20.川辺の少年
心たちがBRFに赴いた日から一週間が過ぎた。BRFから教わったオミナス・ベイパー、その日常の中で起こる突発的な異変にはふとした時によく出くわすようになっていた。BRFのいう通り、この江茂志市はその影響により、一年以内にやってくる危機へと近づいているのかもしれない。
その日の夕方、心は全速力マラソンをしていた。辺りでは早くも虫やカエルの鳴き声が聞こえるようになった。シューズの紐をきつく締め直し、土手を駆け上がる。呼吸を整え、一定のリズムかつ、全速力で足を動かす。いつもならこの一体感が気分を気持ちよくしてくれるはずだったが、今日の心は違った。
(河川敷を流れる風も、遠くで聞こえる車の音も、どこかいつもとは違う感覚がするのは、オミナス・ベイパーの影響なのか……?)
全速力マラソンと呼称しているが、それは実は『出来るだけ』である。何十キロもある中、ずっとそれをすることは不可能だろう。それでも、身体が限界を訴えるとき、最後にあとひと踏ん張りしたあと、ようやくスローペースに切り替えるようにしている。スローペース中は、走りながら何度か大きく息を吸い込み、吐き出す、を繰り返すのである。
心はただひたすら、前へ前へと足を動かしていた。『折り返し地点』としている看板の手前の陸橋が近づいてきた。そして階段を下りて橋の下をくぐろうとした時だった。橋脚の陰に、小学生低学年くらいの一人の少年が座っていた。少年は大きな『スケッチブック』を広げ、真剣な眼差しで色を塗っていた。その横には、鞄と、無造作に置かれた色とりどりの絵の具箱と筆の束があった。曽井川の風景画でも描いているのだろうか。心は少年の近くを走り過ぎようとしたとき、少年に気づかれないよう、何となくその絵を横目で観てみた。
(わぁ……上手……そして綺麗な風景画だ……けど……)
心は思わず目を奪われ足を止めていた。しかし描かれていたのは、目の前に広がる曽井川の景色ではなかった。その情景は、心が実際には行ったことのない場所のはずなのに、懐かしみがあり、且つ幻想的なものだった。燃えるような夕焼けを背に、広大な砂漠にそびえる美しい建物。細かな装飾が施されたその建物は、陽炎のように揺らめき、遥か彼方まで続く砂の海を見下ろしている。そしてその絵には美しさの中に、少年の強い憧憬が込められているように心には見えた。
(砂漠……いや、考えすぎか。それにしても外で風景画を描いているのに、目の前の光景とは全然違う景色を描いているのは何故だろう?)
気になった心は、少年に声をかけた。
「ねぇ? 何……描いてるの?」
少年はビクリと肩を震わせ、慌ててスケッチブックを閉じた。その顔には、隠しきれない焦りと、微かな怯えが浮かんでいる。しかし少年は怯えながらも心を見たあとに言った。
「あぁ……な、何でもない、これは……ただの絵……」
少年は俯き、絵の具箱をがちゃがちゃと片付け始めた。その様子は、まるで大切な秘密を隠すような仕草だった。
「あ、待って。今のは、どこの風景だったの?」
核心に迫りつつも、心が優しく問いかけると、少年はちらりと心を見た。時間にして二秒ほど。そして、諦めたように、小さな声で呟いた。
「内緒だよ……それにみんな、そんな場所どこにもない、嘘だって馬鹿にするんだ。だから、あまり人には見せたくないんだ……」
その言葉は、心の奥底にある哀しみに少し触れた。馬鹿にされる、理解されない、だからもう誰にも見せない……言わない……。それは、彼女自身も幼少の頃、ナオトを失ったあの時に経験したことだ。ナオトを失い、誰にも信じてもらえない、分かってもらえない苦しさ。そうして心を閉ざし、二度と涙を流すことをやめると決心した、あの時の自分と重なる。
「そんなことないよ!」
「……?」
心は、少年が閉じたスケッチブックにそっと手を置いた。
「とても綺麗な絵だし、こう……引き込まれるものがあった! その絵はすごく何かを訴えかけている気がしたよ! だから話しかけたんだぁ」
「……ありがと……」
少年は少し照れくさそうにいうと、心は続けた。
「今度会ったときは、ちゃんと見せてね! お姉ちゃん、今マラソン中なんだ。……またな!!」
コクリ。
声に出さずとも頷いてくれた。心は笑顔で少年の肩をそっと叩き、また全速力でその場を去ってゆくのだった。
――続く




