31.因縁決着
スーパー裏のバス通りを右折し、なだらかな坂の道路を下った先にある『おばはん山』。その横の坂を登るとサッカー場だ。平日の夕方は練習の声で賑やかだが、土曜のその夜は驚くほど静かだった。しかしだれも居ないわけではない。グラウンド中央に、約束の時間を待つ五人の男女がいた。
グラウンドに電灯が設置されていなければ互いの顔すら確認するのが難しい状況だった。張り詰めた沈黙の中、一人の男が一歩前に出てきて大きな声で喋り始めた。約束の時間が、ついにやってきたのだ。
「青空心、やはり俺含めて3人だったわ。網野と大木だ。俺ら3人とも、お前と闘ってみたいってことだ。始めようか……」
その声は、重く湿った夜の空気に吸い込まれることなく、はっきりと心とレナの耳に届いた。声の主は、これまでの因縁に終止符を打つかのような決意に満ちた眼光を持っていた。3人の男のうちの一番体格の良い男、八木皇治だ。そしてその背後には心たちにとって初対面となる新たな二人の男がいた。
その一人は、網野広見。やや長髪でその前髪をかきあげると、端正な二枚目の顔を覗かせる。彼の足元には、キジトラの猫が一匹、足にじゃれつくように頭を擦りつけていた。
そしてもう一人の名は大木英雄。彼は不良座りの姿勢で、好戦的なギラギラとした眼で心とレナを鋭く見ていた。髪は頭頂部の一点だけが薄緑色で残されていて、そこ以外は綺麗に剃られている。対峙する心たちは、相手の顔をはっきり確認しようと近くにいた。そんな奇抜な特徴のある髪型を見て、心は思った。
(ぷっ……あいつのあだ名……ハゲワサビにしよっと!)
そして心のやや斜め後ろには、レナが立っていた。
「じゃあ……そろそろやる?」
「いや、まず私が相手になる!」
準備運動をしながら発した心の言葉に対しレナが制止した。レナは、まだ何か見極めなければならないことがあると直感していた。レナはその為に参加したのだ。普段、道場で心身を鍛える中、不良と呼ばれる連中とは無縁だったレナが、今、心と共にこの決着の場にいる理由は明確だった。
◆◇◆◇
正々堂々の闘いならば、そこに自分が介入する余地はない。だが、卑怯なことに対しては別だ。前回の商店街での闘いでは、クロコーの中にナイフを投げてくる者がいた。ナイフという凶器を持ち出すことは、レナの武道家としての誇りと、彼女が元から持っている正義感から決して許されない行為だ。商店街での出来事以降、度を超えた卑怯は排除すべきと、彼女は強く考えるようになったのだ。その理由で、彼女は心を見守るだけでなく、自らもこの決着の場に立つことに決めた。相手がどんな思いでこの場にいるのか。それを見極めるために、まず自分が相手になると言って相手の出方を伺った。
◆◇◆◇
それを聞いた網野は猫を抱き寄せ、その小さな命を慈しむように撫でたあと、腕を伸ばすと猫は少し離れていった。そして網野が低い声で言った。
「俺が相手だ。まずはお前を倒さないと青空心とは戦えないってなら……俺が倒してやる」
◆◇◆◇
網野は中学まで駅近くのボクシングジムに通っていた。そこに通う男たちからは、一目置かれる程の『ハードパンチャー』だった。彼の拳から繰り出される一撃には、見た目からは想像もつかないほどの破壊力を伴っていた。
そんな彼がジムで知り合い、同い年ということがきっかけで仲が良くなった須賀くんという少年がいた。網野がジムを辞めたあとも唯一尊敬しつづけているボクサーだ。そしてある日、網野は「須賀くんが青空心にアッパーの角度を指南した」という噂を耳にした。網野がこの場にいるのは、ただ喧嘩がしたかったからではない、須賀くんの実力を知っていて、彼が指南した相手への純粋な興味と、以前から街で耳にする青空心という強者の噂、その要因が重なり、その実力がどんなものか、直接確かめてみたいと思ったからだ。彼は、強さに対する純粋な興味でこの場に立っている。
◆◇◆◇
お互いに構えると同時に闘いが始まった。一方は空手の構え、もう一方はボクシングの構えという、異種格闘技戦だ。先手を打ったのは網野だった。低い姿勢からの鋭いジャブ。その真っ直ぐに放たれるジャブは、寸分の迷いも感じさせないものだったが、レナはそれを鍛え抜かれた体幹とスピードで難なく避ける。ジャブでさえ重くスピードのあるパンチを肌で感じ取りながら、格闘家であるレナは感嘆の念を抱いた。
(凄いパンチだ!!)
