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80.漆黒の穴③

ゴォォォォォォォォォォォォォォォォォォォオオ


 漆黒の穴へと飛び込んだ青空心を最初に襲ったのは、底の見えない闇の中を落下し続ける感覚だった。上も下も、左も右もわからない。ただ、その絶対的な引力に対し、成すすべも無く恐怖に苛まれた。

 視覚という概念を脳から消し去っている今、心が周囲を目視することは出来ない。しかし、だからこそ未知の次元に直面している圧倒的な恐怖と没入感が、知覚を介さずに直接脳の回路を恐怖で満たしていく。


「うぅ……!! レナー!! ケイトー!! 居るかー!!」


 名前を叫ぶ。しかしその声は、自身のブレザーやスカートが風で激しくはためく音で掻き消された。心は、穴に入った直後、皆の気配が近くにあった感覚を覚えている。しかし、再びその存在を確認しようとした瞬間、脳はそれをノイズと錯覚しそのことを追い払ってしまう。それは脳の防壁を維持するために卓越感情を今一点に集中させている心たちの足かせとなっていた。


 本来、漆黒の穴を通過する際、ブラモンが通行の是非を判断するための試練が待ち受けている。しかし、その穴を作ったブラモンは穴の中にはいない。試練を見届けるブラモンが不在の今、心たちは落ちる恐怖はあれど、他には何のリスクもなくここを素通りできるはずだった。 しかし、その安息を阻む影が、暗黒の隙間から滑り込んでいたのである。


 落ち続ける恐怖の中、心の脳内に、小さな光のようなものが灯った。実際にはそれを想像する認識もないが、それは暗闇の中でみつける一輪の花のように、心にとって、あまりに優しく、そして儚いもの。

 視覚を遮断しているその脳内で、その淡い何かの存在を察知すると、それは心がよく覚えている少年の精神だとわかった。それに触れようとする心。卓越感情の内に閉じこもっている心の意識に、強烈な精神の塊が直接語りかけてくる。


「はっ!! ……ナオトくん!!」


 思わず声が漏れた。その精神の中に語りかけてくる。


『心……!!』


 ナオト奪回までどんなに悲しいことがあってもほとんど涙を流さなかった心の頬をそれが一筋の線ととなって溢れた。


『心、どうして、目を開けないの?』

「目を開ける?目を開けるってどういうこと!?」


ナオトが、心の瞼のうえから手で触れた。


『これだよ。目を開けて?』

「うん? め? 何をいっているの? わからない……」

『そうなの……? 目を開けるってわからないの?』

「?……わからない」


 その概念を消している心にとって、その意味が解らなかったのは、幸運だった。しかし


「こうするんだよ……」


ピタ……


 心は、ただ従順に従うしかなかった。


「どう? 見える……」


 瞼を開いても、視覚を消し、その概念をも消している心には視ることが出来ない。


『あ……あぁ。ダメダメ! そんなんじゃ見えるわけないよ! 自分の卓越感情を開放しないと!』


 しかし、スイミーとの約束は覚えている。


「ごめん、よ(・)く(・)わ(・)か(・)ら(・)な(・)い(・)けど、今、卓越感情を開放することは、出来ないんだ……」


 心を見ているもののその形は、足元から墨汁のような黒い靄《もや》が這い上がり、彼を飲み込み始めた。

 黒い靄が脈打つように転移し、ナオトを浸食していく。


『あぁぁぁぁああ!』

「ナオトくん……!」


 ナオトの悲痛な叫びが、心の精神に届く。黒い靄がナオトの全てを塗り潰し、ナオトだったものが一点へと収縮すると、心臓の鼓動のような脈動が一度、二度と響くと、今度はその一点が爆発的な勢いで膨れ上がり、禍々《まがまが》しい姿へと変貌を遂げた。


