79.漆黒の穴②
「ここから先は、見学お断りって雰囲気だね」
千春がノートパソコンを抱え直し、眼鏡の奥の目を鋭く尖らせた。吹き抜けの最奥、漆黒の穴の周囲には、すでに三十人近くの特捜部員たちが集まっていた。首から下げたIDカードを揺らしながら、計測機器を載せたカートを動かす者、それをビデオ録画する者、そして作業着の袖をまくり上げて指示を飛ばす者が入り乱れ、フロアは怒号に近い喧嘩腰のやり取りで満ち満ちている。
「おい! 磁場偏向のデータがまだ上がってきてないぞ! どこにやった!?」
「さっきからメインサーバーに転送し続けてるわよ! ログも見ないで文句言わないで!」
「そもそも、空間が歪み始めたときのケース管理はどうなってんだ! バックアップの計算が遅すぎる!」
「愚痴を言う暇があるなら、あなたこそプロセッサの割り当てを最適化しなさいよ! く、時間は大丈夫なのか!?」
人間の男性エンジニアに激しいタメ口で詰め寄っているのは、作業員用のボトムスを履いた女性型のロボットだった。かつて心たちがこの施設で目撃した、人間とロボットの対等な口論と似た光景だった。かつて朝比奈グループが十五年をかけて世界に導き出した、血を流さない一つの正解。それは、この非常事態の最中であっても生々しく機能していた。
「どけ! 邪魔だ!」
その喧騒を割るようにして、奥から大股で歩いてきたのは、神宮寺勘吉だった。 元教師らしい威圧感を放ちながら、押し寄せる従業員たちを一喝する。
「支部長! 中央の歪み測定値、想定の1.8倍を超えています!」
「うるさい、わかっている! 焦るな! 各員、まずは目前の断片データから繋ぎ合わせろ! 」
勘吉の背後には、妻・ジェイダ、そして捜査部長の西条咲の姿もあった。
「あぁ……レナ、とうとうやったのね……」
「早かったわね……最初は幼く見えたお前たちも随分成長したものだ……」
「へへ!」
レナの声に、勘吉が鋭く振り返る。その瞳に、心、レナ、ケイト、そして魂と千春の五人の姿が映った。
「レナたち……!!これは、お前たちの成果だろう?しかし思っていた穴とは、ちょっと違ったがな……」
「親父……!」
勘吉が指し示した先。直径数メートルにおよぶ漆黒の穴が、地上から数十センチ上の空間に ぽっかりと浮遊している。それはこれまでに心たちが見た、地面に張り付いたマンホールのような『黒い生命体の影』とは違っていた。空間そのものが円形にくり抜かれ、重力を無視して浮かんでいるのだ。光を一切反射しない絶対的な黒。その輪郭の周りは、細かく震えて周囲の空気を歪め続けている。
「す……凄いエネルギーだ……これが本当に……アグダラとかいう惑星に繋がってるのか……!」
千春が限界まで目を見開き、息を呑んだ。
「あ、そうだ……咲さん!!向こうの住人が、中は四次元だから見るという概念を消さないとやばいというんだ……どうしたら……」
「それを答えるのは、もはや……私の領分ではないわ……向こうに行く前に話しておきたいだろうと、すでにあなたたちの友人たちを連れてきた」
「まずは……ワシからじゃの!!」
「あ! スイミー!!」
スイミーの眼は、漆黒の穴を前にした3人を、満足げに見渡した。
「ふふ……お前たち、久しぶりじゃの! まぁ挨拶は良い。お主たち、とうとうここまで来たんじゃのう……!! しかし、これは、ワシが見てきたものとは違う漆黒の穴じゃ」
ケイトが話しかけたそのスイミーという男を初めてみた魂と千春はその少年にしか見えない男の年齢をあとで聞いて驚くことになる。しかし今は出会いと再会に浸っている暇はなかった。せっかく現れてくれた漆黒の穴がいつとじてしまうかわからないのだ。だが先ほどレジスタンスの男からきいた漆黒の穴を通るときの注意点だけは厳守しなければならない。その対応をしてから穴に入る必要があった。
「四次元だから見るという概念を消す……それは意識を脳に伝達させないようにすること…じゃ」
スイミーは、深く落ち着いた声で、じっと心たちの目を見つめた。
「見るという概念・認知を脳から消し去るには、お前たちの魂の根底にある『卓越感情』、そのエネルギーの指向性を完全に内側へと反転させ、脳の防壁とするのじゃ」
「卓越感情を……内側へ反転させる?」