彼女自身、道場での稽古や心との組み手は経験豊富であり、ボクシング自体も未経験ではない。しかしレナの格闘技の空手が基本である。ボクシングとの他流試合それ自体には経験が無かった。網野によるリズムと重さを持つパンチを垣間見たレナはその時、その可能性とともに、昂りさえ覚えたのである。
そんな網野のパンチが絶え間なく飛んでくる。ワンツー、フック、時にはアッパー。立て続けに繰り出される猛攻からは、レナを速攻で片付けようという明確な意思が感じられる。一つ一つが重いそのパンチの、風を切り裂く音がレナの耳を時折かすめる。
しかしレナはただそれを避けているだけではなかった。網野のパンチの軌道、リズム、そして重心の移動を分析していた。
(こいつは正々堂々とやるタイプだ!)
レナは網野の闘い方から、彼が卑怯な手は使わない、無害な男だと判断した。その確信を得た瞬間、レナが避けながらずっと狙っていた『正拳突き』を繰り出した。レナの正拳突きはかつて青空心さえも気絶させた技。しかしこの時放ったのは、似てはいるがそれとは少し『コツ』が違うものだった。スイミーによる特訓中ですら、こっそり練習して完成させた技だ。渾身の力を込めた一撃目が網野のガードを打ち破る。そこまでは普通の正拳突きだったが、放った拳の腕を戻さず、そのまま少し腰を前に移動し、腹部に当たった拳に重圧の力を被せるもの。レナのその技は内部の骨をも破壊する。
(ゼロインチパンチ!!)
ドガァアアア!!
同時に二つの攻撃をもろに受けた網野は耐えようとしたが、桁違いの破壊力に膝が言うことをきかないのも無理もなかった。勝負は開始から二分としないうちに終わった。網野は暫くの間、息もできなかった。そしてとうとう膝から崩れ落ち、最後に地に倒れた。レナは息一つ乱すことなく、網野を見下ろした。
「く……俺がこんな……あっさり……お前やるな……俺の負けだ」
「ふっ……いや、あんたも強いな!」
「レナ、やったぁ!!」
微笑で網野を称えたレナが、次の相手、大木を警戒する。レナはニヤニヤと笑うこの男には会った時から怪しいものを感じていた。根拠はないが何か裏がありそうだという直感が今も消えずにいる。そしてその直感は、すぐに現実のものとなる。
「じゃあ、次は俺だなぁぁあ!!」
大木は、レナの前にゆっくりと歩み出た。初めて大木の声を聞いた心とレナはその甲高い声には拍子抜けしたが、レナはそれ以上にその眼光の澱みが気になった。
(やはりこいつ……どこか奇妙だ……)
「うらぁぁあ!」
フォッ
レナは、大木のその一発目の攻撃ですぐにわかったことに疑念を持った。
(こいつ! ド素人だ……というか、喧嘩自体したことがないんじゃ……?)
構え、拳の振り方、フットワーク、全てがぎこちない。そしてスローすぎるパンチは空振りするばかり。必死に蹴りも繰り出すが、その全てが空振りだ。避けなくても空振りすることすらある。レナは、なぜこの男がこの場にいるのかと、理解に苦しんだ。大木は断言できるほど弱く、いつでも終わらせられる相手だと思った。しかし、その大木の顔には怯みがない。口は得意げに口角を上げている。滑稽だが同時にそれだけは気がかりで、レナに先ほどの嫌な予感を思い出させた。
(しかし、こんな奴なら張り手で目が覚めるだろ……)
大木の眼前に立ち、何回かのそのスローな攻撃を避けた後、鋭い張り手を放つ。レナの手は道場で鍛え抜かれた掌だ。ただの張り手でも、そこから繰り出された張り手の衝撃は、並大抵の人間では耐えられない。
ビシィ!バシィ!
