37.空白
その日、夏休みが始まった。それは学生たちにとって、誰もが待ちわびる特別な長い休暇だ。そしてその約一ヶ月半の間に、何が起こるかは分からないが、楽しいことがあるに違いないと胸を膨らませるのは、若者たちであることの証拠であり、特権だ。
最初はケイトも例外ではななかった。彼女の卓越感情である『喜び』がそうさせていた。しかし、気づけば、夏休みが始まって既に数日が過ぎていた。朝から強い陽射しが降り注ぎ、蝉の声が途切れることなく続く。しかし、その余韻に浸れるほどの余裕は、その年のケイトの夏休みにはなかった。終業式の日には、これから『夏休み』が始まるという期待は、確かにあったし、それは心の軽さともなっていた。しかし日が経過するごとに、しだいに期待に喜ぶ気持ちは薄れていくと、心の軽さはどこかへ消えてしまった。それは、焦りへと繋がるどうどうめぐりのはじまりだった。
(このまま何もない日が続く? いいえ、時間を無駄にしてはいけない!)
いつのまにか、自室の窓辺に立っていた。カーテン越しに差し込む光が、床に淡い四角形を作っている。風はほとんどなく、外の木々も静まり返っていてとても穏やかな午後だった。
(今日も特に予定がない。茜と出かける約束もなければ、家の用事もない。勉強? する気がしない。私は今自由なはずなのに……!!)
その自由は、思っていたよりも扱いづらかった。気持ちはあるのに身体を動かすことにひどく面倒くさく思える。
(何をしてるんだろう……私……)
ベッドに腰を下ろし、スマホを手に取る。友人たちの連絡先の画面を眺めるが、誰かに連絡を取ろうという気にもなれなかった。親友の茜に連絡すれば、たぶん本の話を聞かせてくれるだろう。心やレナなら、会話をもりあげてくれるだろう。
(みんなはこんなこと、あるのかな……)
何もしていないこの時間が、とても長く感じられる。ふと、ぼんやりと天井を見上げる。
(白い天井の一部を、こんな風に……じっと見つめることは、初めてかも……)
しかしそこを見ていても、何も変化はない。当たり前のことなのに、その「変わらなさ」が、その日は少し重たく感じられた。
(あぁ……勿体なく過ごしているわ……期待していたはずの夏休み……)
今ここにあるのは、何も起きていないという事実だけ。
「何か……始めないと……」
自問しても返ってくるのは空白だけだった。考えが形にならないまま、胸の内を漂っている。
机の上に視線を移すと、いつものように教科書とノートが整然と並んでいる。ふと引き出しに手を伸ばす。その奥のものを慎重に取り出す。
「漆黒の書……」
ケイトは確かに、この本から能力を得ることができた。
「いつの日か役に立つことがあるのだろうか」
ケイトは、その能力を持て余していた。茜が、事前に内容を読んで把握していた内容から、導いてくれたあの瞬間のことを思い出す。
(当事者は、本当に私で良かったのか? もしもあの場所にいたのが自分でなかったら、他の誰かが能力を得たのか? あのとき、「おめでとう」と語りかけてきた人物は誰だったのだろう? 能力を得た瞬間のあの高揚感、今まで生きてきた中で、あれほど幸福に感じたことは無かった。あれは一瞬の感情だったのだろうか?)
色々考えたが、その時のケイトが答えを導き出すことは出来なかった。
(心、レナ、茜は私を特別扱いしないでくれている。そして、茜は私のこの力について「そっとしておいてあげて欲しい」といってくれた。けれど……)
何かをしなくてはいけないと思うのに、答えは浮かばなかった。ケイトは本を元に戻し、再びベッドに横になった。仰向けのまま、目を閉じる。
◆◇◆◇◆◇◆◇
スイミーの合宿で『瞬刻再生』という新しい能力を会得することができた。それは、既に持っていた能力『ヴィジョン』を一度捨てることで、自分の意思で選び会得した能力だ。なぜそれを選んだのか? それを得た『理由』を欲しがっているのだと気づく。
「怪我したり、困った人を助けたいです」
高一のある日、クラスでそう願い出て保健委員に立候補したときの自分のことを思い出す。それは本心であり、純粋な気持ちだったことを悟る。やっとわかった。自分は、誰かの代わりに何かを成す人間ではない。けれど、誰かが前に進むための、『支える側』で居たいのだと。
(結局、やるべきことは変わらないんだわ……!! 折角得た力、それを茜たち、3人のために使う。空白があるのなら、その時のためにより強くなろう。まだ夏休みが始まったばかりの今日に気づけて良かった! 時間は、まだある!)
ケイトは居ても立っても居られなくなり外に出た。そして……。どこかの家の前に『よかったらどうぞ』と書かれている物と一緒に入っている食器皿を貰ってきて家に帰り庭にでた。それらを故意に落として割ると……。
パァァァァアア……
それを瞬刻再生で元に戻す。それを繰り返した。費やす時間を少しでも短くできるよう、努力を重ねるのだった。
――続く