 実際に今、心の前に存在しているのは、腕を見ればその内部も同時に見えている、四次元空間の獣系ブラモンの姿だ。それは、ブラモンが不在のこの穴に侵入してきた、心たちを阻止しようとする、皇帝軍側の高等ブラモンだった。


「グルルルルルルル! これは醜い! 見えているものが! 全てめちゃくちゃだぁぁあ!」


 ブラモンは視界に入ったもののせいで半狂乱となっていた。心に、能力でナオトの幻影に触れさせたまではよかった。その能力の行使に気が回り、他のことから意識を逸らすことができていたのだ。しかし今は違う。自身や目の前の人間の全てが見えてしまっている現象には、高等ブラモン自身の脳も耐えかね、発狂しかけていた。しかし心はその敵の自滅を詳細に知る余地もない。


「ナオトくんが……ブラモンに……?」


 見るという概念のない心に向かって、黒いブラモンの剣が無慈悲に迫る。超感覚的に捉えたエメラルドの刃が、心の頬を掠めて浅く裂いた。痛みの信号が脳に走り、自分が傷を負ったことを知る。だが、胸中の悲鳴は、身体の傷の痛みなど微塵も感じさせてはいなかった。これまで心が使って来た人生、戦う目的のすべては、ナオトを救い出すことだった。救いたいと願っているその対象が、今、確実な殺意を持って自分を殺そうとしてくる矛盾に、心は立ちすくむしかなかった。



「ぐっ! やめてくれ……ナオトくん!  戦いたく……ない……!」

『こっちへおいで……グルルルルルォォォ!』


 一瞬ブラモンの意志から溢れ出したのは、紛れもないナオトの声だ。そのフレーズは心がいつかベッドの上で聞いた、ナオトの言葉だった。だが、その手にある剣は確かな殺意をはらんで心を狙い、冷徹に突き出される。感覚だけで紙一重で避けていた防戦一方の心に、無慈悲に傷が増えていった。腕を、脚を斬られ、激痛で意識の連続性が切り裂かれそうになる。ナオトの声で命を狙われるという極限の地獄に、心の精神は崩壊の淵に立たされていた。


『心っ……! 心っ!!』


 暗闇の底へと堕ちていく最中、意識がおかしくなっていった。その中で脳裏を過ったもの。それは、神宮寺レナと初めて拳を交えた時の記憶だった。あの時、彼女の拳は容赦なく心を叩きのめした。真剣勝負だったからこそ、その後親友となった。友情を教えてくれた。あの戦いこそが、ここへ至る道の始まりだった。そんな記憶の残像が浮かび上がると、また聞こえてきた。それは対峙するブラモンには聞こえない声だった。


『心! しっかりしろ心! お前、何迷ってんだよ!』


 耳元で、レナの叫びが聞こえた気がした。それは物理的な距離を超え、次元の闇を突き破って響く、レナの魂の叱咤激励だった。それが意識の中を伝って鋭く突き刺さった。


「レナ……」

『敵か味方か、それすら判別できてないのか! よく感じ取れ、あれが何なのかを!』

「だって……だって、さっきまで確かにナオトくんの気配だったんだ! あの声も、あの感情も……本物としか思えないんだ……」


 心は悲鳴に近い思考を返す。情愛が、判断力を鈍い霧のように包み込んで離さなかった。だが、その甘さを引き裂くように、レナの激情が脳内で爆発した。


『目を覚ませ馬鹿っ! あれはナオトくんなんかじゃない! オミナス・ベイパーが作り出した、お前の記憶をなぞったヴィジョンに決まってるだろ! これまでだって見てきただろう!? こうやって心の隙間に滑り込んで、精神を腐らせて弱体化させているんだ!』


「オミナス……ベイパー……」


 その不穏な響きが、心の麻痺した意識に冷水を浴びせかける。これまで何度見てきたこと……そのひとつひとつが走馬灯のように蘇る。


「オミナスベイパー!! そ、そうだ……! わかっていたはずなのに! なにをやってんだ私は!! 目の前にいるのは、私の知っているナオトくんなんかじゃない!」


 心は、奥歯を鳴らすほど強く噛み締めた。


「私の中でナオトくんを操り……その声さえも卑劣な罠として利用し、私を倒そうとしている……。あいつは!情けなんて無用な、敵のブラモンなんだ! 今私の前には、敵しかいないんだ!!」