「うぎゃ! ぐわ!」
往復の張り手を数回。それで大木の頬は赤く腫れ上がり、その視線は揺れ、姿勢も崩れた。しかし、大木は不気味な笑みを浮かべて言った。
「それでぇ……終わりかぁぁあ?」
大木がその言葉を発した時だった。
張り手を食らわしたはずの自分の右の掌の方が、真っ赤に染まっている。一瞬、何が起こったのか理解できなかった。掌を凝視すると、ナイフを通したかのように切れていた。なかなか深い傷で更に血がダラダラと溢れ出した。
「お前……! 隠し持ってたのか! やはりいたか、凶器野郎っ!!」
「あぁ!! レナ大丈夫か!?」
予想していたことだが現実になり、レナが怒りを露にする。レナがこれほどの怒りを感じることは滅多にないことだった。
「ひゃ~はっはっぁあ!! 確かに俺は強くねぇ! だがこれの使い方はどうよ!!」
馬鹿にしたような大木の笑い声が響いた。その目には、レナを傷つけることが出来た喜びと、元々の自身の計画が上手くいったことへの満足感が含まれていた。
「……やってくれる……甘かったか……」
レナはその血まみれの手を思いっきり握りしめ、拳に変えた。
「後悔させてやる!!」
「あ~はぁ~ひゃぁあ!!」
しかし、その笑い声を止めたのは、レナではなく仲間の八木であった。八木の顔も、怒りで硬く強ばっていた。
「大木!! てめぇ……いつから凶器を使うようになった!?」
明確な怒気を含む八木の声に、一瞬たじろいだ大木だが、答えた。
「へっ! 喧嘩でヤバそうになった時、これで一発逆転出来たんだ。その時俺は悟ったぁ!! 不良の喧嘩はなんでもありってな!!」
八木は、大木のその言葉に深い失望と怒りを感じた。
「そうか…………」
そして八木の瞳に、氷のような冷たさが宿ったその時。
ガギッ!!
顔を強張らせた八木の、躊躇も容赦もない右のアッパーの一撃が大木を襲った。宙を舞って地面に叩きつけられ意識を失った大木の表情は、苦痛に歪んだままだった。
「ナイフなんぞ……!」
彼は、先日レナから教わった通り、自分たちの中にこのような卑怯者がいたことに、深く心を痛めた。
「レナ、あんたの言った通りだったな、悪かったな……」
「え?」
突然の謝罪に肩透かしを食らったレナの困惑の表情を他所に、八木は心の方へと振り向いた。
「心! 勝負だ!!」
「あぁ!! 来い!!」
その言葉をうけて堂々と構える心。この後どちらが勝っても、悔いはない。青空心と八木皇治の真剣勝負が今、始まった。
◆◇◆◇◆◇◆◇
八木は卑怯なことが嫌いで、己の拳でのみ勝負する。いつだってそうだった。それは彼自身の喧嘩の哲学であり、不良としての誇り。それは青空心も同じだ。下駄を脱ぎ、裸足で迫ってくる八木に対し、全身の神経を研ぎ澄ませてこれを迎え撃つ。
グォォォオオ!!
八木の繰り出すパンチは、一発目から本気だった。そして避けながらその拳を見た瞬間だった。振りぬかれるその拳の周りに、紫色に輝く光の膜が見えた。
「!?」
(いや……拳だけじゃない!! 全身が紫色の光の膜に覆われている! パンチを放つ時、勢いで振りぬいた先にも突き出ている!! 初めて見た……これが、スイミーが言ってたオーラってやつなんだ!! 卓越感情には色があり、その感情の度合いにより、炎のように揺らぐとも言っていた!)
初めてそれを目の当たりにした心は吃驚した。そして同時に、彼もまた卓越感情保持者であることを悟ったのだった。そしてそのことにレナも気づいた。
「あいつ……卓越感情を……!!」
ババババッ!!バババババッ!!
(そして……速いっ!! ヤバい!! この速さは……金色ブラモン以上だ!!)
「あぁ!! 心踏ん張れっ!!」
バババババババババッ!!
その攻撃のスピードは、心が今までで経験したことのない圧倒的なものだった。まるで残像を残すかのような鋭い八木の拳は、一つのパンチの動きが次のパンチへの予備動作となり次々と心に襲い掛かる。
時には左へ、時には右へと上半身を振り、かろうじてこれを避ける心だったが、その拳が振りぬいたあとから、オーラを帯びた鋭利な風圧もやってくる。それはまるで『かまいたち』だった。そしてスピードとパワー、その両方を兼ね備えた八木の攻撃に、心は完全に押し負けていた。避けるのに精一杯で、反撃の糸口がなかなか掴めない。その最中、心は八木の全身から尚も吹き荒れるオーラの形がはっきりと見え、理解した。
(ナイフを使った大木を倒した時の精神テンションの怒りとは違う……自分が認めないものは全て排除しようとする感情……これは……嫌悪だ!!)
