36.日常の黒い靄
それは、夏休みに入る約1週間前のことだった。
その頃から心のクラスで、小さな盗難が噂されるようになっていた。財布から消えた小銭。体操服のポケットに入れていたはずのタオル。教室の隅に置いていたキーホルダー等々。それが毎日だ。しかしどれも高価なものではないからか、被害に遭った生徒が担任に相談しても、クラス内だけの話で終わり、大事にはならなかった。そして取られた本人たちもそのうち『まあ、いいか』と流し、忘れ去られていった。
◆◇◆◇◆◇◆◇
その日の放課後のことだった。西日が校舎の壁に長い影を落とし、コンクリートがじんわり熱を持っていた。校舎内の一階の昇降口で、心が自分の下駄箱に近づいた時、下駄箱の向こう側で人の声が聞こえた。
「ふーんふふーん♪」
大人の男性の若い声だった。誰がいるのかと思い、心は下駄箱の隅から向こう側を覗いてみた。
(見たことない人……教師じゃない……生徒の誰かの父親かな?いや、それにしては若すぎるか……)
その男は、下駄箱を眺めた後、遠くに帰っていく制服姿の女子生徒たちを、ただ静かに、遠くから見ていた。年齢は二十代前半か。若干斜め後ろからだったので、表情はわからないが、ただ、斜め後ろからでもその妙に鋭い視線が見えた。じっと女子生徒たちを見ている。
(何をしてるんだろう……?)
「あ……」
心の気配に気づいたその男は、心に顔を向けた。
「やぁ!」
「あ、こんにちは」
心が応えると、男はにっこりしながら校門へと歩き去った。
(結局、何者だったんだ……)
◆◇◆◇◆◇◆◇
数日後の朝、全校集会が開かれた。壇上に立った校長は、いつものような柔らかな笑顔を浮かべてはいなかった。
「ここ数日、校内で金品や私物の盗難が発生しています」
ざわめく生徒たちにかまわず校長は続ける。
「今後、この学校で、そのような行為は決して許しません。それから、各自、持ち物の管理には、充分注意するようにしてください」
そう告げると校長は頭を下げた。その姿が、妙に重く見えた。心は、自分のクラス内だけの話と思っていたものが、学校中を揺るがす事態だったのだと悟った。
集会の後半では、長年学校の『用務員』を務めてきた初老の男性が壇上に呼ばれた。若干猫背のその男性は、作業着の袖を整えながら、穏やかな声で喋り出した。
「私の苗字は、相原と申します。といっても、先生方のようにみなさんと毎日接していたわけではないので、わたしのことはあまりご存じないかもしれません。でもわたしはこの学校で毎朝、門をあけて、あなたたち生徒さんたちがおはようございますと元気よく挨拶をしてくれるのが毎日の楽しみでした。長い間、お世話になりました。みなさん、学校生活を楽しく過ごしてください。それでは、お元気で……」
ささやかに拍手が起こる。続いて、新しい用務員の紹介があった。
「本日より着任しました、九条といいます。よろしくお願いします」
壇上に立った男は若く、整った顔立ちをしていた。女子生徒たちの間から、小さな声が漏れた。
「あの人、凄く若くない?」
「ねぇねぇ! 結構格好良くない!?」
(別に普通じゃん……。あ……)
九条の顔を見てそう思った時、心は思い出した。
(そうだ! あの人、下駄箱にいた人だ!)
◆◇◆◇◆◇◆◇
二日後。一つの変化があった。毎日のようにクラス内外で発生していた盗難が、ピタリと止んだのだ。生徒たちは『校長の注意が効いたんだろう』『見回りが増えたからだ』などと噂した。誰も深く考えようとはしなかった。問題が解決したのなら、それでいいのだと。
昼休みの屋上。心たち四人は集まり、風に吹かれながら他愛のない話をしていた。そこへ、あの九条が現れた。
「やぁ。君たち。初めまして!」
「あぁ、さっきの用務員さん、こんにちは!」
茜が応えるとみんなも応えた。
「こんにちは」
「ども!」
「こんにちは……」
「君たちは仲の良いグループなのかな?」
気さくな口調だった。何気ない会話の流れで、九条は尋ねる。
「君たち、趣味は?」
「うーんと私は、鍛錬になるかなぁ……」
「私もそうです!!」
心とレナが答えると、九条は一瞬目を細めたあと大きく目を見開いて言った。
「すばらしいね!」
穏やかに頷かれる。
「私は読書です」
茜も答えた。
「それもすばらしいね!」
ケイトは言葉に詰まり、少し間を置いて口を開いた。
「私……無いかも……」
九条は何も言わなかった。一瞬だけケイトを見て、すぐに視線を外した。
その視線が、妙に冷たかったことを、ケイトは見逃さなかった。
◆◇◆◇◆◇◆◇
それは夏休みが始まる二日前だった。九条はその学校を去ったという噂が流れた。一身上の都合による退職ということだった。その本当の理由は、用務員室に忘れ物を取りに来た元用務員が、新任の机にあった大きな段ボールの中身を見てしまったからだ。そこには、無くなっていた生徒たちの私物が数多く隠されていた。その段ボールの蓋の内側には「済」と書かれていた。
それは、教師たちの間だけで広まった事実だが、しかし警察を介入させることはなかった。これまで被害者の生徒から知らせは数々受けたが被害届を出すほどの事ではないという理由で。問題になる前に、切り捨てられたのである。そしてその用務員が辞めたという事だけ生徒達に広がった。
二日後、終業式は終わり、心たちは四人で下校した。ケイトがぽつりと言った。
「そういえばさ……」
「ん?」
「あの用務員さん、私に趣味がないことがわかると、ほとんど見てなかったのよね」
「お互い、あんまり知らない人だったからなぁ」
レナが答えた。
「私、何の本読んでるかとか凄い聞かれたよ……」
「いきなりだったよな……聞いてきたの。人の趣味とか聞いてどうするんだろ?」
心は、下駄箱の近くでのことを思い出していた。下校する生徒たちを見ていた、あの視線。
「いや、もしかしたら選ばれなかっただけ、良かったのかも?」
レナが、心の軽く言った本質に触れようとした。
「え!? つまり、ヤバい人だったってこと?」
「いや、知らないけどさ……」
心は言って良いのか分からなかった。
(この世には、バケモノ以外に、変な奴も『普通』に存在するんだ)
しかし、その正体を実際のところは知らない自分が、これ以上言ってはいけない、と思った心はそれを言葉で発することをしなかった。レナが言った。
「ただ一週間もしてないのに辞めるってのは、おかしなことだよなぁ~!!」
「でももういなくなったんでしょ? なら考えても無駄じゃない?」
そのまま茜は夏休みへと話題を変えた。尚、以降彼女たちが九条の話をすることは二度と無かった。
――続く




