかったため、葵はぐっと感情を飲み込み、明るい声で切り出した。


葵は「お仕事の邪魔しちゃいけないから、もう切るね! また連絡する!」と告げ、電話を切った。

スマートフォンを胸に抱きしめ、葵は天井を見上げながら強く心に誓った。


あの配信を通じて、自分のなかの兄への想いは、もはや隠しようのない確かなものだと自覚した。そして、もう一人の大切な人――かつて兄を深く愛し、今も想い続けている「結衣ねぇ」のことを思い浮かべる。


(おにぃがあんなに頑張っているのに、今のままじゃ絶対にダメだ……。おにぃとおねぇを、もう一度ちゃんと会わせなくちゃ……!)


葵の胸のなかで、兄と元恋人を再び結びつけるための「静かなる決意」の炎が、確かな熱を帯びて燃え上がり始めていたのだった。

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