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行李  作者: 長廻三月
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3/21

1-3

 つむぎは廊下を歩いていた。

 柴田の研究室は、学部棟の南側にあった。


 窓の外は、雨が降っていた。

 いいなぁ。

 つむぎは足を停めた。


 色とりどりの傘を差した人たちが歩いている。

 彼らの姿はどこか楽しそうで、輝いて見えた。


 先生、時々何を考えているのかわからないんだよね。

 つむぎはまた歩き出した。


 自動灯がパッと点いた。両側に先生方の研究室が並ぶ廊下は、こういう日にはちょっと暗い。

 柴田研究室の前で立ち止まって、かかっているボードを確認した。

 「在室中」


 つむぎはその場で「ふぅ」と小さく深呼吸をした。それから、グリーンのドアを控えめにノックした。

「どうぞ」

 部屋の中から、微かに声がした。

「失礼します」


 研究室の入り口には、隙間という隙間にぎっしりと本が詰まった書架が並んでいた。そのせいで、入り口からは部屋の様子が全く見えない。

 両側の壁に沿って並んだ書架も同じ状況だ。溢れた本は、テーブルや床にも積み重なっていた。

 書架の隙間を縫うようにして、つむぎは部屋の奥へと入っていった。


「泉さん、わざわざ来てもらってすみません」

 窓側に置かれた机の前で、柴田は穏やかな笑みを浮かべていた。白髪混じりの髪をすっきりと整えた、五十代くらいの男性だ。


「いえ」

 声が硬かったかも。

 つむぎは心配になったが、柴田は気に留めた様子もなく、「そちらへどうぞ」とテーブルを指した。


 半分が本で埋まったテーブルの上には、卓上IHコンロとホーローのケトル、ネルドリップの道具が置かれていた。

 つむぎは、本が崩れないようにそっとパイプ椅子を引いて、座った。


 あれは何だろう?

 つむぎの視線が、柴田の背後に引き寄せられた。

 大きな箱が、パソコンの前に窮屈そうに置かれている。


「あぁ、これですか」

 柴田が、箱に目を遣った。

「将校行李、といいます」

「しょうこう、こうり……?」

 つむぎは戸惑った。

「そうです。まぁ、将校専用のトランクみたいなものです」


 行李は全体に革が貼られていて、上面と側面の中央部分が帯のように黒かった。他は何も塗られていないのか飴色のままだ。金具は鈍く変色し、片側のベルトがなくなっていた。

 何か文字が書かれているようだが、光が反射してよく見えない。


 少し開いた窓から、ひんやりとした風が吹き込んだ。つむぎの長い髪が、ふわりとなびいた。


「あっ!」


 目の前の風景が変わった。


 薄暗い和室の中で、和装の男性が俯いている。

 男性の前には、箱があった。

「あれは……行李?」


 すぐに景色が戻った。

「泉さん。コーヒーでもいかがですか?」

「えっ? あっ! ……はい」

 つむぎはストンと椅子に座った。


 近くの電気ポットを手に持った柴田は、お湯をホーローのケトルに注ぎ、それをコンロにかけた。


 今のは何だったんだろう?

 つむぎは首を傾げた。

 ケトルからは湯気がシュンシュンと立ち昇っている。


「それでね」

「……はい!」

 つむぎは慌てて意識を戻した。

 目の前では、柴田がコーヒー豆をゆっくり挽いていた。甘い香りが部屋中に漂った。


「ちょうど今日、この史料が届いたんですよ」

「はい」

 つむぎはもう一度行李を見た。何の変哲もない、ただの箱に見えた。


「地元の友人から頼まれたんです。『蔵から珍しいものが出てきたから、ちょっと見てくれ』って」

 柴田は、挽いた豆をネルフィルターに移した。


「あなたも知ってると思いますが、今年の実習の希望者は高野君一人なんです」

「はい」

「ちょうどいいので、この行李の中身を調査します」

「はい」

 柴田がコーヒーをドリップしている間、つむぎは行李を眺めていた。


 ミルクを入れたコーヒーを飲むと、まろやかな苦味とミルクの甘味が広がった。

「ほぅ」

 つむぎは息を吐いた。

 ここのコーヒーは、いつも優しい味がする。


 柴田は白いカップに沸かした牛乳と角砂糖を三つ入れて、嬉しそうにかき混ぜていた。


 先生、「美味しく淹れたコーヒーは、どんな飲み方でも美味しいです」って、前に言ってたな。

 でもやっぱり、少しもったいないような気がするなぁ。

 つむぎは、柴田が満足そうに頬を緩めるのを盗み見た。



「将校行李ですが」

 カップをソーサーに戻した後、ようやく柴田が口を開いた。


「友人の、祖父の兄にあたる人のものだそうです」

「祖父の、兄ですか……えっと、大伯父?」

「そうです。名前から過去帳を調べたと言っていました」


 柴田は、つむぎのカップに目を落とした。

「コーヒー、飲み終わられたのなら、こちらで中を見てみましょうか」

「はい」

 つむぎは目を輝かせて立ち上がった。



「陸軍歩兵大尉、吉野慶一郎」


 つむぎは表面に楷書で書かれた文字を読んだ。

 金字だ。

 短い方の側面にも「吉野」と書かれていた。


「その方が友人の大伯父です。日露戦争で亡くなったと言っていました」

「日露戦争というと、明治時代……ですか?」

「そうです。明治三十七年から翌年にかけて行われた戦争ですね」


 つむぎは近世専攻だ。思い出せたのは、高校の教科書に載っていた旭日旗と、釣りの風刺画くらいだった。


 来週までに予習しておこう。

 つむぎは小さく頷いた。


「この行李には、鍵がかかっていたんです」

 柴田は、スラックスのポケットから出した鍵を手のひらに乗せた。

 なくなっていてもおかしくないくらい、小さな鍵だ。


「残っていたのが、奇跡みたいですね」

「そうですね。巾着袋に入れて、行李のベルトに括り付けられていましたから」


 カチリ

 小さい音がした。鍵が開いた音だ。

 留め具を外した柴田が、蓋を開いた。


「わぁ」

 つむぎは思わず声を上げた。


 中には、大小二つの木箱が入っていた。隙間には賞状を入れる筒や、黒くて小さい箱が詰まっている。

 木箱の上には、青白い封筒が置かれていた。


「出してもいいですか?」

「はい。どうぞ」

 柴田は手のひらで合図をした。


 つむぎは封筒を手に取った。宛名に「吉野蔵之助様」と書かれている。


「おや?」

 柴田が窓を見た。ブラインドがカンカンと音を立て、積まれた本の塔がゆらゆらと揺れた。


 視界が、ぐらりと歪んだ。


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