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つむぎは廊下を歩いていた。
柴田の研究室は、学部棟の南側にあった。
窓の外は、雨が降っていた。
いいなぁ。
つむぎは足を停めた。
色とりどりの傘を差した人たちが歩いている。
彼らの姿はどこか楽しそうで、輝いて見えた。
先生、時々何を考えているのかわからないんだよね。
つむぎはまた歩き出した。
自動灯がパッと点いた。両側に先生方の研究室が並ぶ廊下は、こういう日にはちょっと暗い。
柴田研究室の前で立ち止まって、かかっているボードを確認した。
「在室中」
つむぎはその場で「ふぅ」と小さく深呼吸をした。それから、グリーンのドアを控えめにノックした。
「どうぞ」
部屋の中から、微かに声がした。
「失礼します」
研究室の入り口には、隙間という隙間にぎっしりと本が詰まった書架が並んでいた。そのせいで、入り口からは部屋の様子が全く見えない。
両側の壁に沿って並んだ書架も同じ状況だ。溢れた本は、テーブルや床にも積み重なっていた。
書架の隙間を縫うようにして、つむぎは部屋の奥へと入っていった。
「泉さん、わざわざ来てもらってすみません」
窓側に置かれた机の前で、柴田は穏やかな笑みを浮かべていた。白髪混じりの髪をすっきりと整えた、五十代くらいの男性だ。
「いえ」
声が硬かったかも。
つむぎは心配になったが、柴田は気に留めた様子もなく、「そちらへどうぞ」とテーブルを指した。
半分が本で埋まったテーブルの上には、卓上IHコンロとホーローのケトル、ネルドリップの道具が置かれていた。
つむぎは、本が崩れないようにそっとパイプ椅子を引いて、座った。
あれは何だろう?
つむぎの視線が、柴田の背後に引き寄せられた。
大きな箱が、パソコンの前に窮屈そうに置かれている。
「あぁ、これですか」
柴田が、箱に目を遣った。
「将校行李、といいます」
「しょうこう、こうり……?」
つむぎは戸惑った。
「そうです。まぁ、将校専用のトランクみたいなものです」
行李は全体に革が貼られていて、上面と側面の中央部分が帯のように黒かった。他は何も塗られていないのか飴色のままだ。金具は鈍く変色し、片側のベルトがなくなっていた。
何か文字が書かれているようだが、光が反射してよく見えない。
少し開いた窓から、ひんやりとした風が吹き込んだ。つむぎの長い髪が、ふわりとなびいた。
「あっ!」
目の前の風景が変わった。
薄暗い和室の中で、和装の男性が俯いている。
男性の前には、箱があった。
「あれは……行李?」
すぐに景色が戻った。
「泉さん。コーヒーでもいかがですか?」
「えっ? あっ! ……はい」
つむぎはストンと椅子に座った。
近くの電気ポットを手に持った柴田は、お湯をホーローのケトルに注ぎ、それをコンロにかけた。
今のは何だったんだろう?
つむぎは首を傾げた。
ケトルからは湯気がシュンシュンと立ち昇っている。
「それでね」
「……はい!」
つむぎは慌てて意識を戻した。
目の前では、柴田がコーヒー豆をゆっくり挽いていた。甘い香りが部屋中に漂った。
「ちょうど今日、この史料が届いたんですよ」
「はい」
つむぎはもう一度行李を見た。何の変哲もない、ただの箱に見えた。
「地元の友人から頼まれたんです。『蔵から珍しいものが出てきたから、ちょっと見てくれ』って」
柴田は、挽いた豆をネルフィルターに移した。
「あなたも知ってると思いますが、今年の実習の希望者は高野君一人なんです」
「はい」
「ちょうどいいので、この行李の中身を調査します」
「はい」
柴田がコーヒーをドリップしている間、つむぎは行李を眺めていた。
ミルクを入れたコーヒーを飲むと、まろやかな苦味とミルクの甘味が広がった。
「ほぅ」
つむぎは息を吐いた。
ここのコーヒーは、いつも優しい味がする。
柴田は白いカップに沸かした牛乳と角砂糖を三つ入れて、嬉しそうにかき混ぜていた。
先生、「美味しく淹れたコーヒーは、どんな飲み方でも美味しいです」って、前に言ってたな。
でもやっぱり、少しもったいないような気がするなぁ。
つむぎは、柴田が満足そうに頬を緩めるのを盗み見た。
「将校行李ですが」
カップをソーサーに戻した後、ようやく柴田が口を開いた。
「友人の、祖父の兄にあたる人のものだそうです」
「祖父の、兄ですか……えっと、大伯父?」
「そうです。名前から過去帳を調べたと言っていました」
柴田は、つむぎのカップに目を落とした。
「コーヒー、飲み終わられたのなら、こちらで中を見てみましょうか」
「はい」
つむぎは目を輝かせて立ち上がった。
「陸軍歩兵大尉、吉野慶一郎」
つむぎは表面に楷書で書かれた文字を読んだ。
金字だ。
短い方の側面にも「吉野」と書かれていた。
「その方が友人の大伯父です。日露戦争で亡くなったと言っていました」
「日露戦争というと、明治時代……ですか?」
「そうです。明治三十七年から翌年にかけて行われた戦争ですね」
つむぎは近世専攻だ。思い出せたのは、高校の教科書に載っていた旭日旗と、釣りの風刺画くらいだった。
来週までに予習しておこう。
つむぎは小さく頷いた。
「この行李には、鍵がかかっていたんです」
柴田は、スラックスのポケットから出した鍵を手のひらに乗せた。
なくなっていてもおかしくないくらい、小さな鍵だ。
「残っていたのが、奇跡みたいですね」
「そうですね。巾着袋に入れて、行李のベルトに括り付けられていましたから」
カチリ
小さい音がした。鍵が開いた音だ。
留め具を外した柴田が、蓋を開いた。
「わぁ」
つむぎは思わず声を上げた。
中には、大小二つの木箱が入っていた。隙間には賞状を入れる筒や、黒くて小さい箱が詰まっている。
木箱の上には、青白い封筒が置かれていた。
「出してもいいですか?」
「はい。どうぞ」
柴田は手のひらで合図をした。
つむぎは封筒を手に取った。宛名に「吉野蔵之助様」と書かれている。
「おや?」
柴田が窓を見た。ブラインドがカンカンと音を立て、積まれた本の塔がゆらゆらと揺れた。
視界が、ぐらりと歪んだ。