 その時、やっと心の魂に迷いを焼き切るような戦意が宿り始めた。敵と認識した瞬間、内側に閉じ込めていた卓越感情をあえて爆発させた。心は【無刹】を使い、目の前のヴィジョン、そのものの剣筋が、顔の前に止まって見えるほどのスローモーションへと変わる。

 落ち続ける引力を逆手に取り、見えない四次元の『壁』を全力で蹴った。一閃の光となった心は、ブラモンの懐へ潜り込むと、全神経を右足に集中させ、目の前の『バケモノ』に対し、ひねりを加えた渾身のハイキックを放つ。


「うぉぉぉぉぉぉぉぉぉお!」


ドッゴォォォォォォン!


 心の右足はエメラルドグリーンの剣を木っ端微塵に粉砕し、そのままブラモンの首筋を深々と捉えた。


「あんたは……何なんだ!? その形は……!?」

「ぐぅぅぅ……バカな……。オミナスベイパーで主のいないこの穴に干渉することは出来た……そしてお前たちをここで確実に葬るはずだった。皇帝軍である私が……まさか、これほどの『卓越感情』だとは……」

「皇帝軍……!? じゃあ、ナオトくんは……!」

「ククク……俺たちは、お前の中の甘い記憶を暴き、恐怖を形にして喰らうつもりだった……だが、たとえ俺たちが現れなくとも、漆黒の穴を通ろうとする者には、安息はない……どんな形であれ……お前たちには試練が待ち受けていたはずだ……お前たちは……アグダラで……果てるがいい……!!」

 不気味な嘲笑の言葉を最後に、黒いブラモンの存在は収縮し、一瞬の光となって消滅した。それを確認すると心は咄嗟に目を閉じた。


「なるほど……見たら発狂するって意味が分かったわ……。見ちゃったじゃんか……バーカ!!」


 常人の脳であれば、前後左右の概念すら歪む不可解な光景に処理が追いつかず、瞬時に自我を崩壊させていただろう。だが、これまでの過酷な試練で揺るぎない覚悟を培ってきた心にとって、その狂気の空間は自身の精神を破壊するほどの脅威ではなかった。未知の次元に対する恐怖や絶望すらも、彼女の強靭なメンタルの前では、ただの『悪趣味な映像を見せられたことへの怒り』へと変換されたのである。


 落ち続ける感覚が、次第に薄れ、その恐怖も消え去っていった。脚に地面を感じると、縦軸と横軸のような白い光の線が放射状に広がる。そして心のいる位置からのその世界の形が形成されていくように、暗闇だったそこは一瞬にして爆発的な光となって広がっていった。


◆◇◆◇◆◇◆◇


「うぅっ……眩しい……」

 瞼を焼く強烈な太陽の光と、肌を焦がす熱風が心の身体に触れる。それを察知し、完全に視覚を取り戻した心が、目を開けて周りを見渡すと、そこにはどこまでも続く砂漠が広がっていた。遠くの山は薄く霞み、見上げた空には、太陽と雲の他には、三つの月のようなものが見えた。

 先ほどまでの、江茂志市の湿った空気は、もうどこにもない。そっと地面の砂を手ですくい、掌からそれをこぼし、両手で払う。

「ここが……アグダラ……」

 辺りを見渡すが、誰も居なかった。先ほどまで脳内で声をあげてくれたレナの気配もない。


「いや、きっとレナたちも、この世界のどこかに辿り着くはずだ!」


 心は砂を強く踏みしめ歩きだした。


 そして今ようやく、長く過酷な本当の戦いが、始まろうとしていたのだった。




――続く

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