心がオウム返しに呟く。
「そうじゃ。心、お前さんの根源にあるのはナオトへの執着から生じた『哀しみ』。レナは戦いの中で研ぎ澄まされた『驚き』。ケイトは未知の理を繋ぐ『喜び』。お前さんたちがこれまで外の世界に向けて放ってきたその巨大な永続的感情を、漆黒の穴の中に居る間、すべて自分の内に収束させるんじゃ。視覚、聴覚、皮膚感覚……その中から視覚のスイッチを脳から切り離し、己の卓越感情という強固な殻の中に閉じこめるイメージを持つんじゃ」
スイミーの説明は一聴、抽象的といえた。しかしこれまで卓越感情を爆発させてきた3人にとっては、それだけで丁寧な説明だと思った。つまり、これまでの逆をすればいいのだと理解した。心、レナ、ケイトの3人はそれぞれの胸元に手を当て、自らの卓越感情の動きを内側へと集中させる感覚を掴もうとした。
「難しそうだけど、やるしかないな。……私たちの『覚悟』が本物なら、きっとできるはず!」
レナが不敵に口角を上げ、不気味に浮遊する絶対的な暗黒を睨み据えた。
「……ああ。私は……ナオトくんを連れ戻す。その願いだけを頭の中に残して、あとは全部消す」
心は強く拳を握り締め、スイミーに向かって真っ直ぐに答えた。
「うむ! その意気じゃ。お前さんたちなら必ずできる……さて、ワシの役目はここまでじゃ。頑張るんじゃぞ!そして他にもお前さんたちと言葉を交わしたい者が、まだ後ろに控えておるぞ」
そして後ろに隠れていた金色ブラモンが、まるでその場の重苦しい空気を振り払おうとするかのように激しく動き出した。
「ファイト!ファイト!心、レナ、ケイト!みんな、負けないで! ボク、ここでずっと応援してるよっ!! みんなの『卓感パンチ』で敵をドーンだ!! あ! 卓感って卓越感情の略だよ! どうでもいいけど!」
「まぁ!! 金色ブラモンまで!!」
「えへへ、頑張ってね!!」
二人はそう言って小さく笑うと下がった。
「あぁ……!! 脱出できたんだね!!」
「良かった……!!」
その横にいたのは、この街の長として、そしてかつては心たちをトーナメントに参加させてその実力を測り、そして認めた市長その人だった。その瞳は以前と変わらず優しく輝いていた。それをみたレナが安堵の表情で言った。
「 市長!! 無事だったのか!」
「ありがとうございます。秘書と二人で力を合わせて、なんとかあの後あの空間から逃げきることは出来ました」
「やったぁあああ!! ……あれ? 市長、秘書は? 」
心の問いに対し、市長は一瞬だけ遠い目をして口を噤み、それからゆっくりと首を振った。
「……秘書について、触れてはいけない。特に、心さん、あなたは……」
「え……!?」
心にとってそれは意味不明の返事だったが、レナとケイトはその言葉の裏にある正体を、すでに悟っていた。
「でも、これだけは言えます。彼女は、自らの意志で、帰るべき場所へと帰りました」
「……そっか!! でも帰れたなら、良かった!!」
「ええ……よかったわ……本当に……」
心が明るい声で言うと、ケイトも安堵の表情を浮かべた。ふと、市長は3人の後ろに立っていた、初見の人物に気づく。
「その方は?」
「あぁ、魂さんと千春! 新しい仲間だ!」
「あ、どうも……ってか市長なの!?」
「お、押忍!!」
「少し会わない間に、もう新しい仲間が? 凄いですね! あなたたちは、仲間を集める力があるようですね!」
「今回は私たちは心たちと同行はできないのですが……」
「あら、そうなのですか?」
「まぁ普通に……不合格にされたんだよなぁ……でも私は今はBRFの施設の方が気になるかなぁやっぱり!」
「なるほど……では一緒に見送りましょう」
市長は、最後にそんな彼女たちの成長を眩しそうに見つめ、街の主としてではなく、一人の大人として言葉を送った。
「江茂志市の未来は、あなたたちの手の中にあります。どうか……生きて戻ってください」
「大丈夫だよ! 息子さんの名前も覚えてるし」
「雅彦さんね!!」
「ありがとうございます!!」
市長との話が終わると雑踏の中から一人の若い男の声が聞こえた。
「俺も! 俺も!」
「……えぇ!! ……八木じゃん! なんでこんなとこに居るんだよ!」
