痛いの、痛いの、飛んでいけ
宿に戻ると、ちょうどイーナが部屋から出てきたところだった。
「レイハさん、おかえりなさい。」
「ただいま。」
ただいま、なんて言えるのは弟が家にいた時以来だな。あとはもういない父上と母上。
『おかえりなさい、レイハ。』
『おかえり、レイハ。』
まだ、覚えている母上と父上の声が頭の中で響く。
『あ~ら、遅かったじゃない?この混血が。』
ゾッとするほど冷たい猫なで声を思い出した。
「大丈夫ですか?」
イーナが近くに来て、俺の顔を覗き込んだ。
「大丈夫。」
俺は笑顔をイーナに向けたが、イーナは眉を下げて不安そうに見上げて俺の両手を自分の両手で包んだ。
「震えてます。それに…。」
イーナに言われて、手が震えていることに気がついた。イーナは俺と目を合わせ、少し強く俺の両手を握った。
「『大丈夫?』と訊かれても『大丈夫』と頑張って笑顔を見せて答える人ほど、大丈夫じゃないんです。」
それはイーナに「大丈夫?」と訊かれて「大丈夫」と答えて大丈夫ではなかった人がいたからだろうか。
イーナはいきなり俺の背に腕を回し、さすった。
「痛いの、痛いの、飛んでいけ。お空の上まで飛んでいけ。」
そのまじないはシャイン教特有の魔法で傷を癒やす。だが、イーナはなんの魔力も込めて詠んでいないが、あったかい。
「ありがとう、イーナ。」
船乗り場のある町へ行く門を潜る。
「イーナお姉ちゃんとレイハお兄ちゃん、何かあったの?」
ナチュネが俺とイーナの雰囲気を感じとって訊いた。
「いいや、何も!」
「いいえ、何も!」
見事に被ってしまった。
「…あやしい。」
そして、いつお前はそんな言葉覚えてきた。
俺がイーナに慰めてもらった後、俺たちは正気と同時に、俺は男の矜持を、イーナは淑女の恥じらいを戻したことで二人して赤面して心の距離がぎくしゃくしてしまった。
「結局、レイハお兄ちゃんが言ってた竜さん、来なかったね。」
ナチュネが後ろを振り返って言う。
「そうですね。てっきり、レイハさんが助け出してこの先の森で自由になさると思ってました。」
「あの竜はいわば、扉の開いた鳥籠にいる鳥だ。勇気の一歩さえ踏み出せば、籠から出られるはずだ。」
何もしないことは何の解決にもならない。受け身でいることで相手は一旦満足するかもしれないが、一生、そのままでいても一旦であるだけだ。問題を先送りにしているから前に進めない。些細な切っ掛けさえあれば、人は変われるんだ。俺のように。
「自由になったときにここを通りますかね?」
「わたし、たまに空を見てるね!」
「そうしたらいいさ。」
俺たちは雲一つない青く澄みきった空を眺めた。




