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井戸は裏手にあった。
前庭から土間の角を曲がった正面だ。前につむぎが追い出された台所からも近い。
「あら坊ちゃん、今お帰りですか?」
手前の木戸から、四十代くらいの女性が入ってきた。手にはナスや菜っぱの入った野菜桶を抱えている。
あら? この女性、どこかで見た気がする。
つむぎは、慶一郎の腕の中で蹲って考えた。
「あ、ミツさん。ただいま帰りました」
「あらやだ汚い猫! どうしたんです?」
ミツが顔を顰めた。
「あぁ、正人が拾ったんです。これから洗おうと思って」
「……まさか飼うんじゃないでしょうね?」
「きっとそのつもりでしょうね」
慶一郎が小さな笑い声を漏らした。
眉間の皺を一層深くしたミツが、勝手口の方へ後退りした。
「……わかりました。飼う事になっても、台所には近寄らせないでくださいよ」
「はい」
「嫌ですよ猫なんて。魚を日干しにしてると、すぐに取っていっちまうんですから」
ブツブツ言いながら勝手口へ歩くミツの後ろ姿を、つむぎはじっと見つめた。
トン
音を立てて、勝手口が閉まった。
思い出した! あの人はこの前、私を追い払った人だ。
……きっと、猫が嫌いなんだろうな。
つむぎは耳を後ろに垂らして、慶一郎の腕に顔を埋めた。
慶一郎が、つむぎの頭を指先で撫でた。
「お前はここで大人しくしてくれよ?」
井戸の脇にそっと置かれたつむぎは、「ニャー」と返事をした。
「お、返事をしたのか? お前偉いなぁ」
そう言って、慶一郎は井戸の中に桶を落とし、縄を持って力を込めて引き上げた。
「兄ちゃん、盥持ってきたよ」
木の盥を、重そうに両手で抱えた正人がやって来た。
「ありがとう」
慶一郎が受け取った。
「あれ? 石鹸が入ってるぞ?」
「えへへ。ミツさんにもらったんだ。石鹸と、あと手拭いも!」
正人が腰紐に付けた手拭いを取り、目の前で広げた。
「そうか」
慶一郎は、嬉しそうに頬を緩めた。
これなら、追い出されることはなさそう。
つむぎは「良かった」と息を吐いた。
「じゃあ、猫を洗おうか」
「うん!」
つむぎは、慶一郎に抱き上げられて、盥に張った井戸水の中に浸けられた。
まずい。冷たすぎる。
出ようともがくたびに、慶一郎の手や腕に細く赤い線ができた。
「兄ちゃん、猫、急に暴れたねぇ」
「そうだな。猫は水が嫌いっていうしな」
慶一郎が片方の手で子猫を押さえ、もう片方の手で石鹸を擦り付ける。
そして、両手で丁寧に洗った。
絶妙な強さで頭、胴、前足と洗われているうちに、つむぎは落ち着きを取り戻していった。
喉のあたりが勝手にゴロゴロと鳴るのを感じていた。
「大人しくなったね」
正人が盥を覗き込んだ。
「そうだな」
慶一郎は後ろ足を洗い、最後にしっぽの汚れを丁寧に落とした。
「水、真っ黒になったね」
「猫は白くなった……か?」
水を換えるために、つむぎは地面に置かれた。
さ……寒い。
夏とはいえ、濡れた体を風が冷やしていく。
もう我慢できない。
つむぎはブルブルと全身を揺すった。
泡と水しぶきが慶一郎と正人を襲った。
「うわっ!!」
「冷たっ!!」
顔の前で手を広げたが、服はずぶ濡れだ。
顔を見合わせた二人は、面白そうに笑った。
笑ってるけど、これ、また水の中に入れられるんだよね。
つむぎが心配した通り、慶一郎が井戸水を盥に入れていた。
「さぁ、もう一度洗おうな」
慶一郎がつむぎを水につけた。




