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行李  作者: 長廻三月
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17/21

3-4

 井戸は裏手にあった。

 前庭から土間の角を曲がった正面だ。前につむぎが追い出された台所からも近い。


「あら坊ちゃん、今お帰りですか?」

 手前の木戸から、四十代くらいの女性が入ってきた。手にはナスや菜っぱの入った野菜桶を抱えている。


 あら? この女性、どこかで見た気がする。

 つむぎは、慶一郎の腕の中で蹲(うずくま)って考えた。


「あ、ミツさん。ただいま帰りました」

「あらやだ汚い猫! どうしたんです?」

 ミツが顔を顰(しか)めた。

「あぁ、正人が拾ったんです。これから洗おうと思って」

「……まさか飼うんじゃないでしょうね?」

「きっとそのつもりでしょうね」

 慶一郎が小さな笑い声を漏らした。


 眉間の皺を一層深くしたミツが、勝手口の方へ後退りした。

「……わかりました。飼う事になっても、台所には近寄らせないでくださいよ」

「はい」

「嫌ですよ猫なんて。魚を日干しにしてると、すぐに取っていっちまうんですから」


 ブツブツ言いながら勝手口へ歩くミツの後ろ姿を、つむぎはじっと見つめた。


 トン

 音を立てて、勝手口が閉まった。


 思い出した! あの人はこの前、私を追い払った人だ。

 ……きっと、猫が嫌いなんだろうな。

 つむぎは耳を後ろに垂らして、慶一郎の腕に顔を埋めた。


 慶一郎が、つむぎの頭を指先で撫でた。



「お前はここで大人しくしてくれよ?」

 井戸の脇にそっと置かれたつむぎは、「ニャー」と返事をした。

「お、返事をしたのか? お前偉いなぁ」

 そう言って、慶一郎は井戸の中に桶を落とし、縄を持って力を込めて引き上げた。


「兄ちゃん、盥(たらい)持ってきたよ」

 木の盥を、重そうに両手で抱えた正人がやって来た。

「ありがとう」

 慶一郎が受け取った。


「あれ? 石鹸が入ってるぞ?」

「えへへ。ミツさんにもらったんだ。石鹸と、あと手拭いも!」

 正人が腰紐に付けた手拭いを取り、目の前で広げた。

「そうか」

 慶一郎は、嬉しそうに頬を緩めた。


 これなら、追い出されることはなさそう。

 つむぎは「良かった」と息を吐いた。


「じゃあ、猫を洗おうか」

「うん!」

 つむぎは、慶一郎に抱き上げられて、盥に張った井戸水の中に浸けられた。


 まずい。冷たすぎる。

 出ようともがくたびに、慶一郎の手や腕に細く赤い線ができた。

「兄ちゃん、猫、急に暴れたねぇ」

「そうだな。猫は水が嫌いっていうしな」


 慶一郎が片方の手で子猫を押さえ、もう片方の手で石鹸を擦り付ける。

 そして、両手で丁寧に洗った。

 絶妙な強さで頭、胴、前足と洗われているうちに、つむぎは落ち着きを取り戻していった。

 喉のあたりが勝手にゴロゴロと鳴るのを感じていた。


「大人しくなったね」

 正人が盥を覗き込んだ。

「そうだな」

 慶一郎は後ろ足を洗い、最後にしっぽの汚れを丁寧に落とした。

「水、真っ黒になったね」

「猫は白くなった……か?」

 水を換えるために、つむぎは地面に置かれた。


 さ……寒い。

 夏とはいえ、濡れた体を風が冷やしていく。

 もう我慢できない。


 つむぎはブルブルと全身を揺すった。

 泡と水しぶきが慶一郎と正人を襲った。

「うわっ!!」

「冷たっ!!」

 顔の前で手を広げたが、服はずぶ濡れだ。

 顔を見合わせた二人は、面白そうに笑った。


 笑ってるけど、これ、また水の中に入れられるんだよね。


 つむぎが心配した通り、慶一郎が井戸水を盥に入れていた。


「さぁ、もう一度洗おうな」

 慶一郎がつむぎを水につけた。

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