感情の中でも最も鋭く最も排他的な『嫌悪』の感情。八木の攻撃を避け続けている心は、その刹那、八木という人間の凄さの一辺を見た気がした。どんな人生を歩んできたのか……しかし彼は紛れもなく人間だ。人間でありながら、誰からの訓練も受けることなく卓越感情を操っているのだ。
(こいつは……相当ヤバい奴だ!! こいつ、無自覚で卓越感情を操っているんだ!!)
(心……負けるな!!)
自分が何を振るっているのか、八木は気づいていない。ただ気に食わないという、心の奥底から沸き立つ衝動だけで拳を叩きつけている。
(しかしそれ故、制御がない! 卓越感情は、きっと使い方を誤ればただの暴力に成り下がり危険なんだ。つまり人殺しにもなりかねない。こいつはその恐ろしさに気づいていない! こいつは、わたしがどうにかしなければならない!)
心は無意識に奥歯を噛み締めていた。
バババババババババッ!!
(くっ……もう、持たない!)
心は焦り始めていた。全身の筋肉が悲鳴を上げ、呼吸も乱れる。避けに使う体力の限界が迫ってきた。
その時、どこからともなくやってきた野鳥が二人の頭上近くに飛んできたかと思うと、再びそのまま遠くへ飛んでいったその一瞬、八木への必殺の一撃のタイミングを狙うために心が意識を研ぎ澄ませる。八木の怒涛のパンチを、もはや感覚だけで避けていた。そしてわずかに生まれる八木の隙というか、『癖』を見つけた。
(腰のひねりを大きく回転させながら繰り出すときがたまにある! その瞬間だけ頭が少し右に傾いて、次のパンチへのモーションが遅れる!! 次だ!!)
そこに、右のハイキックを浴びせようとする心。だが、八木も一戦交えたあの日から心の攻撃の予習をしていたため、攻撃パターンを読んでくる。攻撃がそのまま転じて防御の姿勢にもなっていた。心が狙ったハイキックは、八木にかすりもしなかった。
(くっ……あの……アッパーしかない!!)
心のアッパー。それはボクシング部の須賀くんから角度がおかしいとアドバイスを受け、伝授してもらった、心のハイキックに続く得意技だ。
バババババババババッ!!
しかし八木の怒涛の攻撃がそのアッパーを叩き込む隙をあたえない。心が見つけた癖のひねりをなかなか出てこないのだ。
(こいつ……気づいたのか!? 自分の癖に……当てる隙がなくなった……アッパーがだせない!!)
その瞬間、アッパーのアドバイスを受けた時の須賀くんとのやりとりが鮮明に蘇った。
◆◇◆◇
「だから違うって!『見えたら』その通り、『なぞる』だけだよ!!」
「なぞる!? 何を!?」
「見えない?」
「何が!!」
「えー、見えないの? まぁ……そのうち見えるようになるよ!」
「え!! 何が見えるっていうんだ!?」
「見えないなら……教えられないよ……とりあえずアッパーの角度だけ教えてあげるよ」
◆◇◆◇
八木が、一瞬だけあの癖をまた見せた。繰り出したハイキックは空振りだったが、そのまま後ろ向きになったかと思えば、フェイントで「後ろ回し蹴り」を繰り出した。
だが、すでに対処のための予習をしていた八木にはまたもや効かず、払い除けられた。彼は心の動きを完全に読んでいる。
「ふはは! 予習どおりの動き!!」
(くそ……)
またもや焦る心。しかし、払いのけられた心が低い姿勢から次の攻撃へと転じた、本当にわずかな一瞬だった。目の前に一本の『赤い線』が見えた。
「はっ!!」
「う!?」
心はその瞬間にこれまでに培ってきた格闘の集大成を拳という一点に集中させる。心の眼を凝視していた八木も吃驚する。
(なんだ? 心のこの眼に映っている赤い線は? だが実際の空間にはそんなものは無い!)
