1-5
つむぎは走った。
必死に走った。
屋敷の裏手を駆け、二棟ある蔵の先を左に折れた。
そのまま真っ直ぐ走ると、池があった。
顔が見えるかもしれない。
駆け足で近寄ったつむぎは、恐る恐る池の際へと歩いた。心臓が脈打つ音を聞きながら、水面を覗き込む。
猫だ。
……しかも、三毛だ。
不安そうな表情をした黒とオレンジのハチワレ三毛猫が、池の中からこちらを覗いていた。
「ギャ!」
「ぷっ!」
鳴き声をあげた瞬間、すぐそばで人の笑い声がした。
つむぎはジャンプをして、後ろに向き直った。素早く身を低くして、背中の毛を逆立てた。
学生服を着た少年が、青空の下で向日葵のように笑っていた。
「あぁ、ごめんよ。驚かすつもりはなかったんだ」
つむぎは警戒を少し緩めた。少年は、目に涙を浮かべていた。
「どうしたんだ? 正人」
軍服姿の青年が声をかけた。
「あ、兄ちゃん」
少年が振り返った。
「この猫、まるで忍者みたいに池に忍び寄ってたんだ。自分の顔を見て驚いてたから、面白くって」
「へぇ」
二人の間をすり抜けようとしていたつむぎは、しゃがみ込んだ青年にじっと見つめられて、完全に逃げ場を失ってしまった。
精悍な顔が間近に迫る。どこか厳しい目つきに、動けなくなった。
「逃げないな。飼い猫かな?」
青年がつむぎを抱き上げた。
すっぽりと腕の中に収まったつむぎの喉元を、青年が撫でた。慣れた手つきに、荒立っていた気持ちがだんだんと落ち着くのを感じた。
「どうだろうね? 見かけない猫だけど」
正人が横からつむぎの頭を撫でた。
「この猫、飼ってもいいかな? ほら、シロもいなくなったし」
「僕もお前も、普段は家にいないだろう?」
青年が、呆れたように言った。
「兄ちゃんが父さんに言ってよ」
ふっと、青年が笑った。
「家にいない人間が言っても無理だと思うけど、まぁ、聞いてみるか」
つむぎは顔を上げた。
青年は穏やかな目をしていた。
「慶一郎君」
紋付を着た男性が、障子を半分ほど開けて呼んだ。
という事は、もしかして……
「はい」
青年が返事をした。
やっぱり、この人が吉野慶一郎さん!
「何をしとるんかね? 早くこっちに来て参加せんか」
男性が手招きをした。反対側の手にはお猪口を持っている。
背後に行き来する女性たちが見える。あそこで宴会が行われているようだ。
「はい。今、参ります」
「呼ばれちゃったね」
正人が囁いた。
眦を下げて頷いたあと、慶一郎は正人につむぎを預けた。
「部屋に入れておいてくれないか? 新年会が終わったら、父さんにお願いしよう」
「わかった」
慶一郎は正人の頭にそっと手をおいた。それから軽く服を払って、母屋の中へと入っていった。




