41.ニコイチ
次の日の午後二時ごろ。夏の陽射しが、静かな住宅街を白く照らしていた。古びた二階建てのアパートの一室の前で、ケイトは足を止める。茜の家だ。ケイトは短く息を吸い込み、玄関のチャイムへと指を伸ばした。
ピンポォーン
玄関のチャイムの音が鳴り終わるよりも早く、家の奥から怒鳴り声が飛び出した。
「ふざけんな! この野郎!」
思わず、ケイトの肩が跳ねる。玄関越しでも分かるほどの荒々しい声だった。続いて、足音と、乱暴に何かを叩くような物音。しばらく待つと玄関のドアが開いた。顔を出した茜は、どこか気まずそうに笑った。
「……大丈夫?」
ケイトが小さく尋ねる。
「大丈夫! いつものことだし。外、行こう!」
そう言って、何事もなかったかのように靴を履き、ケイトの手を引いた。家から少し離れた、小さな川沿いの遊歩道。風が通り抜け、さっきまでの空気よりも、少しだけ軽い。
「で、どうした?」
歩きながら、茜が何気なく聞いた。
「あ、うんとね!」
ケイトは、カバンの中からその本を取り出した。
「これを、茜に渡そうと思って」
茜は一瞬、目を見開く。
「え……漆黒の書!!」
思わず声がでる茜。
「これを、どこで?」
ケイトは、初めてこの漆黒の書を富士見乃屋書店で見たことを思い出し、それが店にまだ残っていたので購入したことを告げた。尤も、それを見かけたことはその数時間後に伝えていた。しかしその時はクロコーとのいざこざの真っ最中だったのでタイミングが悪く、聞いた茜もよく覚えていなかったのだ。
「茜がもとから持っていた本を私にくれたから。これはそのお返しになるかはわからないけど、茜にって思って」
少し間を置いて、ケイトは付け加えた。
「……茜のためのものだったらいいね!」
一瞬の沈黙のあと、茜は本を受け取り、ぎゅっと胸に抱いた。漆黒の書。 当事者として妥当な人物が、妥当な選択をし、妥当な行動を取った時にのみ、その者に能力を授けるもの。それは、当事者に相応しくない者が触れた場合、拒絶の反応を示すが、その時は、茜はなんの抵抗もなく手に取ることが出来た。
「ありがとう!」
心からの感謝の言葉だった。
◆◇◆◇◆◇◆◇
二人は茜の家から、遊歩道をずっと歩いていた。目的地があったわけではないが、気づけば二人は、地図でいえば江茂志市の最南端にまで来ていた。そして市営の一つの建物の前に立っていた。
「……ここ、なんだろう?」
白い外壁に、控えめな看板。川添博物館と立派な大理石に文字が刻まれている。
「あー!! ここ、気になっていたんだ! 今この一角で絵画の展示会が開かれているんだよ」
茜が看板の内容を読み続ける。
「柳亮太という人の絵らしい。でも今月で終わるみたい。あと数日で終わるんだ。どんなもんだか、入ってみない?」
ケイトも興味がわき、2人は館内へ足を踏み入れた。静かないかにも博物館といった内装だ。その一角の柳亮太コーナーにやってくると、ガラス越しに座っている受付で700円ずつ払い、中を歩いていった。順に1枚1枚を見て回る。
「とても綺麗な風景画だね!」
「うん!」
一番奥の壁の中央に、それはあった。二人はその前で立ち止まる。それが今回の柳亮太の目玉の作品らしく、他の風景画たちと違って額縁がよりしっかりしたものだった。
作品名は『251の星』。そこには宇宙に散りばめられた星々を背に、二つの惑星が煌めいている。そしてその二つを貫く、一本の赤い閃光。不思議な構図に、二人が思わず心を奪われたそのとき、背後から明るい声がした。
「その絵、気になりますか?」
振り返ると、一人の男性が立っていた。訪問者に挨拶回りをしているらしく、穏やかな笑みを浮かべている。『柳亮太』、その人だった。彼は楽しそうに語り始めた。
「これはですね、宇宙がテーマですが、もっとも言いたいことをこの『赤い閃光』で表現しています。想像してみて下さい。紙を折り曲げると、離れていた二つが、ひとつになるでしょう?」
言葉を選ぶように続ける。
「そして、ここに描いたこの星は、地球と……」
彼は、はっきりと言った。
「こちらはアグダラという名があります」
その瞬間、空気が微かに揺れた。
「え……!? 何故、その名前を知っているんですか?」
二人は唖然とした。茜が、思わず問いかける。しかし、柳は困ったように首をかしげた。
「それが、わからないのです。自分が適当に考えた名前ではないことは、なんとなくわかるのですが……」
少し照れたように笑う。アグダラのことを全く知らない人が同じ答えを聞いたなら、ただの創作だからと解釈するだけかもしれない。 しかしこれまでを経験してきた茜とケイトの二人にとっては違う。この柳亮太という人物が、その言葉を知っていることだけで二人にとっては忘れられない名前となった。警戒心もあった。しかし。
「頭の中で芸術が爆発しただけかもしれませんね! あはは!」
その笑顔には影がなく、その言葉は二人の警戒心を解いた。
◆◇◆◇
恐らくは、オミナス・ベイパーの影響で、その言葉が彼の意識に作用したのかもしれない。その絵の最大のテーマ、それは赤い閃光に沿って折り曲げられた時、対照となるふたつのもの同士の距離を無力化する存在がありえる、といった、人類の限界を乗り越える、いわば新しい力の存在について説いていることに他ならないと、柳亮太は教えてくれた。それは、ふたつでひとつ、ニコイチという、彼女たちの生きる世界に存在するひとつの『理』から生まれたもの。そこから『251の星』というタイトル、ということだった 。
◆◇◆◇
(なるほど……)
ケイトと茜は納得した。同時に思う。
(距離の無力化……それがアグダラへの道となるのかも……)
「251って最初星の数かと思った!」
「わたしもだわ。こんなに綺麗に星が散りばめられているからねぇ」
「ふふ。でも、どのように解釈して頂いても問題はありません……解釈は観て頂いた方の自由なのです」
彼に『敵意』がないことだけは、はっきりと分かった。二人は、自分の道を突き進む柳亮太という芸術家を、その日から応援しようと思った。
絵を見終わった後、茜が言った。
「展示室を歩きながら、一応辺りを見回してみたんだけど、あの漆黒の書が放つ禍々しい気配はどこにも感じられなかったわ。ちょっと残念」
「え!? ……ちゃんと探していたのね……わたし絵のことばかり考えてた……」
ケイトは少し申し訳なさそうに言った。
静寂に包まれた展示室の奥深くで、『251』に描かれた赤い閃光と二つの星は、いつまでも美しい輝きを放つのだった。
――続く