八木はそのわけのわからない赤い線を掻き消そうとした。がしかしすでにその軌道を『なぞり始めている』心の拳が先だった。
◆◇◆◇
この『赤い線』こそが、須賀くんが心に「見えないの?」と問いかけていたもの。
この時の心たちには、その『事象』に名があることすら知る由もないが、心と八木に見えたそれは未来の心の拳の軌跡。
心が先ほどから狙いに狙っていたのは、一度も目視したことがないこの赤い線を、まず視認することだったのだ。
◆◇◆◇
そして眼前に現れたその線に沿って、須賀くんに指南してもらい更に改良を重ねて会得した『トルネード・アッパー』を放つことだ。ハイキックも後ろ回し蹴りも、それを視認するための時間稼ぎだったのだ。
(これか!! 初めて見えた!!)
ガキィーーーーーィンッ!!
描かれた完璧な軌道に沿って螺旋を描くように放たれたそのアッパーは、八木の顎を捉えた。
「うぉぉやった!! 心!!」
目を見開きながら、思わずレナが叫んだ。
「はぁっ……はぁっ……なかなか見えなかったけど、やっと……見えた……!!」
トルネード・アッパーをもろに受けた八木は、周りの景色がスローモーションで変わるのを感じた。目に映るものが星空に変わった時、八木は自身が負けたことを悟った。こうして心と八木の勝負がついた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
八木・網野・大木の3人はもう動ける状態ではなかった。網野は腹部を庇ったまま腰をおろしていて、大木は、依然として八木に倒された時の体勢のままだ。八木は仰向けに大の字で倒れていた。
「お前らとはこれで終わりだ! いいな!?」
静かに、しかし確かな声で問いかけた心。その全身には疲労感と達成感が広がっていた。
「ああ……終わった……俺たちの負けだ……」
すると大粒の雨が降ってきた。一粒、また一粒と、その場にいる者たちの皆の肌を冷たく濡らしていく。それはただの雨とは違い、まるでこのグラウンドで繰り広げられた全ての業と、これまでの因縁を洗い流すかのような、重く冷たい雨だった。
かくして、『クロコー』との決着をつけた心ではあったが、八木という強敵との決着がついた今、少し寂しい気持ちにもなった。格闘家でもある心には、新たな刺激を求める、満たされない渇望が常に存在しているのだ。クロコーとの戦いは、その渇望を一時的に満たしたに過ぎないのだ。
◆◇◆◇◆◇◆◇
その翌日。それは八木にとって長い一日だった。彼は兵隊と呼んでいた者たちへの自分自身のケジメをつけるために、昨日心たちと闘ったこのグラウンドで、『一人対全員組手』なるものを行っていた。八木が、その時だけ凶器の使用を許可した50人全員と順番に『タイマン』で勝負するというもの。一人、また一人と、八木は容赦なく倒していく。その拳には、グループの秩序を守るための強い意志が込められているが、心と戦った時のオーラはそこにはない。それでも心が認める程の力を持つ八木は強く、難なく最後の1人を倒すと、持っているナイフをとりあげ、すでに『組手』を終えて地べたで倒れ込んでいる者たちの傍らに、静かに寝かせた。彼の頬を伝わる汗は、顎から地面へと垂れ落ちる。
バッキィン!!
「これは『けじめ』だ。お前ら、もう、どんなことがあろうと、決して凶器は使うな。もし使ったら……ただじゃおかねえぜ。分かったな?」
素手でナイフを折り、そう言う八木の低い声は、有無を言わせぬ強い圧力を伴っていた。それに対し、八木に負けた者たちは痛む身体を引きずるようにして、震える声で答える。
「わかった……」
「分かったよ……」
「もう、勘弁してくれ……」
これを聞いた八木は、自分の血が滴っている右腕を、もう左腕で強く押さえた。腕の痛みは、彼の決意をより強固にさせた。
(これで、抑えることはできたのか……?)
抑制とは、統括するものにとってなかなか難しいことなのだろう。
(けじめはつけた。終わったんだ。大丈夫……)
八木は、自分自身に言い聞かせるように、深く息を吐いた。彼の顔には、疲労はもちろんあった。昨日の心との戦いの後に全員と勝負したのだから無理もない。しかしそれよりも、同時に清々しさもあった。これからは、自分を信じ、そして仲間も信じようと思った。もう『兵隊』とは呼ばないだろう。クロコーのトップとして、その責任を果たすことの難しさも痛感した。しかし彼は一歩踏み出したのだ。昨日から降っていた雨もやみ、晴れ晴れとした気分で遠くを眺めた時、初めて気がついた。空の一部が、赤色に染まっていることに。
――続く