現れたのは、クロコーの八木皇治、その男であった。殺気立った地下の光景と、目の前に鎮座する異様な穴を見て、一瞬だけ足を止めた。
心が驚きの声を上げると、八木はバツが悪そうに頭を掻き、それから鋭い視線で心とレナを順番に睨みつけた。
「……なんか……とんでもねえことに足を突っ込んでたんだな、お前たちは……俺たちの知らないところで、勝手に街の命運背負って、勝手に死にそうな顔してやがって!!」
八木の声には、貴重なライバルたちを危険な場所へ送り出さねばならない悔しさと、何もできない自分への苛立ちが滲んでいた。彼は一歩踏み出し、心とレナの前に立った。
「正直、俺には何が起きてるのかさっぱりわからねえ……その穴の先がどうなってんのかも、行こうとしている場所も知らねぇ……だがな、お前らがどこかへ行くってんなら、俺にできることは一つだけだ」
「八木……」
八木は拳を強く握りしめ、まるで自分自身に言い聞かせるように、腹の底から声を絞り出した。
「江茂志市のことは、この俺に任せておけ!!お前たちが戻ってくる場所は、クロコーが守ってやる!だから……余計な心配せずに、あっちで思い切り暴れてこい。分かったか!」
「お……お……おまえが言うな!! 元々この街で一番暴れてたのは、お前らクロコーだろうが!」
心の全力のツッコミが、フロアに響き渡った。
「はは……ははは! ホントだよ、八木さん!! あんたが街を守るなんて、明日は雪が降るかもしれないわ!」
「お……お前らうるせぇぞ!!」
レナの笑い声は、危険に満ちた空間を、一瞬だけ暖かな日常の色に染め上げた。八木は赤くなって口を尖らせたが、最後には少しだけ寂しげに、しかし力強く笑い返した。その笑顔こそが、これから弱肉強食の地へと向かう3人にとって、何よりのはなむけであった。
「お前たち、他には、もう居ないか?」
勘吉のその言葉は、「他に話しておきたい相手はいないか?」という意味だった。心の脳裏には、最後に、家を出る時にいつも通り交わした、何気ない挨拶が浮かんでいた。
◆◇◆◇
「じっちゃーん!! またちょっと出てくるねー!!」
「あんまり遅くなるんじゃねーぞぉ!!」
◆◇◆◇
「……。」
心の胸中に、もしあれが最後だったなら、もっと別の言葉があったかも、と過った。ケイトもまた、自分を支えてくれた人たちに何も伝えていなかったことが、重い責任感となってのしかかっていた。しかし、その重苦しい空気を察した魂。その口から、信念に触れた言葉を発した。
「別れの言葉は二度と会えない、あるいは戻ることがないときに言う言葉だよ。皆はちゃんと戻ってくるつもりなんだろう?感傷に浸る必要はないと思う」
「……そうね! 魂ちゃんの言う通りだわ。戻ってくることが前提なのだから、別れの挨拶は不要ね!」
心もまた、拳を握りしめ、自分の中の迷いを断ち切った。
「そうだ! 湿っぽいのはらしくない! じっちゃんには、戻ってからたっぷり説教されることにするよ!」
「……。」
レナには自分だけが肉親に挨拶をできる環境にいることに、少し複雑な気持ちがあった。ちらりと勘吉の方へ視線を送る。勘吉は何も言わず、ただ力強く一度だけ顎を引いて頷いてみせた。その不器用な親父のエールを受け取り、レナはフッと小さく笑って前を向く。
「……じゃぁ、行くか!! みんな、用意はいい?」
心が先導する。
「あぁ!!」
「えぇ!!」
「心、待て!」
「ん?」
「最後に! 先ほどの卓越感情を……内側への収束を行ってから入るんじゃ!! 良いか、落ち続けている間は漆黒の中じゃ。その中では決して一点に収束している卓越感情を開放してはならんぞ」
「うん! わかってる……」
そのことだけは肝に銘じ、三人は、いつかのスイミーの特訓、瞑想で心の澱みを消すことから始まったあの三日間で憶えたコツを思い出す。その後、互いに手をつなぐと、自ら目を瞑った。雑念を払うがごとく、自分の脳にある視覚への導線を打ち切ろうとする。もはや誰も話しかけようとせず、それを見届けた。深い沈黙のあと、三人から視覚という概念が完全に消え去った。無くなったそれを意識することも出来ないまま、ただ互いに強く握り合った手のひらの温もりだけがある。心、レナ、ケイトは、引き寄せられるように浮かび上がると、揺らめく漆黒の穴の中へ、吸い込まれていった。
――続く




